第二章

『1、バイト地獄と 妹の甘々』



 翌週の月曜日からは地獄の五連勤ごれんきんが待っていた。


 もちろん、フルタイムで仕事をし、残業ざんぎょうまでしている、世の中のとうつとにん皆様みなさまと比べたら、鼻で笑われる程度レベル短時間勤務たんじかんきんむだと分かっている。


 分かってはいるが……俺はひきこもりだったのだ。


 というか、今も、可能ならひきこもりに戻りたいのだ。


 その俺が、午後二時から七時までのわずか五時間とは言え、バイト先に出向き、二十歳近くも年上の女性の理不尽な虐めに耐えながら──しかも仕事を教える時は一方的に早口でまくし立てられ、メモを取れば不機嫌な顔でにらみつけられ、質問をすればキレられる──という地獄めいた環境で、慣れない、そして教えてもらえないから覚えられない仕事を、五時間立ちっぱなしでこなすのは──覚えられていないからこなせていないが──ハッキリ言って……


 物凄ものすごつらい。


 真面目まじめに辛い。


 泣きたいほど辛い。


 今すぐ辞めたいレベルで辛い。


   ◆◆◆


 月曜日はかろうじて『CR(コンポジットレジン充填じゅうてん)』という初期しょきの虫歯にほどこす治療のアシストの仕方しかたを教わった……


 というか、早口で適当に「はい、コレとコレとコレ使うから。あとコレね」と説明とも言えない野村女史の言葉をなんとかメモして(しかし薬剤の名前も器具の名前も朧気おぼろげでハッキリとは分からない)、吉川先生と野村女史のやっている事を観察し、二人が手に持った薬剤を、野村女史の隙を見ては確認し、こっそりラベルの文字を書き写しては、自宅に帰ってから、通販サイトで購入した歯科助手ガイドブックを読んだりネットで検索したりして自力で情報を補完ほかんするという涙ぐましい努力で必死に学んだ。


「初期の『うしょく』……あ、虫歯の事を『う蝕』って言うのか」


 母親がポットに用意しておいてくれたコーヒーを飲みながら歯科助手ガイドブックをめくる。


「へえ……C2までなら一回の診療で治せるんだな……」


 芽衣がくれたクッキーを頬張ほおばると口いっぱいにバニラ香りが広がった。コーヒーと良く合っていて美味おいしい。二人にもう『ひきこもりの兄の心配』をさせない為だと思えば、辛い調べものも耐えられる。


「なるほど……表面のエナメルしつをタービンでけずってレジンを充填し……紫外線しがいせんライトを当てて硬化こうかさせ……レジンの表面をなめらかに削れば痛みも無く治療を終えられる、と……」


 時計を見れば針は深夜二時を指している。それでも吉川先生の微笑みを思い浮かべれば、まだ頑張れる。早く仕事を覚えて先生の役に立つんだ。苦難くなんを乗り越えろ、俺。


「あ、これ『光重合ひかりじゅうごう』って言うのか。そういえば、吉川先生も治療中に『ヒカリジュウゴウ』って指示を出していたな。つまり、そう言われたらレジンと紫外線ライトを用意しろ、と……なるほど、なるほど……」


 ──って、こんな必死に努力したのは生まれて初めてだっ!


 ちなみにレジンも何種類かあり、その名前を調べるのも一苦労だった。


 仕事いうものはココまで苦労して、こっそり盗むように覚えなければならないものなのか。学校の授業のように筋道すじみちてて教えてもらえないという事がコレほどキツイとは……社会では理不尽な指導が当たり前なのか?


 優しい吉川先生も、なぜか野村女史の「仕事をマトモに教えない」という虐めを止めてはくれない。もしかしたら俺が虐められている事に気付いていないのかもしれないが……自分に都合の良いように考えてしまうと、俺が試練しれんに耐えて一人前になるのを見守ってくれているという事なのだろうかと……いう気もしてくる。


 なにしろ俺は働いた経験が無いので社会の流儀りゅうぎが少しも分からない。


 グチャグチャ考えていると、野村女史の酷い教え方も虐めではなく、あれが普通なのかも知れないという気もしてくる。だんじて、そんなわけはないが。(アレは間違いなく、虐めだし、パワハラだっ!!)


 謎だ。


 謎過ぎる。


 この世は謎に満ちている……


 それはともかく、吉川先生が時々ぼんやりしていて、治療に集中している時以外はどことなく上の空なのも気になった。何か心配事でもあるのだろうか?


 俺も窓の外の月を眺めながら少しぼんやりしてしまった。


   ◆◆◆


 火曜日は『RCT(根管治療こんかんちりょう)』という治療を教わ……


 いや、教わってはいない。相変わらず野村女史に早口で適当にまくしたてられて、必死で書きとれる言葉だけをメモして、後で自宅で自力で調べた。


 水曜日は『RCF(根管充填こんかんじゅうてん)』を、木曜日は『AD(義歯調整ぎしちょうせい)』の情報を散漫さんまんにまくしたてられたので自力で調べた。


 ほとんど調査ちょうさに近い作業だった。


 お陰で段々とメンタルが疲弊ひへいして来て、「先生にこの略語りゃくごを言われたら、コレとコレとコレとコレと……コレを用意する!」というような雑な覚え方になっていった。


 前装冠ぜんそうかん、ブリッジ、フルメタルクラウン、インレーなどという、削って治療した歯にかぶせる金属きんぞくやセラミック、レジンなどを用いて作る技工物ぎこうぶつ(いわゆる歯のかぶものというやつだ)は、吉川歯科クリニックでは歯科技工士しかぎこうし外注がいちゅうしている。その際に患者の歯型はがたを取らなければいけないのだが、それに用いる印象剤いんしょうざいり方とがくトレイという器具きぐへのり方、石膏せっこうの練り方と印象剤で取ったかたに流し込み半分は盛る独特どくとくのやり方は、野村女史の早口で雑な説明でも意外と理解できた。実地じっちで学ぶ体感たいかんタイプの作業は論理ろんり埒外らちがいだからかもしれない。


 これを教わっている時は、野村女史も教え下手なだけで悪い人ではないかも知れないと思ったりもしたのだが、受付業務の際に、わざと入力画面を変えられていて「やっぱり気付かないでミスした。そういうところがダメなんだよ」と言われた時には、悪い人じゃないかもしれないなどというアホのような勘違いしてしまった事を激しく後悔した。


 一度など、次に診療する患者のカルテを隠されていて「きちんと探せるかと思って」と笑いながら言われ、眩暈めまいがして意識が遠退とおのきそうになった。


 つまり、それなりに教えてくれる仕事は、型取りも、器具の洗浄や滅菌も、下っ端にやらせたい仕事だという事か……ヤバイ、みそうだ……いや、もう病んでる……


 毎朝「仕事に行きたくない」と思うようになり、出勤しなければならない午後一時半が近付くにつれ、酷く憂鬱になるようになってしまった。


 たった五回のバイト勤務でここまで滅入るなら、世の中のみなさまの苦労はいかばかりだろうかと、泣きそうになったくらいだ。


   ◆◆◆


 そして、木曜日の夜──


 心配した芽衣めいが、見かねてとうとう俺の部屋にやって来た。


「大丈夫、お兄ちゃん?」


 軽いノックの後、了解りょうかいも待たずに勝手にドアが開けられ、隙間すきまからひょこっと可愛いツインテールが現れる。


「ふっ、なんの話だ?」


 俺はだいたいこんな感じで恰好を付けた返事をする。芽衣は慣れているので気にしない。てくてくと部屋に入って来て、俺の背後に立った。


「俺の後ろに立つな」


「はいはい、じゃあ、お兄ちゃんがこっち向いてよ。そしたら後ろじゃなくて前に立ってる事になるよ」


「それは屁理屈だ……」


「そうかなぁ。かなってると思うんだけど……ねえ、こっち向いてよ」


「嫌だ……」


「お兄ちゃん、どうしたの?」


放置ほうちプレイで頼む」


 俺はかたくなに芽衣を拒絶きょぜつしようとした。


 疲れ切っていたのだ。


 パソコンデスクの椅子に根がえたように腰かけて、開いたノートと、歯科助手ガイドブックと、検索してヒットしたウェブページを前に、もはや何もする気力が湧かずどんよりと項垂うなだれていたら、なぜか突然、背後から頭をでられた。


「いい子、いい子」


 うっ、メンタルダメージが加算かさんされるっ。


「芽衣……さすがに五歳年長ねんちょうの兄に対してソレは失礼だからやめろ」


「別にいいじゃん。お兄ちゃんって、あんまりお兄ちゃんって感じがしないんだもん。私が面倒めんどうみてあげないとダメダメじゃん。むしろ弟って感じだよ。私より背が高いからぜんぜん可愛くないけど」


「おまえ、言いたい放題だな……」


「うふふ~。お兄ちゃん、素直で可愛い~」


 動く気力の無い俺が抵抗しないのを良い事に芽衣はいつまでも撫で撫でしている。


「ねえ、お兄ちゃん、なんかやつれて来たけど大丈夫?」


「俺の事は気にするな。おまえはおまえのすべき事をしろ」


「おまえの成すべき事って──宿題?」


 くふっ、と芽衣はき出した。あはは、とすずころがすような声で可愛らしく笑う。


 ツインテールがサラサラと揺れてゆっくり心が落ち着いていく。


 毒をふくまない笑い声ってこんなに心地好ここちよかったっけ……


 なんだか久しぶりにいやされる気がする。


「お兄ちゃん、無理しなくていいんだよ? ママも心配してるよ」


「母さんが……?」


「うん。お兄ちゃんがバイトしてるのって、ほら、ママの知り合いの歯医者さんでしょ。なんかね、そこの女の先生が、男の子のバイトを探してるのに見付からなくて困ってるって言ってたから『うちの子に手伝わせましょうか』ってうっかり言っちゃったって後悔こうかいしてた」


「え……後悔……?」


 どういう事だ? 母さんは俺がひきこもっている事を迷惑に思って働かせようとしたんじゃなかったのか? 芽衣、おまえだって──


「どういう事だ?」


「どういう事──って……だから、困ってる知り合いを放っておけなくて、お兄ちゃんに強引に歯医者さんのお仕事を手伝うよう頼んじゃったから『無理させてるんじゃないかなぁ』ってママが心配してるよって話だけど?」


 芽衣は心底しんそこ不思議ふしぎそうに小首こくびかしげた。


「な、ええ──っ?」


 それ早く言ってよーっ! いや、俺もかなかったけどさーっ!


「つまり、俺は別に、母さんとおまえに『ひきこもっていて迷惑だ』と思われていたわけではなかったって事なのか……?」


「やだぁ、なに言ってんの、お兄ちゃん?」


 芽衣はころころと笑った。ツインテールの長い黒髪がサラリと揺れる。


「ママも私もそんなコト思ってないよ。だってパパがお金はいっぱいのこしてくれたし、私とお兄ちゃんくらい一生面倒見られるってママ言ってくれてるよ。お兄ちゃん、なんでそんな変な心配してるの? 無駄に悩んでるとハゲるよ」


「う……うっさい、ボケ」


 言い返した俺の声は少し湿しめっていた。


 ホッとしたのだ。


 母親と妹に、迷惑だと思われていなかったと分かっただけで……


   ◆◆◆

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