Chapter-2 吸液受難-I

俗世の流転とは隔絶された,

白い巨塔が聳え立っている。

その高層,人体藝術のアトリエより,

ノイルは天使を連れ出した。

地上界での戦役に駆り出し,

軍閥を制し,種を刈り取るため。


口惜しげに何度も天使は振り返る。

今にも蠢きそうな,人体絵画を。


"未完成だったか?"

"ううん,でも寂しそうだから..."


繊細な美的感性と呼ぶべきか,

単に狂気の沙汰であるのか。


先程認識系統を《接続》して見た天使は霊に囲まれていた。

今も纏わりついているならば,早く意識界に退場を願いたいが。


再びアーチに乗る。

楕円機構の端から滑り落ちぬよう,慎重に。

天使は諦めがついたのか

降下する機構の周縁を数回,廻った。


機構の動力もまた

天界よりもたらされた叡智の息吹であろう。

構造原理の情報も,塔内部の書庫に保管されていると聞いた。


...今回の目標は既に達成された。これ以上の探索は不要だ。


天使に観察されていた。

好意と奇想への期待が混ざった双眼。

目を合わせると,宙空の天使は恥ずかしそうに顔を薄く紅潮させた。


視界に入れようとすると,悪戯好きな顔を見せ,ひらりと視線を躱す。


躱されながら

柔らかな翼で頬を撫でられていた。


まるで,巨塔への長旅による疲弊を

労うかの如くに。


ノイルは降下する迄の間,視線による遊戯と翼の愛撫を楽しんだ。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


機構は停止し,

客人と白銀髪の天族は塔の出口へと進む。

再び巨大な回廊に出た。

長方形の,遥か巨大なオブジェが浮かぶ。

巨躯より生じた陰翳には,

二者のシルエットが混ざり合う。

翼の飛翔音に,靴音のみが響き渡っている。

会話もなく,静かだ。



危機は望外の早さで到来した。

背後から突然,天使に噛みつかれたのだ。

冷たく硬い感触が火照った表皮を貫き,溢れた液が陰翳に飛び散る。

アトリエから離れさせた仕返しをされたのだろうか。いや,違う。



天使は飢えていたのだ。



"君の《液》は美味しそうだね"

藝術に用いた,下賤の人間達の血液ばかりで飢えていたのだろう。

明晰な発想力と逞しき肉体を持った,浅黒の液族。唆られる筈だ。

躊躇も遠慮も無く,犬歯を突き立てられる。容易に侵襲された。



吸血が始まる。否,吸液か。

少量では済まないと理解した。



--この程度の洗礼は,想定していた事態だ--



ノイルは冷静であった。

激痛に内心身悶えながら,

これまでの因果律を振り返る。


幸いにして,藝術に対する下馬評から

彼に焼かれる事はなかった。

アトリエに到達する過程にも,

さしたる関門は設けられていなかった。

巨塔は推測通り,天族機密の保管場所としての機能を失っていた。

凡そ目的の天族と対面するのに,

妥当な手段,場所であった。


なのに。

最も身近な,人外液族の特性が仇となり,

乱数を引き起こしたのだ。

複数の憶測が過ぎる。

起こり得る事態は。対策は。何よりも...


天使に吸血や吸液の生態があるとすれば,今後の供給源はどうする...?


...先ず目下の搾取を乗り越えねばなるまい。

態勢を変えて貰おうと,

腹部に回された天使の手を外そうとする。

だが,それが逆効果だった。


さらに犬歯が侵襲を深める。

被食の危機に瀕した小動物が発する,無意味な抵抗と思われたのか。

《液》の甘美さがもたらす恍惚も重なり,余計に天使を刺激した。



"美味しい。ああ,ノイル。嬉しいよ。僕にくれるよね?"


何という力だ。

固められた蝋細工に,鉛や真鍮を連想させる。

翼のみならず,歯牙からも直接,

欲する蜜を求め暴く術を持つとは。

獲物の血肉を捌き,貪る口は,甘やかに数多の贄を誘ってきたのだ。



まさか,食われるのか。



天族に少しでも背後を見せた,

己が愚かだったのか?

いや,此奴は分別無き蛮族や耽溺の徒とは

違う。摂理の掌理者だ。

真に戦力に加えるには,

自ら誠実さを示さねばならない。


ノイルは玉汗を流しながら,

沈黙と寛恕の内に,吸液に堪える。

最悪の可能性を考慮しながら。

実力行使も検討に入れつつ。


数分が経過した。

得意げな表情を見せていた天使だが,

次第に怪訝な様へと変わった。


尽きないのだ。《液》の含蓄が。

無尽蔵に湧き出ている。


(変だな。娼館で踊り子の血を飲んだ時は,もう乾涸びていたのに)


天使は思惑する。常人ならばとっくに果てている吸血量である。

仮に驚異的な速度で液が産み出されているとしても,何か妙だ。


人間が

活動や肉体維持に血液を用いるのと同様に,

液族は《液》を能力発動,使役,

そして自動修復等に用いる。

《液》の損耗は,液族にとり敗北,

時には死すらも意味する。


しかし,

ノイルに焦燥や動揺の兆しは見られない。

苦痛の呻きのみ。


噛み跡が肩から脊柱部分へと移る。

より《液》の枢軸に近い部分。

脊髄を暴かれるのは不味い。

ノイルは策を打ち出す事にした。


仮に戦闘中ならば,体内の液を急速に送り込み,吸液者を窒息させた。

この天族に対しては牽制が有効だろう。

意識を背部に集約する。

《液》の操作は得意では無い。

されど,此奴を引き離すぐらいは。


再び天使の牙が表皮を突き破ると同時に,

侵襲経路から大量の《液》を

口腔に送り込んだ。

さらに液族特有の器官内部で高速循環させ,《液》は熱を帯びている。


堪らず,ノイルの拘束を解き,天使は大仰にも倒れ込んだ。そして。


がはぁっ。


天使は吐瀉した。摂取した殆どの《液》を。黒檀色の唾液が滴る。


それは,ノイルが2週間前の戦役で

見た光景と似ていた。

致命傷を負った武弁が撒き散らす

大量の血液。

吐瀉されたノイルの《液》は,

巨塔内部の外被に滴り落ちた。

即ち,果てが見えぬ程に広がった,

紋様を帯びし白き床である。


武弁の断末魔は怨嗟に満ち満ちていた。

罵声が記憶に蘇る。


(ノイル,裏切り者よ。貴様を許さぬ。再び逢うのが楽しみだ)



"...びっくりした。"

惚けた声で驚嘆の意を伝える天使。驚いたのは,客人も同じだ。

その目は,床に向けられていた。ノイルも視線の先を見やる。


薄緑の光沢が,

飛散した液の周りを爛々と渦巻いていた。

直覚。大樹が滴る暴雨を幹に染み込ませ,

不気味な赫きを放つ姿。

巨塔はノイルの《液》を解析し,

恐らくその彫鏤に情報を刻んだのだ。

大河に染み渡る

汚濁のアレゴリーも想起される。

過剰な想像力は,

意識界に潜む観念の怪物に

餌を与えてしまう。


塔に宿る天族機密の効果か,

吐き出された《液》は何かを象り始めた。

人だ。人型を象った数体の塊が,還らんとする主を探している。

これもまた,巨塔の秘蹟がもたらした

超常の効果なのか。

苦い顔をして踏み潰そうとするノイルを制し,天使は呼びかける。

路辺に捨てられた異邦の稚児を

抱擁するがごとき,優しさで。


"...アウラ"

人型の《液》は声に応じ,主の温もりを求め,

覚束ない足取りで。

天使が飛翔し,

回廊より見えるオブジェの壁面に降り立つと,

同じく人型も軌跡を追い浮かび上がった。

垂直に張り付く。

紋様床と同じ光沢が生じ,

壁面に駆け巡らされていた。


微かに口元が歪み,

戴天の下種には不可能な音節が発せられた。

環胎。--foetus reditus--

オブジェの外被が融け,

乳液さながらに抵抗する人型を包む。

助けを求める塊を眺る天使の表情は,

蟲を泉に放ち,溺れる様を観察する

無邪気な幼児に近い。


"機密にお還り"

そうして,ノイルの情報を盗んだ全ての人型はいなくなった。

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