『2、美人歯科医のバイト面接』


 さて、三日後の木曜日──


 創立そうりつ記念日きねんび休校きゅうこうらしく、朝から妹の芽衣めいがうるさかった。


 芽衣は五つ年下の十六歳で、ぼう有名お嬢様学校に通っている高校一年生だ。サラサラのストレートヘアはれたようにつややかな漆黒しっこくで、普段はツインテールにしている。色白の肌は陶器とうきのようにき通り、瞳はうるんで大きく、まつげも長く、鼻は小さく、ピンクのくちびるはぷるんとした果実かじつのようだ。我が実妹じつまいながらアイドルのように整った可愛らしい容姿ようしをしている。


 その妹が、両手をこしに当てた監視官かんしかんのような態度で俺の全身を頭のてっぺんから爪先つまさきまでめるように確認かくにんすると、はああ、とかたを落とした。


「お兄ちゃん、初めてお仕事の面接に行くんでしょう。もっと真面目っぽくて清潔感のある服を選ばないとダメだよ。そんな恰好じゃ全然イケてない」


 真面目っぽいという似非エセ感とイケてるが芽衣の中では両立するのか……などと、どうでもいい疑問がいたが、何を言う間もなく、強引ごういんに腕をつかまれ、俺の部屋のクローゼットの前に引っ張って行かれ、白いボタンシャツと黒いスキニージーンズと黒いソックスを選んでベッドの上に置かれ、ついでに芽衣の私物しぶつの細めの黒いネクタイも押し付けられた。


「はい。サッサと着替きがえるっ!」


 パンパンと両手をらして犬に芸でも仕込むように命じる妹の意のままに──さすがに服をあいだは芽衣に部屋の外に出てもらったが──用意された服を身に付けた。


「髪も少しセットするね」


 そう言って精一杯せいいっぱいの背伸びをしながら、芽衣はあわい桃の香りのするヘアワックスを俺の髪にりつけ、くしととのえてくれた。背伸びがつらそうなので少し腰を曲げてやったのだが、鈍感どんかんな芽衣は気付いていなかった。


 そんなこんなで、バタバタと身支度みじたくをし、わざわざソレ用に撮影さつえいした写真をった履歴書りれきしょとその諸々もろもろを入れたトートバッグをたずさえて家を出る頃には、指定された面接の時間、午前十時に間に合うか間に合わないかのギリギリになっていた。


 スマホのナビを見ながら母親に紹介された歯科クリニックに小走こばしりでかう。


 四月も中旬ちゅうじゅんになると桜は完全にり、明るい緑の葉がわっさりとしげっている。風はさわやかで心地好ここちよいが、陽射ひざしはすでの初夏しょか様相ようそうていしていて、煉瓦れんがきの歩道ほどうあせって歩いていると息ががり肌が汗ばんできた。


 れないネクタイを外して襟元えりもとを広げうでまくりがしたい。


 面接をとっととませ、帰りはすずしい恰好かっこうで帰ろう。ついでにコンビニでソーダ水も買おう──と、俺はすでに落ちる気満々まんまんだった。


「確か、この辺りのはずなんだが……」


 暑さで息を切らして見上げた建物たてものは、白い瀟洒しょうしゃ屋敷やしきと言ってもつかえないしろもので、二階がおそらく居住空間きょじゅうくうかんになっており、一階が診療所しんりょうじょのようだった。人が入りやすいようにする工夫くふうか、道路にめんした玄関の側は煉瓦れんがづくりのへい途切とぎれており、車寄くるまよせはコンクリートきで、セダン一台分の駐車ちゅうしゃスペースがあった。


 玄関げんかんの横にはテラコッタの鉢植はちうえがいくつもかれ、それぞれピンクや黄色や淡いブルーの花がえにされていて、可愛らしい陶器とうきのうさぎまで置いてあった。


 建物の奥には狭いが手入ていれの行き届いた庭も見える。咲き始めた薔薇はらのアーチや、満開まんかい海棠かいどう花枝はなえだも見える。芝生しばふの明るい緑が瑞々みずみずしい。


 しかも、玄関の扉はアールヌーヴォー風の黒檀こくたんにステンドグラスのめられたったデザインだった。ドアノブもブロンズ色でお洒落しゃれだ。パッとは完全に女性向けの美容びようサロンだが、品のある細い書体しょたいで『吉川よしかわ歯科しかクリニック』とられた大理石だいりせき看板かんばんが、ひかえめに、ここが歯科医院しかいいんであることを伝えていた。


 自分が想像そうぞうしていた無機質むきしつな歯科医院とイメージが違い過ぎる。


 ごくり、とわれらずのどを鳴らしてしまった。日頃は緊張きんちょうとは無縁むえんの生活をしているが、この時ばかりは何故なぜ奇妙きみょう緊張きんちょうを感じた。気後きおくれしたのかもしれない。あまりにもロマンチックな雰囲気ふんいきで建物の中に入ることが幾分いくぶん躊躇ためらわれたのだ。


 しかし、そんな事も言ってはいられない。母親に行けと言われただけのバイトの面接だが、約束やくそくは約束だ。時間は守らねばなるまい。まあ、どうせ雇われはしないだろう。こんな小洒落こじゃれた場所に、俺の居場所いばしょがあるとは思えん。適当に面接だけませてすぐに家に帰ろう。そしてポテチでも食べつつアニメを流してネットも見ながらゲームもしよう。


 はあ、早くまったりしたい。


 玄関を開けると、清潔せいけつ待合室まちあいしつぢんまりとした受付うけつけカウンターが見えた。インターフォンを押した時のような、ピンポーン、という音が鳴る。今は午前ごぜん午後ごご診療時間しんりょうじかん合間あいまであるようで、受付うけつけにはだれもいなかった。


「どうぞ、くつのまま中へお入りください」


 おくから聞こえてきた声はやわらかなメゾソプラノ。女性の声だ。


 俺は、この時、完全におもちがいをしていた。


 医師といわれるとなんとなく男性を思い浮かべてしまうくせがあり、母親の知り合いの歯科医師も男性だと勝手に決めつけていたし、このメゾソプラノの声の主も、先生のところへ案内してくれるクリニックのスタッフだろうと思っていた。


 クリーンな診療室しんりょうしつには歯科しかユニット──ヘッドレストのいた患者かんじゃすわ診療用しんりょうよう椅子いすに、医療用いりょうようライトや患者が口をすすぐスピットンと呼ばれる給排水台きゅうはいすいだい、歯科医師が使用する治療器具ちりょうきぐ薬剤やくざいなどをせるテーブルの付いたシステム──が二台ならんでいた。


 診察室の左側には二つとびらが並んでいて、奥の扉にはレントゲン室と書いてあり、手前てまえの白い扉の向こうがどうやらスタッフルームのようだ。


 ノックをして名乗なのると、ふたたび「おはいりください」とあの声が言った。


 スタッフルームは物が多いがそれなりに片付けられていて、書類しょるい整理せいりをしながらお茶でもためなのか四人掛けのアールヌーヴォー調ちょう洒落しゃれたダイニングテーブルも部屋の中央ちゅうおうに置かれていた。


 ただし、洒落ているのはそのテーブルだけで、それ以外はクリニックらしいシンプルなインテリアだった。その時点じてんでは何の為のものかまだ分からなかったが──器具の洗浄せいじょう必要ひつようあらもあり、奥の作業台さぎょうだいには石膏せっこう型取かたどりされた歯の模型もけいなどが乗っていた。用途ようとの分からない機械きかいがいくつかあり、医薬品いやくひん治療器具ちりょうきぐの入っているたなもあった。他は、扉が四つあるスチール製のロッカーと、靴とナースシューズを置くシューズラックと、冷蔵庫れいぞうこと、段ボール箱がいくつかまれたスペースがあり、部屋のすみには無造作むぞうさ着替きがえ用のパーテーションも置かれていた。


 建物の外観がいかんくらべて意外いがいなほど事務的じむてきな部屋だ。


 その中で、唯一ゆいいつ洒落たテーブルのいちばん奥の席に、上品じょうひん清楚せいそな女性が座っていた。


「初めまして。私が院長いんちょう吉川よしかわさやかです」


「え、あ……女医じょいさんなんですかっ」


 ここの歯科医師は女性だったのか──と、この時、やっと気が付いた。


 おどろいた。


 ものすごい美人だ。


 白い診察服しんさつふくを着て、綺麗きれい栗色くりいろめたかみはピンでまとめてアップにしている。ナチュラルだがすきのないメイクで、まるで女優じょゆうのようなはながあった。


 事前じぜんに母から「吉川先生は昔からご近所でも有名な秀才しゅうさいで、高名な国立歯科大こくりつしかだい優秀ゆうしゅう成績せいせき卒業そつぎょうしたし、まだ三十二歳なのに早々はやばやとご自分のクリニックを開いていらっしゃる立派りっぱかたなのよ」とだらだらしたおしゃべりを聞かされていなければ──聞いた時点では男性だと思っていたのだが──彼女が何歳なんさいなのかまったく見当けんとうがつかなかったと思う。


 女性の年齢ねんれいは俺には分からない。


「君が夏ノ瀬なつのせ真之まさゆきくんね。お母様からお話はうかがっています」


 美しい人は手のひらでふわりと自分と対角たいかくせきしめして言った。


「どうぞ、おけください」


 昨夜ゆうべネットで調べた焼刃やきば面接めんせつ作法さほうのっとって一礼して椅子に腰かけ、履歴書を差し出す。


「うちは今、私と、野村のむらさんと佐々木ささきさんという二人の歯科助手の、三人だけで回しているの。野村さんはフルタイムで入ってくれているんだけど、佐々木さんは小さなお子さんがいらっしゃるから午前中しか働けないの。そういうわけで、午後の人手が足りないんです。午後二時から七時まで働いてくれる人を探しているのだけど、その時間のアルバイトは可能かのうかしら?」


 可能か不可能ふかのうかで言えば、もちろん不可能ではない。なにしろ俺はひきこもりだ。何もようなどありはしない。


「はあ、まあ、大丈夫だいじょうぶです」


 いそがしいなどという無駄むだうそもつきたくなかったし、そもそも雇われるわけがないと思っていたので、俺は適当てきとうかつ正直しょうじきに答えた。


 吉川先生はろくに俺の履歴書も見ずに微笑ほほえんだ。


「明日から働いて欲しいんだけど、都合つごうはどうかな?」


「は?」


 一瞬いっしゅん、意味が分からなかった。


 今、この人、なんて言った?


 明日から働いて欲しいって言わなかったか?


 ちょっと待て。理解できん。どう見ても女性しかいないように見えるこのクリニックで、男の俺を雇って、そっちこそ大丈夫なのか? 着替えとか、着替えとか、着替えとかーっ!


「君に決めました。君を雇います」


「えっ? ええーっ? 俺を雇うんですかーっ?」


 思わず素っ頓狂すっとんきょうな声が出た。


 その次の瞬間しゅんかん、俺は唐突とうとつさとった。


 しまった、やられた!


 これはわなだ。


 完全にうちの母親の策略さくりゃくだ。


 この面接は形式的けいしきてきなものにぎず、俺は最初さいしょから『コネで』雇われる密約みつやくが、母親が俺に知り合いのクリニックでバイトしてみるようすすめてきたあの時より以前、すでにうらされていたのだ。ここに来る事を承諾しょうだくした時点で、俺が就労しゅうろうする事は決定事項けっていじこうとなっていたのかーっ!


 うぐっ、と俺は声をまらせる。


 その推理すいり裏付うらづける物的証拠ぶってきしょうこが、次の瞬間、テーブルの下のかごの中から出てきたからだ。男性用のダークネイビーのナース服(医師も同じものを着用しているので診療服とでも総括そうかつしてぶべきだろうか)が二揃ふたそろえと、これまた男性用の白いナースシューズ(こちらはありふれたスリッポンタイプのスニーカーだった)が一足。すべて、俺の身体からだにピッタリのMサイズだった。


 こんな準備じゅんびの良いクリニックが存在そんざいるか?


 いや、存在しない。


 事前じぜんに母親からサイズを聞いていなければ、こんな事はない。


 吉川先生はトドメをすようにニッコリと笑った。


「では、明日から、うちのクリニックの診療日の月曜日から金曜日まで、毎日、午後二時までには来て、スタッフルームで着替えを済ませて待機たいきしておいてください。診療しんりょうは六時半まで、その後に簡単な片づけをしてもらいたいので終業しゅうぎょうは七時です。タイムカードも用意してあります。使い方は明日、野村さんに訊いてくださいね。これは雇用契約書こようけいやくしょです。よく内容を読んで署名しょめい捺印なついんして持って来てね」


「な、え? はあ……?」


「真之くん、明日からよろしくね」


 吉川先生は有無うむを言わさず話をめた。


   ◆◆◆

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