小牧原美心はいただきますが言えない 26

 同じ日の二時ごろ。土曜ではあったが、雪輝は文化祭準備のために学校に訪れていた。

 雪輝のクラスでは他に、美心やリョウを初め、文化祭に積極的なグループが数人教室に集まっており、お菓子を広げながら、普段よりもゆったりとしたペースで作業が進められていた。どこからか聞こえてくる吹奏楽部の演奏。窓の外ではサッカー部とソフトボール部の声が混ざる。この普段とは違う空気の教室は、お昼の温かい日差しも相まって、どこか穏やかな雰囲気が漂っていた。


「小牧原さん、衣装合わせお願いしていい?」


 女子生徒が作業中の美心の後ろから声をかけた。手には彼女の言う衣装が抱きかかえられている。

「もちろん。それを着ればいいの?」

「うん! 隣の教室に人いなかったからそっちで着替えよっ。男子、覗いたら潰すからね」

 そう言って二人は教室を出て行く。途中で一度美心が振り返り、雪輝と目が合った。困った顔をいう訳ではないが、少しだけ眉を曲げ、赤らめた頬を持ち上げるようにして固く笑みを浮かべる。それがどういった感情の笑みなのかは雪輝には分からなかった。少しだけ体が美心の方に動き出しそうになったが、視界から二人が消えると、フッと力が抜けるように壁にもたれ掛かり、『美心がやると決めたんだもんな』と、そう心の中で呟いた。

 一分ほどすると、一緒に出て行った女子生徒が先に戻り「おーい」と教室にいる全員に声をかける。皆作業中の手を止め、その女子生徒の方を向いた。

「小牧原さんの衣装着てもらったんだけど、みんなも見てもらっていい?」

 そう言うと廊下の方で「えっ、ちょ。恥ずかしいよ」という、少し慌てた美心の声が教室内にも聞こえてきた。

 注目が集まる中で女子生徒はまた廊下に出て、今度は美心の腕を引いて戻る。落ち着いた生成色の生地に包まれた腕が、扉からチラッと見える。一瞬ためらう様にその腕は引っ込んだが、女子生徒の力によって再び衆目のもとに連れ戻された。温かみのあるオレンジがかったブラウンの肌着に、先程見えた生成色の布が頭から全身にかけて覆いかぶさっている。更に最も象徴的なのは、マントの様にして肩からかけられた紺瑠璃の大判ストールだろう。深い紫味の綺麗な青が、彼女の赤毛と対照的で美しく、教室内では男女共に「おー」と感嘆の声が響き渡った。その中には雪輝の声もあった。どこか不安が残ったまま彼女を見送った彼だったが、そんな事を忘れたかのように、聖母姿の美心を見つめていた。その声と視線に美心は気付き、紺瑠璃のストールを持ち上げて口元を隠す。集まる視線と自分の顔の間に、何か遮るものが無いと落ち着かない。そういった照れが周りにも伝った。


「凄く似合ってるよ小牧原さん。ねぇテル」

 リョウがそう振る。美心に視線を囚われたまま口を開けてぼーとしていた雪輝は、その声に反応してようやく口を閉じた。なんでオレに振るんだと、訝しむ様な視線を一度リョウに送り、またすぐに美心へと戻した。すると美心は固い動きで雪輝に近寄る。

「……どう、かな」

 顔を隠すように持ち上げていたストールを離して、ひらひらと見せびらかすように布をはためかせる。窓から入った光が跳ねて、生成色の布は百合のような白さを放っていた。それが少し眩しくて、神々しくて、本当に聖なる何かを感じるようだと、雪輝は思った。そう思ったからこそ、彼女の問いには答えず、とっさに「そっちこそ……どうなんだ?」と尋ねてしまっていた。予想していなかった返しに美心は一瞬目を丸くしたが、やがて彼の質問の意図を察したのか、少し俯いて考えた。

「……こんなもんなんだって感じ。正直ちょっと不思議な感覚かも。私自身はこういう格好をしても、特別やな気持ちになったりはしないって薄々思ってたからなのかな……。だからその……今気になるのは、テルキチの感想、だけだったり……」

 彼女はそう言うが、『似合っている』と答えていいものなのか、雪輝には分からなかった。だからとっさにこう答えた。


「綺麗で、可愛いと思う」


 その言葉に美心の顔が一気に染まりあがる。くるっと回って背中を向けてしまい、しばらくしてまたストールで口元を隠した。そのまま半分しか見えない顔だけを、恐る恐る雪輝の方に向き直り、か細い声で「ありがと」とだけ告げる。雪輝の返事を待つ間もなく、美心は廊下に出て行き、着替えのために使っていた隣の教室に入っていった。


「テルってさ、そんなスマートに恥ずかしげもなく、可愛いとか言ってのけるキャラだっけ?」

 さっきとは逆に、今度はリョウが訝しげに雪輝を睨んだ。

「え? さっきオレなんか言った?」

「無意識かい!」

 とリョウが声を荒げた時、コンコンと、木製のドアを叩く乾いたような音が教室に響き渡った。部屋の中にいた全員が、音のする扉の方に注目する。そこに立っていたのは、神原裕彦だった。


「吉祥寺、少しいいか」







 十九時少し前。

 來華達三人は金山の駅を出て、イルミネーションの施されたコンコースの中を進んでいた。沢山の人が秩序無く、あらゆる方向に向かって歩いていて、人混みが苦手な來華は少し酔ってしまいそうな気分だった。遠くからは気の早いクリスマスソングが聞こえてくる。琴弾を先頭にして雑貨屋の並ぶ道を進み、目的となる店の前に到着した。時計を確認する。ほぼ約束の時間ぴったりだった。

「さ、二人とも心の準備はいい?」

「は、はい! 東雲さんに貰ったお薬のおかげか、不思議と最初程は緊張していないです」

「……私も、そうね。今はアイツをどうしてやろうかで頭がいっぱいだわ」

 冷たい目を光らせて來華がそう言った。それを見て琴弾が呆れたように彼女の頭を小突いた。

「はぁ……なんの話をするのかは知らないし聞かないけど、そんなに敵意剥き出しじゃ、話し合いにもなんないよ? これはあくまで合コンなんだから、もっと笑って。ほら」

「無理です」

「はぁぁぁあ……仕方ない。笑顔要員はアタシと漆野クンで賄うか」

 そう言って漆野の方を見る琴弾。目が合った彼女は、多少固さはあれど、にこっと可愛らしい笑顔を浮かべてみた。

「うん、及第点」

 琴弾は漆野の頭を撫でた。緊張をほぐす為だろう。

「さ、入るわよ!」



 店に入り、琴弾は店員に名前を告げた。すると三人は個室に案内される。扉は閉められていたが、その手前にはもう既に三人分の男物の靴が脱ぎ散らかされていた。それだけで、中にいるであろう男たちの、粗暴な性格が見て取れる。漆野の心拍数が跳ね上がった。琴弾が扉に手をかけて一度振り返る。何も言わなかったが、一回ずつ來華と漆野に視線を送り、開けるわよと目で語った。そして向き直った彼女は、一瞬にして表情を男性向けの笑顔に変え、その後扉を開いた。


「こんばんはー!」

 琴弾はワントーン上がった声と共に飛び込んだ。

「こ、こんばんは」

 続いて漆野も必死で笑顔を作り、いつもよりも大きな声を出して部屋に入る。

「……」

 その後ろに続いた來華は何も発さなかった。一番最後に入ったのにも関わらず、誰よりも先に座り、掘りごたつに足を入れた。そして目の前にいる坊主の少年、あの日名古屋で出会ったハルキを冷たい目で見つめる。しかしその目とは反対に、彼女の心臓は熱く脈打っていた。


「……あんた、あの時の」


 目の前に座った女性の顔を見て、ハルキははっと目を見開いた。

「奇遇ですね」

 來華が言う。そのセリフにハルキは眉間にシワを作った。その顔を見た琴弾が何かを察したのか、ハルキが次の言葉を発する前に「注文はもう済ませた?」と明るく話し始めた。

「俺たちもさっき来たところ。注文よりも先にさ、自己紹介しちゃおうぜ」

 一番奥の男が答えた。

「りょーかい。じゃあアタシからいいかな? 琴弾藍那です。結構ことちゃんって呼ばれる事が多いんだけど、ふつーに下の名前で呼ばれるのも嫌いじゃないから、好きに呼んでね」

 と言って漆野に視線を送る。びくんと少し体を跳ねらせ、うわずった声で「あっ、はい!」と答えた。その様子が面白かったのか、可愛らしく見えたのか、ハルキ以外の男性陣は笑っていた。

「う、漆野シノですっ……あ、あまり男の人とお話しする経験ないんですけど、せっかく誘われたので、思い切って来てみました。へ、変なところあったらごめんなさい……!」

 顔を真っ赤にして、手元のおしぼりを見つめながら漆野が言う。それを見ていた琴弾が彼女の太ももをポンと叩く。それで気づいたのか、漆野は顔を上げて男性陣を見て、店に入る前と同じ、少し硬い笑顔を作った。しかしその初々しさが好印象だったらしく、目の前に座っていた茶髪刈り上げの少年に「可愛いいね」と言われてしまう。その言葉に更に体を硬直させるも、一度息をのんで口を開いた。

「あ、あはは……そんなこと言われると照れちゃいますよ」

「ホントに顔真っ赤だし、お酒でも飲んだ?」

 そう言って茶髪の男は笑う。

「じゃあ女性陣の最後は……」

 琴弾が來華を見て話を回す。彼女はまだじっと目の前にいるハルキを見つめていた。その目からは、何を思うのかは伝わってこない。どことなく危うい雰囲気を纏っている目に、琴弾も少し驚いていた。

「お、おーい」

 その琴弾の声に來華は我に返ったのか、少し周りを見渡して中央を向いた。

「ごめんなさい。私も慣れていないから、緊張して少しぼーとしてたわ。『篠原』來華です」

 篠原と名乗った。琴弾と漆野は一瞬驚いた顔を見せたが、來華が二人に目配せする。それで伝わったらしく、二人もそれに合わせた。

「漆野クンと篠原クンは、アタシの後輩でね。こういう経験全くない生娘ちゃん達だから、お手柔らかにね。無理やり誘っちゃダメだよ」

「へぇ、みんな可愛いから約束できないなぁ」

「なー」

 男二人がそう言ってまた笑い、自己紹介を進める。一番奥の、琴弾の前に座っている少年は臼田と名乗った。ガタイのいい体育会系の男でよく笑う。無駄に白い歯が目立っていた。漆野の前に座っている茶髪の刈り上げ男は、佐々木と言った。バンドをやっていらしく、チラッと見えた手にはたくさんの豆が出来ていた。軽い口ぶりをしているが、その豆の量に真面目さも伺える。そして最後にハルキの番になった。


「内山春樹。オレはなんか名指しで誘われたんだが、呼んだのは……アンタか?」

 そう言って探る様に來華を見た。漆野も心配そうに二人を見つめたが、意外なほど來華は落ち着いた様子で応える。

「えぇ。前に会ったわね。あの時は変な感じになったけど、個人的に話をしてみたくて」

「ふーん。こんな美人にそう思ってもらえて嬉しいね」

 とハルキは軽く答える。それが本心なのかは分からなかった。

「え、なに? 二人は知り合いなの?」

 茶髪の佐々木が無邪気にそう尋ねる。

「まぁまぁ、お話の前に色々注文しちゃお。アタシお腹空いちゃって」

「そ、そうですね。私もお昼食べてないのでお腹空いてきちゃいました」

 漆野が笑顔を維持したままメニュー表を取って広げる。男性陣に見やすいように反対向きにして机に置くと、佐々木と臼田が視線をそこに移した。來華のことを見つめていたハルキもやがて身を乗り出してメニュー表を見る。全員の注目がメニュー表に集中している間に、漆野が來華に耳打ちした。


「その……大丈夫ですか?」

「えぇ。ありがと。私は思ってたより冷静よ。小牧原さんの事、他に人がいる前で無暗に話したくないから、彼と二人っきりになるまでは、適当に流れに乗るわ」

「分かりました。どこかでそういうタイミングを作れるように頑張りますね」


 顔を離すと漆野は先程までの笑顔に戻す。緊張も薄れてきたのか、固さは少し無くなっていた。

 店員を呼んで食事を注文をした後、しばらくは琴弾主導で会話が繰り広げられる。基本的にはこの店や注文したメニューの話題、お互いの学校の話題だった。やがて食事が届き、机の上が賑やかになると、男性陣と琴弾は当たり前のように写真を撮り始める。その後スマホを触っている様子から、それぞれSNSにその写真をアップしている様だった。一通り撮り終えた様子を見て、漆野がサラダを人数分に取り分け始めた。

「おっ、ありがとね。えっと漆野さんだっけ? 家庭的だね」

 彼女の姿を見て茶髪の佐々木がそう言った。

「あっ、いえそんな……家でもこうすることが多くて勝手にやっちゃいましたけど……なにか苦手なものとかありませんでしたか?」

「いやいや何でも食べるよ。それに、そういう姿すげぇ印象いいよ。なぁ」

 とハルキに振ると、彼も「分かるわぁ」と軽く答えた。初めは少し來華の事を警戒していた様子を見せていたが、この返事からは場になじみ始めている様子が伺えた。


「漆野さん、学校でも結構モテるでしょ?」

 茶髪の佐々木が言う。漆野は戸惑った様子で「え、いや、私はそんなこと」と反応する事しか出来ず、それを見て琴弾がにやっと笑った。

「あーそれ。アタシも気になってた。人と話すの苦手っていう割には、アタシにも普通に話し出来てたしさ、こんな可愛い子普通放っておかないよねー」

「そうそう、さっきから臼田も漆野さんの事チラチラ見てたみたいだしな」

「はっおま、別に俺は」

「アタシも気づいてたよー。で、どうなのさ漆野クン?」

 悪戯っぽい笑みを漆野に向ける。琴弾だけではなく、他の全員の視線も彼女に集まった。

「私は本当にそんな話聞いたことありませんよ。……それにクラスでは隅っこの方にいるタイプですし」

「へぇもったいない。多分クラスメイトの子も、もっと漆野さんと話したいって思ってると思うよ」

 サラダを口に運びながら、茶髪の佐々木は何の気なしにそう言った。

「私と……ですか?」

「そうそう。別に嫌われるタイプじゃないでしょ、どう見ても。優しそうだし。なぁ」

 同意を求めるように臼田の方を見た。

「お、俺に振るなよっ!」

「だからなんでお前はさっきからそんなに照れてんだよ」

 そう言うと佐々木とハルキと琴弾が笑った。照れ隠しで臼田が佐々木を叩く。男性陣三人の関係性は詳しく話されなかったが、その光景から仲の良さが見て取れる。

「漆野クンはさ、クラスでもっと友達が欲しいんだって。ねぇアンタらなんかアドバイスないの?」

「こ、琴弾先輩!」

 漆野が顔を赤らめて声を上げるが、話は進んでいった。

「うーんそうだな。普通に話しかけても嫌な顔はされないと思うし、やっぱり漆野さん自身が一歩を踏み出すしかない気もするなぁ。漆野さん可愛いから大丈夫だよ」

 臼田が白い歯を見せてそう言った。しかし漆野は「そう……ですかね」と俯くだけ。あまりしっくり来ていない様子に臼田が少し残念そうに腕を組む。するとその隣で佐々木が何かを思いついたようにして喋りだした。


「話しかけてもらえるようにするのが一番じゃないのか?」


「話しかけてもらえるよう……?」

「そ。このハルキがそうだったんだけどさ、こいつこう見えて人見知りでさぁ、最初全然目立たない奴だったんだよ。でもいつだっけ? 急に頭坊主にしてきやがって、見た目イカつくなってよ。こんなんで来られたらそら話しかけるだろ? で、そっから色々話すようになって、オレと臼田と仲良くなって、その繋がりでクラスにも馴染み始めたんだよな」

「おい、恥ずかしい話すんなよ」

 ハルキが拗ねたように唇を尖らせる。

「まぁまぁ。でもさ、こういうコミュニケーションっていうのは、色々役割があるんだよ。話しかけに行く役、それに応える役。どっちも重要さ。漆野さんはきっと後者でしょ? だったらそれの準備をするのが多分、漆野さんがする事な気がするんだ」

「確かに漆野クンって、アタシが話しかけた時はちゃんと受け応え出来てたし、印象も凄く良かったよ。……なるほどねぇ、自分から話しかけないといけないって思い過ぎてるのかもしれないね。やるじゃんキミ!」

 佐々木が得意げな顔をした。

「……話しかけられる準備」

 その言葉を漆野は噛みしめてこれまでの自分を振り返った。

 教室の隅でただ会話を眺めているだけの自分。何の話をすれば輪に入れるんだろうと、それだけを考えていた事を思い出す。

「確かに……私から話しかける努力じゃなくて、私に興味を持ってもらう努力、考えてなかったかもしれないです」

「ま、努力なんて程気負わなくていいとは思うよ。ちょっとしたきっかけを作っておけばいいんじゃないか? それこそ髪形を変えてみたり、なんか教室でゲームをやってたり」

「坊主はいいぞ」

 ハルキが言って小さな笑いが起こった。漆野も笑っている。


「……ちょっとやってみようかな」

「え? まじで……?」

 臼田が青ざめた顔で言った。

「あぁいやごめんなさい。ちょっと試してもいいかなってことが頭に浮かんでて……そっちの事です」

 口元に手を当てて微笑んだ。彼女の頭の中で、悩んでいた文化祭でのコスプレ事がよぎる。


「なんていうか、今日来てよかった思えました。ありがとうございます」


 男達三人に一度ずつ目を合わせて、丁寧に頭を下げた。改まって礼を言われて気恥ずかしかったのか、三人は少し落ち着かない様子を見せる。すると臼田が次の話題を探すかのように辺りを見回し、黙々と食事をしている來華にふと目が留まった。


「で、そっちの君は結構無口なタイプ? あまり会話に混ざってこなかったけど」

 來華の箸が止まる。

「どうなのかしら。緊張しているのよ、多分」

 そう答えると臼田がボソッと「変わった子だな」と呟いた。それを聞いた佐々木が「失礼な事言うな」と彼を叩いて來華に向き直る。

「篠原さん、ハルキと知り合いなんだって? どんな仲なの?」

 その質問に來華と漆野が止まった。少し考えてから、來華はハルキを見つめて尋ねた。


「私達、どんな仲でしたっけ?」


 たまに見せる來華の冷たい目。さっきまでの和やかな雰囲気ががらりと変わってしまった。

「……名古屋で、すれ違ったな」

 ハルキが答える。

「な、なんだ? ナンパでもしたのか?」

 佐々木が冗談まじりに言うが、笑いは起こらなかった。

「なぁもしかしてあの時の事怒ってんのか?」

「怒ってないと言ったら嘘になるわね。……でも、案外複雑なのよ」


 來華とハルキが睨み合う。隣で佐々木がその不穏な空気に耐えられなくなったのか、琴弾と漆野に小声で問いかけた。


「なんか、ワケアリ?」

「アタシは正直よく知らないわよ」

「……あまり良くない空気ですね」

 そう言うと漆野は「私ちょっと、お手洗いに行ってきます」と続け、琴弾に目配せしながら立ち上がった。

「……あっ、待って。アタシもいく」

 今度は琴弾が男二人に睨みを利かせるようにして立ち上がる。佐々木と臼田は一度お互いを見合って、小さくため息を漏らす。

「俺たちもちょっとションベン」

「あらお下品ね」

 琴弾は意図が伝わったことに満足げに笑い、四人は個室を後にした。残された二人はまだ睨み合っている。



「でもアンタ、凄い執念だよな。まさかこんな回りくどい事してまでオレに会いに来てさ。なんだ? 文句でもいいに来たか?」

「文句もあるけどその前に伝えることがいくつかあるの」

 そう言って來華は鞄からスマホを取り出す。カメラロールを開いてハルキのSNSのスクリーンショットを表示した。それを見てハルキの眉間にシワが寄る。

「……お前、ストーカーかよ」

「その言葉、面白いくらいにブーメランなのだけど?」

「……ちっ。で、なんだよ。カルトちゃんのことバラさないでくださいってお願いか?」

「そのお願いを聞いてくれるのなら話は早いわね。でも、そういう期待はしていないから。こちらで色々手を打ったわ」

「……まさか文化祭の開催が延期したのって」

「えぇ、私達がやった。他にも、友達を守るためなら色んなことをする人が何人もいるわ。これが一つ目の伝えること」

 來華は脅すような雰囲気で言った。しかし「二つ目は」と話し始める時は、少しためらいを見せるような口ぶりになる。


「……小牧原さんが、あなたに謝りたがっている」


 その言葉にハルキは目を見開いた。


「アイツが、謝る……? オレに?」

 あまりに意外な言葉だったのか、驚きが隠せずにいる様子だった。

「あなたを傷つけてしまったと後悔してたわ」

「……なんだよ。どうせ新しい学校で秘密をばらされたくなくてそう言ってるだけだろ。人の神経を逆なですることばかり言いやがって」

「小牧原さんは、あなたが学校に来ることを知らないわ」

「はぁ?」

「SNSに気づいたのは、あの時の一緒にいた男の子。そして知っているのはごく数人だけなの」

「……」

 ハルキは黙り込んだ。

「彼女は本心からあなたに謝りたいと思っているわ」

「……だから何だって言うんだよ。別に謝られる事なんてなんもねぇし。つか、まさかアンタもあの変な宗教に洗脳されてるのか?」

「癪に障る言い方ね」

「アイツらは友達のふりして近づいて、子供だろうと洗脳しようとするカルト集団だからな。可哀想に、アンタはもう手遅れか」

 ハンっとハルキは鼻で笑った。

「昔の話は聞いたわ。……確かにあなたにとっても不幸な出来事だったと思う。でも、彼女も凄く罪悪感を抱えて――」


「黙れ!!」


 急に声を荒げる姿に來華も驚き、続けようと思った言葉が途切れてしまった。

 店内に流れるジャズだけが聞こえてくる時間がしばらく続いた。


「帰る」


 ハルキは財布からお金を取り出して机の上に置き、立ち上がって個室の扉を開いた。すると丁度四人が戻ってくるところにすれ違う形となり、靴を履くハルキを不思議そうに見つめた。

「すまん、金は机に置いてある」

 ハルキがそう言うと佐々木と臼田は首をかしげたが、その雰囲気に圧倒されて「おう」と返事をするだけだった。

「漆野さん」

 続いて立ち上がった來華が同じように机にお金を置き、彼を追いかける意思を見せた。

「ごめんなさい、まだ言う事があるの」

「……その、大丈夫ですか?」

「ええ。迷惑をかけたわね」

 出て行こうとする來華の肩を琴弾が掴む。

「よく分かんないけど、何かあったらすぐ連絡しなさいよ」

 來華はこくんと頷き、ハルキを追って外に出た。店の前の通りにはもう彼の姿が見えなかったが、小走りに店の裏に向かう。すると案の定そこには、自転車置き場に向かって歩く彼の背中が見えた。



「今でも好きなんでしょ」



 立体駐車場の陰になっている店の裏側は、人通りも全くなく、冷たい風だけが吹いていた。

 歩くハルキの後ろ姿が、來華のその言葉に足を止める。


「図星かしら」

 彼に詰め寄る來華の足音が反響する。

「黙ってろ、首を突っ込むんじゃねぇよ」

 振り返らず、ハルキは小声で呟くように言った。

「はたから見たら、ただ嫉妬して嫌がらせをしているようにしか見えないわね」

 その言葉についにハルキは振り返った。

「オレはお前みたいに洗脳される被害者をもう出さないように、アイツの本性を知らない奴らに教えてやるだけだ」

「――と、必死で自分に言い聞かせてる」

「あぁ?」

 憐れむように笑う來華にハルキが一歩近づいた。威圧するような目で、声にも力が籠り始めた。


「洗脳されてるのはどっちなのかしらね。叶わない恋心に知らないふりをして、もっともらしい言い訳で嫉妬を消化しようとしている……」

 冷たく言い放つ來華。

 ハルキが力を込めて睨む。それこそ血管が切れる音すら聞こえてきそうなほどの力みを見せ、隣に止めてあった自転車のリアキャリアの隙間に指を滑り込ませた。

「何が言いたい?」

「彼女はあなたに謝りたがっている……でも私は小牧原さんとあなたを合わせるべきかどうか、少し迷っていたの。それが今ハッキリしたわ」


「二度と私たちの前に顔を見せないで」


 來華がそう言うと、彼が握っていた自転車のリアキャリアに更に力が籠る。やがて地面の擦れる小さな音と共に、自転車が浮き上がるのが見えた。


「てめぇさっきからうっせぇんだよ! 人の事に首を突っ込むなつってんだろ!!」


 ハルキは怒りに任せて自転車を放り投げた。金属のぶつかり合う音と、タイヤが地面にこすれる音が隣の駐車場に反響し、低空ではあったが自転車は確かに宙に浮いて、真っすぐ來華の方へ向かっていった。

 身構えることも出来ずにいた來華は、突如目の前に迫るアルミの塊に顔を青ざめた。が、同時に彼女の元へ向かう音はもう一つ聞こえていた。


 力強く地面をけるような足音。

 それは迫りくる自転車と、來華の間で止まった。


「イッッッテェェェ! 脛がァ!」


 自転車にぶつかる事を覚悟して目を閉じた來華の耳に聞こえてきたのは、自分の前で鳴り響いた金属の衝突音と、聞きなじみのある悲鳴だった。

 その声に、恐る恐る目を開く。


「……吉祥寺、君?」


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