第28話 林檎の香

 夢の中まで、いい匂いがしていた。


 これはたぶん夢なんだろうな、と夢の中で気付いていた。

 すごくいい夢。

 普段だったら、覚めないで欲しいと願うだろう。

 後ろ髪ひかれることもなく、未練もなく「起きよう」と思ったのは、パンの焼ける匂いや、お茶の香りが空腹を痛いほどに思い知らせてくれたからだ。


「ヴァレリー、今日の予定は?」

「店番くらいかな。といっても、開けるつもりもない。さすがに前夜祭が始まるとあっては、遊びにくるガキもいないだろ。不測の事態で薬が必要なひとがくるかもしれないから、戸を叩かれたら返事はする程度」

「そっか。俺は夜も交代で警備につくみたいで、今日明日は家に帰ってこない。って前にも言ったけど。ロザリアのこと」

「おお、大丈夫だ。明日は完全に戸締りして、祭り見物にも行くぞ。飴ちゃんでも買ってやる」

 のんびりしたヴァレリーの声に「ちょっと」というロザリアの非難がましい声がかぶさる。


(賑やかっていうか、うるさい……。生家は毎日こんなんだったけど。静けさを求めて独り暮らしはじめたのに……。いつの間にこんなことに)

 身動きしようとしたら、みしっと身体の上に重みを感じる。

 手で探ってみると首から顎にかけて触れていたのは固い上着の襟。ジュリアが身に着けていたものだ、と見ずともわかる。

 その上に、何やら色々積まれている。毛布などをかき集めてきたようだ。いや、洗濯物の山かもしれない。重すぎる。


 うっすら目を開けると、すでに辺りは明るい。朝だ。ひときわ美味しそうな匂いが迫って来た。

「起きた。おはようございます」

 すでにきっちりとシャツを着こんだジュリアが、木のスープ皿片手に見下ろしてきている。

「おはよう……?」

(ジュリアだな。うん、ジュリアだ。男の方の)

 記憶がだいぶ混乱している。

 男の方というか、最近はずっと男だ。そのうち少女であったことを誰もが忘れるだろう。

 どこに出しても恥ずかしくない、自慢の……息子? 六歳しか違わないけど。


「気分はどうですか? 朝ご飯は食べられます? 悪酔いはしないタイプだって聞きましたけど、気持ち悪かったり痛かったりとかはないですか?」

「えっと……。重い」

 テーブルに木皿を置いて引き返してきたジュリアが、ラナンの上に積まれていた毛布類を持ち上げて取り除いた。


「あんまり覚えてないんだけど……。僕は昨日、寝ちゃったの?」

 身体を起こしながら、前髪を指で梳いて額に手を当てる。

 リビングのソファに寝かされていたのは、ラナンの自室に勝手に入らないように配慮した結果かもしれない。

「それはもう安らかに」

 ラナンの横に再び毛布の山を置き、思い出したように一番下から上着を引っ張り出しながら、ジュリアが答えた。

「ごめん……」

「そのつもりだったので、謝らないでください」

 言いながら、ジュリアは身をかがめてラナンの耳元に唇を寄せた。


「潰すつもりで飲ませました。どの辺が限界か把握しました」


 変なこと言ったな!? と、顔を上げたときにはすでにジュリアは上着を掴んで離れていったところだった。

「昨日の残りのスープに、トマトとチーズを入れて少し味付けを変えました。食べられそうですか?」

 おそらくラナンとジュリアが食べないで余した分を、今朝はアレンジして四人分にかさまししたのだろう。

「あ、うん。なんかすごくお腹はすいているんだよね」

 さっきのジュリアはなんだったんだろう、と思いながらも日常会話は続いていて、物騒な囁きは胸のざわつきだけを残して消えていく。


「それじゃ、俺はもう行きます。お師匠様も今日は仕事入れてないんですよね。ゆっくりしてください。まだ寝ていてもいいんじゃないですか」

 上着の袖に腕を通しながら、ジュリアが笑って言った。

「ええと、帰ってこないって……?」

「ああ、聞こえてましたか。少し家をあけます。実は祭り以降も仕事の声がかかっていて……。場合によっては今後も帰らないこともあるかもしれません。連絡はきちんとするようにします。いってきます」

 さらさらと耳に心地よい声で告げて、ジュリアは踵を返す。

 向けられた背中に、呆然としたまま「いってらっしゃい」とだけ声をかけた。


 一拍置いて、立ち止まったジュリアが、肩越しにどこか気恥ずかしそうなささやかな笑みを浮かべて振り返る。


「林檎の匂いがする」

 睫毛を伏せて、自分の襟に頬を寄せるように息を吸うその姿を見て、ラナンはおおいに慌てて身を乗り出した。

「お酒の匂いだよ! 仕事行くのに!」

「誰も気にしないですよ。俺も頑張れそう」


 今にも飛び出して引き留めそうなラナンに笑いの残像だけ見せて、さっと向き直ると戸口に足早に向かって、出て行ってしまった。


          *


「仲直りできた?」

 ロザリアが店舗の掃除に出て行った後、一人遅めの食事をとっているラナンに対し、ヴァレリーが湯気の立つお茶を差し出しながら言った。

 

「……ありがとう。お茶」

 最後の一匙、スープをすくって飲んで、ラナンは厚手の陶器のカップを受け取る。

(仲直り……)

 表情を決めかねているラナンの様子に構うことなく、ヴァレリーは向かい側に座ると、自分のカップに口をつける。

「あっつ」

「猫舌が、何してるの」

 自分でいれたお茶に自分でやけどするなよ、との気持ちを込めてラナンが小さく野次ると、ヴァレリーは少しばかり情けなさそうに眉を下げて呟いた。


「克服できてるかもしれないって、毎日望みをかけているんだよ」

「何年越しの願望なの? そろそろ良い年なんだし、諦めたら」


 つれない態度になってしまったのは、生活全般なんとなく「面倒みられている」ことへのかすかな苛立ちのせいかもしれない。 

 なんとなく、なのがいけない。

 押しつけがましかったら文句の一つでも言う。かといって、気付かせない程度にされるのはもっと嫌だ。お礼も言えないなんて馬鹿みたいで。

(だから、お礼は……言うけど)

 そのうち。タイミングをみはからって。


「そういえば、ジュリアの職場に『兄貴風』を吹かせたがりの男がいるらしいんだけど。そういうのってどうなのかな。本人的には何が楽しいんだろうね」

「楽しい、なぁ……。人間は『育てる』ことに快感を覚える生き物なのかなって思うことはあるけど」

「快感?」

 声を低めて聞き返すと、ヴァレリーは口元からおっとりとした笑みを広げた。


「『お師匠様』だって、そういうことなんじゃないのか? 美少女二人手元に囲って」

「少女じゃなかった。もうあの触れればキレそうな姉さんの方はいない」

「いなくないだろ。なんでそんな風に『別人』として扱おうとしている? 見た目が変わっても、中身は変わらないんじゃないか」

(変わってるってば)

 前はラナンとの接触だってものすごく気を付けていたのだ。それなのに、今は自在に距離をつめて触れてくる。

 わがままめいた苛立ちは口に出せずに、ラナンはだまってお茶を飲む。


「姉さんはいなくなったかもしれないが、ロザリアはまだいるしな。あれは美人になるだろうなー」

 のんびりとした調子でヴァレリーが呟く。

 がつん、と音を立ててラナンはカップをテーブルに打ち付けるように置いた。

「……え!?」

「ん?」

「ヴァレリー、親切だなと思っていたけど、ロザリアのことそんな風に見てたの!? まさか、育てる快感って……、『俺のプリンセス・メーカー』的な」

 あわわわ、と唇を震わせたラナンに、ヴァレリーはため息交じりに声をかける。

「おい」

「僕の可愛いロザリアに手を出さないでよね!!」

 冗談か本気か自分でもわからないなりに釘を刺すと、ヴァレリーには呆れた視線を投げかけられた。


「何言ってんのお前。先走りすぎっていうか……、俺をなんだと」

「そりゃべつにね。幼女に手を出す獣だなんて思ってないよ!? だけどさ、そういう風に言われると気になるんだよね。ロザリアはヴァレリーになついているから、余計に。だいたいヴァレリー、全然女っ気もないし!? 普通にもてるのに、どうしちゃったんだろうって思うじゃない……!!」

 話し過ぎたのは。

 途中で遮られなかったせいでもあり。

 そもそも遮るようなぶしつけなことはしない相手だと知っている以上、自重するべきなのは知っていたはずなのに。

 口が、すべった。


「共同生活、はじめたばっかりなんでね。これでも結構遠慮してるんだ。お前らみたいに喧嘩して空気悪くしたりする気がないだけ。仲が悪くても決まり事さえ守れれば共同生活はなんとかなる、なんて割り切ってないからな俺は。ただ、一応言っておくけど、俺は俺であんまり口出されたいとは思ってない。特に、人間関係。いや、女関係」

「はい」

 迫力。

 素直に返事をしたラナンを一瞥し、ヴァレリーは目元だけで小さく笑った。


「とはいえ、お前がロザリアのことを心配するのももっともだ。小さくても女だし、というか世の中には変態もたくさんいるわけだし。誓っておくよ、ロザリアのことは可愛いと思ってはいるけど性的な意味合いは一切ない。今後もない。十年後、二十年後もない。手を出すなんて絶対にありえない」


 そういったヴァレリーの真摯なまなざしにこめられた数多の意味を、ラナンはとらえきることがかなわず。

 ただ、言質をとったことにひとまず安堵して「別に最初から疑ってなんかいないけど」と答えるにとどめた。

 ラナンの質問に答えているようでいて、その実穴だらけであり、彼自身の本心はあまり語られてはいなかったことに気付くのは、これより少し後のことである。


 なお、このとき。

 ドアの裏には立ち聞きしている小さな影があり、その場に膝をついてしゃがみこんでしまったことには、大人二人は気付いていなかったのだった。


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