第12話 泥棒猫

 九月も末になりました。

 厳しかった残暑は去り、風が涼しくなりました。街の人々を見ていると、半袖の人がめっきりと減り、長袖に着替えています。

 三段リーグ最終対局の日はすでに終わっていました。ネットで知った情報ですが、三段の君は二連敗し、四段昇進はなりませんでした。彼からは連絡もなく、大学にも来ていません。さぞかし傷心なされているのだろうと思います。

 十月第一週になっても会えませんでした。気がかりですが、こちらから連絡するのもはばかられました。やつれるほど将棋に力を注いでいたのに負けて、誰とも会いたくないのかもしれません。

 文芸愛好会の部室で「志木さん負けてしまいましたね」と折原さんが言いました。

「ええ。残念なことです」とわたくしは答えました。彼の話題はそれきりでした。

 第二週になって、三段の君が大学に現れました。講義でわたくしの隣に座り、「このあと時間があったら、コーヒーを飲みに行かないか」と誘われました。

 いつもの喫茶店に行きました。コーヒーが運ばれてくるまで、二人とも無言でした。三段の君の表情は明るくはありませんでしたが、九月中旬に会ったときほどやつれてもいません。いつもの不愛想な顔です。これで平常運転。

「肝心なところで負けちまったよ。それも無様に二連敗だ」

 わたくしはどう慰めてよいのかわかりませんでしたが、その声にはさばざばしたものが感じられました。

「残念でしたね」

「気を使わなくていいよ。もう気持ちは切り替えているつもりだ。また新たにリーグ戦が始まるしね。今度は十月から三月にかけて戦う」

「月並みなことばで申し訳ありませんが、がんばってください」

「だから気を使うなって」

 三段の君は仏頂面から急に笑顔になりました。

 このギャップが素敵なのです。

「おれ、就職活動をするのはやめるよ。滑り止めみたいなことを考えているから、負けたんだと思う。これからはいっそう将棋に精進する」

 たいへんな決意を語りましたが、淡々としていて、気負いは感じられませんでした。

「大学には通われるのですか」

「まぁ、ここまで真面目にやってきたしね。卒業ぐらいはしておこうかな」

 わたくしはほっとしました。会えなくなることはなさそうです。

「なんだか今までおれのことばかり話していたよね。きみ、部活とかサークルとかやっているの」

「文芸愛好会に入っています」

「文学が好きなのか。おれたち文学部だし当然か」

「はい」

「好きな作品を教えてくれる?」

「『枕草子』と『源氏物語』です」

「ずいぶんとマニアックだな。平安文学か」

「千年読まれている文学作品ですよ。名作です」

「確かに、今出版されている作品で千年後も残っているものなんてないかもな」

「そうでしょう。「枕草子」はすごいんですよ」

 わたくしは胸を張りました。

「なんできみが誇らしげなのかわからん」

 それはわたくしが作者だからと言いたいですが、言えません。

「志木さんが好きな作品を教えてください」

「最近は小説読んでないなぁ。将棋の解説書を読んで、将棋ソフトで研究して、研究会で将棋指して、記録係のバイトをして、奨励会で対局して、大学で勉強して、飯食って風呂入って寝て。おれの生活、まったく潤いがないわ」

 するとわたくしとお茶をするのが唯一の潤いでしょうか。

 折原茜さんには三段の君を紹介するわけにはいきませんね。独占してやります。

 と思っていたら、とある講義で、三段の君の隣に折原さんが座って、彼と話していました。あっ、やられた、と思いました。

 同じ大学にいるとわかってその気になって調べれば、接触するぐらいはわけもありません。温泉旅行のとき折原さんに志木さんのことを話したのはやはり失敗でした。

 わたくしは折原さんの反対側、三段の君の隣に座りました。

「きみは振り飛車党なのか」

「最近、石田流を覚えました」

「石田流に組めればいいよね。なかなか組ませてもらえないよ」

 あっ、わたくしにはわからない将棋の話をしています。折原さんは高校時代将棋部に入っていたと言っていました。三段の君と本格的な将棋の話ができるのです。悔しい。

「志木さん、こんにちは」とわたくしは割って入りました。

「こんにちは、佐藤さん」

「こんにちは、佐藤先輩」

 折原さんがにまぁ、と笑った気がしました。

 おしゃれな黒い肩出しのワンピースを着ています。部室ではラフなシャツとジーンズでいることが多いのに。明らかに三段の君がこの講義に出席していると知って狙ってきたのです。

 泥棒猫め。

 講義後、三段の君はわたくしをお茶に誘ってくれました。

「私もご一緒していいですか」と折原さんが言いました。

 だめです、と思ったけれど、「いいよ」と三段の君があっさりと承諾してしまいました。

 楽しいお茶会が恋の戦場となってしまいました。

「今季は二連勝と好調な滑り出しですね」

「ああ。いいスタートを切れてよかったよ」

 折原さんは三段の君の勝敗をチェックしているようです。それくらいはやりますよね。どの講義を受けているか調べたくらいですし。

「きみたちは知り合いなのか」

「ええ。佐藤先輩とは文芸愛好会でご一緒させていただいています」

 わたくしは機嫌が悪いです。折原さんが文芸愛好会を男漁りで壊しかけたことやテニスサークルの彼氏がいることや今度は三段の君を毒牙にかけようとしていることなどをぶちまけてやりたいですが、そんな下品なことはできません。

「おれは講義の後に、佐藤さんとここでコーヒーを飲むのが唯一の趣味なんだ。後はずっと将棋漬けだよ」

「私も混ぜてください」

「うん、いいよ」

 断ってよーっ!

 憎らしきもの。泥棒猫。その猫と楽しそうに会話などする殿方。少し伸びている鼻の下。泥棒猫が殿方の腕に触れる様。わたくしを放っておいて弾む会話。すべて気に入りませんわーっ!

 三段の君とろくに会話ができないまま、コーヒーを飲み終わってしまいました。

 喫茶店を出て、駅に向かいました。

 わたくしと三段の君は反対方向で、駅でお別れです。

「あら、私とは同じ方角ですね」

 三段の君と折原さんは同じホームへの階段を登って行きました。

 わたくしは二人を見て歯噛みしていました。

 折原さん、敵認定。

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