第2話 エリーゼ

 アパートの自室には寝室とリビング、小さなキッチンとシャワールームが備え付けられている。もう一つ部屋があるが、そこには仕事道具やらで埋め尽くされているから使えなかった。

 寝室は一つしかない。その部屋を彼女に譲ったので、今朝はリビングのソファの上で目が覚めた。

 すぐに昨日の少女の事が案じられたので寝室へと向う。扉を開けると、昨晩、最後に見たときと同じ姿勢で少女は寝ていた。その人形のように綺麗な顔立ちや小柄な姿、そして焼けた手のひら。それらを見て、俺は何だか悲しい気持ちがしたので、鬱憤晴らしにピアノを弾いた。

 何時間くらい弾いていただろうか。

 俺がベートーヴェンの「エリーゼのために」を演奏していると、ふと気配を感じ、振り返った。そこに彼女だった。

 目覚めた彼女は美しかった。髪は綺麗で艶やか。美しく、けれども幼さを残した顔立ち。手足は細く、透き通るように白い。特に眼をひかれたのはその綺麗な深緑の瞳だった。


「おお。目が覚めたのか」

「うん」


彼女の声色から、彼女が強い警戒心を抱いている事を感じた。

 ここは自己紹介だな……


「はじめまして、俺の名前はガウス カルマート。二十歳だ。君の名前を教えてくれるかな?」


俺の問いに少女は極度の不安感を顔に出した。


「私の……私の名前は……私は誰ですか?」


 ……質問に質問で返されてしまった。


「君は昨日、アルフヘイムの東部の草原で見つけたんだ。空高くから落下して来たから慌てて助けたんだが、覚えていないかい?」

「……うん。ごめんなさい」

「いいんだ、無理して思い出そうとしなくて」

「ありがとうございます。お兄さん」


 不安のためか声はか細く弱々しい。


「ところでお兄さん。今の曲……好き」


 どうやら俺のピアノの音で起きたらしい。


「気が合うね。エリーゼのためにって言うんだ。俺も好きなんだ。そうだ、君の名前が分からないから、エリーゼって呼んでも構わないかな?」


少女は考える仕草をした。

 流石に安直すぎたか……見たところ十五歳位だ。年頃の子は気難しいしな……嫌われないかな……

 しかし俺の不安は杞憂だったようで、少女は嬉しそうにして


「うん! じゃなくて、はい! ガウスさん。よろしくお願いします」


と言い、深々とお辞儀をした。その声は明るく元気な声だった。


 俺がエリーゼと会話をしているとノックの音が響いた。エリーゼはそれに怯えた様子だった。


「エリーゼ。不安を感じる必要はないよ。お客さんが来たんだ。ちょっと待っていてくれ」


そう言い、俺は玄関の扉を開けた。


「おはよう、ガウス」

「お、おはよう。エル」


 目にクマをつけたエルがそこには立っていた。


「昨晩の子。どう?」

「丁度目が覚めたところだ。記憶を無くしているようだ、名前もわからないんだ」

「そう。ところで、私はもう寝てもいい?」

「すまなかった。すぐにエルの部屋に伝えに行くべきだったな。もう大丈夫そうだ。安心して休んでくれ。幸いにも今日は日曜日だしな」


 余談ではあるが、メタリカの暦は太陽暦を採用している。どうやら奇跡的にもこの世界も上手い具合に太陽と地球が回っているらしい。ちなみに月もあるが、それは現世とは異なり少し大きい。


「分かった。じゃあ寝るね!」

「ああ。それと、これからエリーゼ、いや、エリーゼってのはあの子の仮の名前なんだが、この後に彼女にメタリカを紹介しようと思うんだ。昨晩のお礼に一緒にご飯をしないか?」

「誘ってるの? 学院一の堅物だったガウスが?」


俺の誘いにエルはからかうように返した。


「うるさい。行きたくないなら結構。ゆっくり寝てろ」


少し不愉快だったので、声色が冷たくなってしまった。


「ごめんごめん。行きます。じゃあ、お昼にまた来るね」


 幸いにして彼女は気を悪くしなかったようだ。良かった。


「ああ。そうしてくれ」

「じゃあ、もう行くね。頑張って」


 そう言うと、彼女は階段を登り自室へと戻って行った。



 リビングへ戻るとエリーゼはピアノの鍵盤を興味深そうにいじっていた。


「ガウスさん。ごめんなさい、勝手に触って……」

「良いんだよ。気に入ったのだね。この楽器はピアノって言うんだ。俺の故郷の楽器なんだ」


 細かく言えば、ピアノは日本の楽器ではないが、そもそもここは異世界。次元が違う。大きく見れば故郷の楽器と言って差し支えないだろう。


「ピアノ……私、これ好きです。ガウスさん。もう一度、さっきのお願いしても良いですか?」

「勿論だ。何度でも。別の曲もあるが、それも聴かせてあげるよ」



 そこからの記憶はない。気がつくと日が暮れていた。幸いにもエルはまだ寝ていたからお昼の件は大丈夫だし、エリーゼが警戒心を解いてくれたので、結果的に成功したと言える。腱鞘炎にはなったが……

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