第5話 離脱
加奈たちが走り出した数秒後に電妖体の反応を知らせる通知音が通信端末から鳴り響いた。この一瞬を共有したのは麻依の持つ端末も同様だったらしく、ほぼ同時に危険を知らせている。
数十メートル先では大型のガの大群が二人めがけて高速飛行を続けている。
疾走する加奈は呼吸を荒げるどころか、より一層の平常心を保ちながら視界の端に小柄な麻依と遠くから追走してくる虫の群れを視認した。今の距離を維持できるなら朝方に使用したゲートまでギリギリ間に合うだろう。
「待ってくださーい!」
「待たない。走れ」
「そんなー!」
加奈を追いかける麻依は現想界という厳しい環境下にいたためか、時折弱音を吐きながらも全力で付いてきている。彼女は加奈のように常人ではないと判断できるが、原因を悠長に考えている暇などなく、今は一刻も早く現想界という魔の異境から脱しなければならない。
薄暗い空と凍えるような寒さの雪がちらつく中で走り続け、遂にゲートを発見した。ここまで来れば人類と生き物たちが営みを続ける平和の地へ戻れるだろうが、気を緩めてはいけない。
ほんの僅かでも警戒心を解いた先に待ち受けているのが永遠なる死だ。そしてそれは着実に加奈たちの前に歩み寄っていた。
ゲートまであと数メートルのところで、群れとは反対側の上空から巨大なガの一体が襲い掛かってきたのだ。
「先回りされたか」
加奈はそう言いつつも落ち着いてサイバーアーツの刃を展開し、堂々とした八相の構えを取る。
「どうしたらいいんですか!?」
現実世界へと転移する経験の少ない麻依は電妖体と加奈を交互に見て混乱している。
目の前の電妖体を見て絶望に打ちひしがれそうになる麻依だったが、刀を持って先頭に立つ加奈を見て徐々に落ち着きを取り戻した。
「合図でゲートをくぐれ。私がこいつを倒す」
「で、でもそうしたら加奈さんは……」
「現実へ行きたいなら従ってくれ。今は時間がない」
鋭い双眸を旅人に向け、それだけ逃げ切る余裕がないのだと示す。
「わかりました」
麻依は素直に頷いた。わがままなど言える状況ではないのは明白だった。
電妖体の待ち伏せは予想できていた。ここで囮になり万が一加奈が戻れなくとも麻依は現実世界で生き残るだろう。
加奈が両足をしっかりと地面に踏み込み、電妖体を迎え撃つ態勢を整えた。
「今だ!」
加奈が号砲のように叫び、刀を振り下ろしてゆく。
「はい!」
勢いよく応えた麻依は、勇気を振り絞って突進するように水面に似たゲートへ飛び込んだ。
直後、加奈の放った斜めの斬撃が、目前のガの胴体を真っ二つに断ち切って一つの死骸を生み出した。
袈裟斬りを電妖体に向けてタイミングよく決めた結果、麻依の退路を死守したのだ。
加奈は死体が落下した音を聴く直前に麻依のくぐったゲートを通過し、事なきを得ている。
全身が武者震いを起こし、アドレナリンが脳から次々とあふれ出てくる。強者との一戦はいつも喜びが先にやってきた。
電妖体は現実世界に近づくことはできない。それがなぜなのかを加奈は理解していたが、それを危機から逃れていると思われる麻依に説明する余裕は微塵もなかった。
◇
「だ、大丈夫ですか!?」
一足先に現想界から脱出を終えていた麻依が、遅れて戻ってきた加奈に駆け寄った。
加奈の額には汗が滲んで前髪がべったりとくっついていた他、凍えるように全身の震えが数分間止まらなかった。それでも時間が経てば、それらも収まった。
「心配するな。どうってことはない」
気丈に振舞うまでもなく、加奈は戦いを終えてけろりとしている。
加奈の中での麻依は物分かりが良くて本当に助かった。おそらく麻依も過酷な現想界の中で修羅場を乗り越えてきたのだろう。
雪の降っていた現想界とは異なり、現実世界で晴れ晴れとしている夕焼け空を高層ビルの隙間から見上げた加奈は安堵する。心から生きているという感覚を取り戻すのはいつもこの瞬間にある。戦闘狂になる自分もここにはいない。
「やっぱり現実世界って平和なんですね。電妖体が一体もいないなんて……」
麻依も不思議に思うほど、現実世界が現想界に蝕まれていない現状に緊張の糸が切れて両ひざを折った。
「平和ではあるが治安は悪い。カツアゲに遭う前にここを離れるぞ」
路地裏のように人気がなく、数羽のカラスが物欲しそうに散乱したごみをくちばしでつついている。信じたくはないが、そのうち朽ち果てた人の死体をついばむ光景が増えてくるのかもしれない。
麻依の応答を待たずに人通りの多い大通りまで足を速めたが、加奈は振り向かない。しっかりと麻依の足音が聴こえてくるのが解るのだ。
ハプニングがありながらも危険な地域から抜け出せたが、ここまで来て有り金や現想界の武器を奪われてしまっては元も子もない。
二人はゲートを離れて地下鉄の駅の出入り口まで移動して立ち止まり、ようやく胸をなでおろした。
「ここまででいいだろう。修理士は自分で見つけてくれ」
「はい。色々とありがとうございました」
満面の笑顔と共に感謝の言葉を簡単に述べた麻依に対して、加奈はそこに返す言葉が見つからなかった。やはり、感謝されるとどこかむず痒く、心の底から嬉しいという気持ちをうまく表せない。
「あの……」
「どうした?」
「もしよかったらお礼をさせていただけませんか?」
「私にはいらない。家族を待たせてしまっているからな」
きっぱりと答えた。家族というか、家族同然の生活を送っている福原夫妻の事を想ってそう答えてしまった。
「そうですか……だったら連絡先だけでも――」
「遠慮しておく。今はユニットを直すのが先決だ。わかったか?」
「うぅ……否定できないです……」
麻依はしょんぼりしながら壊れた二つのユニットを両手に持って確かめていた。
「私はこれで失礼する。君もどうか元気でな」
加奈は街中に背を向けて駅の改札をくぐろうと歩き出すと「加奈さん!」と麻依に呼び止められた。
「またお会いしましょう!」
元気に手を振って見送る麻依を見て、加奈はいつもの調子で無表情になり、改めて帰宅への一途を辿った。
夕陽が更に傾きを加速させ、暗くなった空にはいくつもの星々が聴こえない声で歌っていた。
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