月は繭に包まれて

中田祐三

プロローグ

 扉を開けて外に出ると月はまだ西の空に鎮座していた。 その下を少女が一人、薄絹のような淡く白い吐息を手に吹きかけている。


 朝というにはまだ少し早い、夜というにはあまりに儚い。 


 すっかりと身体に馴染んだつぎはぎだらけの麻服に身を縮みこませた少女が庭へと進み出た。


 そしてあか切れだらけになった指先で井戸から水をくみあげて桶へと流し込む。


 たまにキンキンと冷えた飛沫が少女の手に跳ねるのでその度に先ほどと同じように息を吹きかけて耐える。


 桶一杯に水がたまるとヨイショと持ち上げて家に入る。


 家の中には何もない。 正確に言えばひび割れてガタガタと収まりの悪い木製の机がひとつ。 何度も修復して元の色すらわからない椅子が二つ。


 そして部屋の奥には寝台が置かれていて、そこには老人が横たわっていた。


「叔父様、すぐに湯を沸かしますので」


 そう言いながら小柄で痩せた彼女には満杯に水の入った桶は重いらしく、弱々しい足取りでくすぶった竈の上に置かれた鍋に水を注ぐ。


「辛いかい?」


 少女以上にやせ細った老人の声はそれでも力強く、寝台の置くから覗かせる瞳には得体の知れない力強さがあった。


「いいえ、私も16になりました。水汲みなんてもう慣れましたよ」


 少女の声には優しさがこめられていた。 しかしそれを聞いた老人の搾り出した声には大きな感情が込めらていた。


「ああかつては大臣職さえだした我が家のただ一人の一粒種であるお前がこんな苦労をするなんて世の大道というものはなんて儚いのだろう」


 言い方は柔らかくはあったが、その裏には計り知れないほどの怒りと恨みが込められている。


 少女が桶に水を入れるために何度も井戸を往復する間にも老人はぶつぶつと怨嗟の声を絶やさない。


「あの裏切り者たちさえいなければ、いいや帝が判断を誤らなければ…口惜しい、ただ口惜しくてたまらぬ」


 老人の恨み言を少女は聞きなれているのか、何も言わずに水を汲んでくる。


 やがて鍋が一杯になり、外と大して変わらない部屋の中に湯気がほのかに昇り始めるころに老人は少女を呼び寄せた。


「よくお聞き。決してお前の正体を誰にも話してはいけないよ、お前のことが知れれば我々はあの恩知らずどもに捕らえられて首をはねられてしまうだろう、私達が本懐を遂げるまでは決して誰にも心を許してはいけない」


 それは少女がこの生活を始めるようになってから幾度も繰り返された言葉だった。

 

 いやそれはもはや呪詛にも似た文言だったかもしれない。


「はい、はい…心得ております…かならず私が本懐を遂げますから」


 かつての名前を奪われた少女の言葉もまた何千回も繰り返された返事だった。


「さあ叔父様、湯が沸きました。身体をお拭きしましょう」


 そういって少女は老人の上体を上げさせてボロ切れとなった布でやさしく老人の背中を吹き上げるのだった。


 その間も老人はブツブツとなにやら繰り返していたが、少女はもはや何も言わない。 


 ただ夜が明けきるまで、月だけが少女を見ているだけだった。

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