第3話 兵残滓


 真っ白な湯気が鍋から立ち昇っていた。


 何とも濃厚で芳ばしい匂いが部屋に満ちている。


「んんっ、なんとも堪らんのう。ワシゃどうにもこの軍鶏鍋に目が無くての。山南さん、嫌いじゃ無かったかの?」


 龍馬は童のように瞳を輝かせながら、マメに鍋の世話を焼く。

 数種類のキノコに野菜、それに豆腐。そこにぶつ切りにした軍鶏しゃもが投じられ、肉がとろとろに煮込まれている。


 土鍋についた味噌の焦げた匂いが、なんとも堪らなく食欲を誘う。

 龍馬は無造作に酒を回しかけると、青ネギを手掴みで散らした。


「温ったまるぜよ」


 龍馬の取り分けた碗を手に取ると、山南は口に運んだ。


「これは旨いですね」


 軍鶏から出たダシと野菜の甘みが絡み合い、絶妙な味の深みを生んでいる。


「じゃろぅ。コレがまた酒が進むんじゃ。寒い夜には最高ぜよ」


 山南が箸をつけるところを、不安そうに見ていた龍馬が、なんとも嬉しそうに微笑むと、自分も汁をすすった。

 箸で掴んだ軍鶏の肉が、ホロリと崩れ落ちる。

 その柔らかな肉が、青いネギと絡み、口に運ぶと堪らなく旨い。

 山南もしばし無言で、箸を口に運んだ。


 龍馬が眼を細め、その姿を嬉しそうに眺めている。

 それに気がついた山南が照れたように居住まいを正した。


「まま、ご一献」


 龍馬がお銚子を傾ける。


「かたじけない」


 山南が盃を受けた。


「しっかし、なんじゃの。まさか山南さんとこんな所で会うなぞ、これぞ合縁奇縁の極み。まさに神さまの思し召しっち言うやつかの」

「まったくですね」


 互いに盃を刺しつ刺されつ、二人は声をあげて笑った。


「それしても、こうして山南さんの顔見ちょると、まるでここが伏見っちゅうのも忘れて、江戸かと錯覚しゆうがの」


 ともに同じ門下でありながら、その際にはこうして酒を呑むなど一度もなかったふたりである。それが遠く伏見の地でかなうなど、縁とはまことに奇妙と思わざるを得ない。


「それは私もそうですよ。この伏見と言う処は、洛中のそれとはまた違い、何処か江戸の賑わいを思い出させる」


 京・奈良・大阪・近江の中継地に当たる伏見は、木津川・宇治川・桂川、それに鴨川の流れ込む、水路・陸路の要所であった。

 関白・豊臣秀吉により開発の勧められた伏見は一時期、天下の中心といっても良いほどの賑わいをみせた。


 その後も一時期、徳川家康が伏見城へ居を構えたりと、常に物流や交通の要所として栄えてきた。

 その活気は今も変わらず、夜も更けてきたというのに、窓の外では伏見港の賑いが収まることを知らず、階下での嬌声が山南の心にも一抹の高揚を感じさせる。


「――で、山南さんはこの伏見で、何をしちゅうがや?」

「私ですか……」


 何と答えるべきか――山南は少し困ったように言い淀んだ。


「お恥ずかしながら先日、剣を折ってしまいまして」


 苦笑交じりに顎を掻いた。


「なかなか派手に活躍しちょるみたいじゃの」

「えっ」

「――――壬生浪士組。いや、今は新撰組じゃったかな」

「ご存知でしたか」


 山南が苦笑する。


「会津藩、京都守護職 松平容保公のお預かり」


 難儀じゃのう――と、酷く寂しそうに龍馬が呟いた。


「まったくですね」

「そいなら手に馴染む剣でも探しぃ来ましたか」

「そのようなところです」

「千年王城と謳われる京の都も、すっかり血生臭くなってしもうて……げにまっこと、ヒトのごうっちゅうのは恐ろしきモノじゃの」

「それでもまだ、人がヒトの分のうちで行うことならば、致し方なき事と思うしかないのでしょう」

「確かにの。明日を創るために、人が己の血肉で業を贖う(あがなう)のなら致し方ないとも思うがの。じゃがの、幾らなんでもちと血を流しすぎじゃと思いませんかの?これじゃあ、因縁怨念溜まりすぎじゃ。」


 龍馬が細い目をしかめ、溜息をつく。


「そうですね」

「こない有様では、再び京の都に穢れが澱み、平安の世の様に魑魅魍魎が跋扈ばっこしよるぜよ」


 この男――思いもよらぬ言葉に、山南は一瞬、表情を固くした。


「あっ、山南さん。坂本がまた、馬鹿なことを言うちょると思うたじゃろ」

「いや、そんな事はない」


 そもそも、またと言うほど龍馬のことを知っているわけではない。


「何時だったか。ワシの知り合いも、何やら面妖なモノに取り憑かれたらしくて――」


 龍馬が周囲を見回し、口の横に手をあてると、顔を近づけ、


「こう、なんと言うたかの――頬のあたりに、人の顔が浮かび上がってきたんじゃが」


 わざとらしく声を潜めた。


人面瘡じんめんそうですか?」

「そうそう、それじゃ。その人面瘡。それなんぞも、何やらキナ臭い人外のモノじゃろ?その男なかななかどうして業深き輩じゃから、けがれも因縁もしょい込み過ぎたんじゃな」


 龍馬が苦笑した。


「そうでなくても、ここ最近は京市中で何やら不審な事件が頻発しちょるとか。の呪いだとか、死んだ人間が人を斬るだとか――」


 くわばらくわばらじゃ――と、山南の表情を探るように、龍馬が覗き込む。


「そうなんですか」


 この男――なにを知っているのだ。


「なにやら、ツレないのう」


 龍馬が子供のように口を曲げるが、細い目の奥に不思議な光が灯っているのを、山南は見逃さなかった。


 と、その時――



 ぐ――

 ……ちぃぇすとぉ――――

 ……止……めんか――――


 それは囁くような小さな声だった。

 隙間風のようでもあり、吐息のようでもあった。

 

 ――んごてじゃ――――

 ――おはんらと…………

 きえぇぇ――


 山南は口にした盃を置くと、眼を閉じ眉間にしわを刻んだ。


「どうかしたかの」


 聞こえていないのだろうか。龍馬は平然とした顔で酒を呑んでいる。


「これか――」


 柔志狼の文に書かれていたのはこのことだったのか。

 

 ……上――――意である……

 ぐぉ――――

 ……神妙に、上意討――――じゃ……


 激しく刃を打ち付ける音――――

 怒、哀、悲、鬱、憂――――

 喜、悦……


 複雑に絡み合い、混沌とした感情が入り乱れ、残留した氣がこの場に焼き付けられている。


 それはどれほどの無念だったのだろうか。


 一つひとつは意味を成さぬ、混沌とした惨劇の残滓ざんし

 山南には、それが思念の奔流となって観えていた。


「死んでも死にきれんのじゃろうな」


 龍馬は遠い眼で、襖の向こうを見つめた。


「君にも観ずるのですか?」

「ワシゃあ近目じゃきに、細かな事はよう見えん。そん代わり、人には見えんもんが観えゅう事も有るかもしれん」


 嘘とも洒落とも分からぬ表情を浮かべ龍馬が口角を歪める。


「これは――そうか、薩摩の尊王攘夷派への鎮撫」

「まだ一昨年の事じゃからの――――そりゃあ残念無念。未だ未練が断ち切れんのじゃろ」



 文久二年四月。


 当時、攘夷の機運の高まりを見せる京の都。

 そこに満を持して、西南雄藩の巨魁・薩摩藩が動いた。


 藩主・忠義ただよしの父であり、薩摩藩事実上の指導者である島津久光が上洛をした。


 俄然、勢いづく京の勤皇の志士たち。

 だが、当の久光には倒幕の意などは無く、本心は朝廷・幕府・雄藩の連帯――いわゆる公武合体の意を含んでの上洛だった。


 更に加え久光は、朝廷より京を騒がせる志士鎮撫の命を受ける。

 だがそれに対し、なにより納得がいかなかったのは、当の薩摩藩の過激派勤王志士であった。


 そうしてこの事が、悲劇を生むこととなる。

 納まりのつかない彼らは、破滅的ともいえる計画を画策する。関白・九条尚忠ならびに京都所司代・酒井忠義を襲撃し、その首を持って久光に直訴し今一度、攘夷を促さんとしたのだ。


 文久二年四月二十三日。


 有馬新七ら薩摩藩の攘夷志士たちは、藩の常宿であるこの寺田屋に集った。

 久光の命を受け、奈良原喜八郎ら九人名の藩士が、暴発を押さえんと寺田屋に乗り込むも決裂。結果、同じ薩摩藩士で同士討ちが起こった。


 この夜、双方合わせて七名が命を落とした。

 狂気と血に酔いしれた、幕末の恐怖の象徴とも言うべきこの事件の舞台となったのが、この寺田屋であった。


「コレでも大分落ち着いたらしいがの。それでもまだ時折迷ってでると、ここの女将もよう困っちゅう」


 と言いつつも、龍馬は涼しそうな顔で酒を口に放り込んだ。


「流石にこれは……」


 山南が痛ましそうに眉間に皺を刻んだ。

 ――とその時、階下で悲鳴が上がった。

 同時に、山南の眼の前で、畳の隙間から黒いもやのようなものが湧いて出た。


 曖昧模糊あいまいもことしたそれは、ドブ泥の如く澱み、泡の如く染み出してきた。

 瘴気が見る見るうちに畳に広がっていく。


「ワシらが仲良う酒宴を囲むが悔しいのかの?今宵は特にタチが悪いみたいじゃの」


 ぼさぼさの髪に指を突っ込み頭を掻くと、龍馬はため息をついて立ち上がった。


「行ってどうなるもんでもないがの、ワシしゃちょいと下に行ってくるきに」

「待ちたまえ坂本君」


 龍馬に立ち塞がるように、山南は立ち上がった。


「今宵は美味い鍋をご馳走になった。ささやかなお返しと言ってはなんだが、ここはひとつ私に任せて貰えないだろうか」

「山南さんにかえ?」

「ええ」


 それに――と、山南は諦めたように息を吐き、


「まぁ、この為に来たようなものですから」


 寺田屋の怪異を鎮めてくれ――それこそが手紙に書かれていた、柔志狼の頼みだったのである。


「それは楽しみじゃの」


 龍馬が童のように笑った。


「ただし、この件は他言無用に願います」

「分かったき。なにやら分からんが、山南さんのお手並みを拝見とさせてもらおうかの」


 龍馬は元の位置にどっかりと腰を下ろした。山南が懐から白い紙を取り出すのを、硝子玉のような眼で見つめている。


「それは……御札かの?」

「そのようなモノです」


 視線も合わさぬ山南の真剣さに、さすがの龍馬も口を結んだ。


 ふっ――と、呼吸を整え山南は指を絡めると、印を組む。

 口の中で小さく何事かを呟くと、剣に見立てた指先を宙に走らせた。

 縦横縦と順々に、空中を斬る。

 まるで碁盤の目のように空中に九本の筋を描くと、それは淡い光の筋となって、黒い瘴気を切り裂いた。


 瘴気の湧き出た畳の前に立つと、


「……急々如律令」


 蓋をするかのように、白い符を瘴気に叩きつけた。


「坂本くん、そこの酒をとってもらえますか」


 龍馬が冷めた燗を渡すと、山南はそれを口に含み、符の上から勢いよく吹きかけた。

 そして懐から、懐紙に包まれた塩を取り出すと、一面に振りまく。

 流れるような山南の所作に、龍馬が思わず感嘆の溜息を漏らす。

 だが山南はそれに構わず、何かを確認するように部屋を見回した。


「どうかしましたかの」


 龍馬に背を向けると、山南は廊下側の襖の前に立った。

 次になにが起こるのか――期待に満ちた視線で、龍馬がそれを追う。

 すると突然、山南が振り向いた。


 ぱん――と、乾いた金属音にも似た音を上げ、山南が掌を打ち鳴らした。


 続いて、膝を持ち上げると、


 どん、どん――と、踏み鳴らした。


 すぐさま、部屋を斜めに切るように進み始めた。

 まるで氷の上を滑るような足捌きは、能を見ているようでもあった。

 窓の前で立ち止まると、先ほどと同じように向き直る。

 そしてまた掌を打ち鳴らし、足を踏み鳴らす。


 再び、同じように身体の向きを変え、瘴気を中心に残すように、同じように足を運ぶ。

 そしてまた突きあたると、同じように掌を打ち鳴らし、足を踏み鳴らす。

 それを更に二度繰り返す様子を見た時、ようやく龍馬は気がついた。


「五芒――」


 部屋の中心に瘴気を置くようにし、山南は五芒星を描いたのだ。


「そうか、これは結界ちゅうわけですな」

「乱れ澱んだ氣を攪拌かくはんしました。これで少しは落ち着くと思います」


 言われてみれば確かに、いつの間にか瘴気は消え、何事もなかったかのように、階下の騒ぎも治まっていた。


「こりゃぁ……」

「念のため、部屋の四隅に呪符は施しておきます。刺激するような事でも起きなければ、このまま鎮まると思います」


 涼やかな笑みを眼元に浮かべ、山南が頷いた。


「ワシが今この眼で観たこれはなんぜよ。なんだか、とてつもなくエラいもんを見せてもろぅた気がするんじゃ。山南さん、あんた一体何者なんじゃ?」


 童の様に興奮した龍馬が立ち上がり、山南の肩を叩いた。


「若いときに少々、陰陽――呪法を学びまして」


 歯切れ悪く、山南は答えた。


「陰陽の? そりゃあれかの、山南さんは陰陽師っちゅうことかいの」

「いえ。彼らは陰陽寮に属し、おもに天文や暦を司る博士たち方技。陰陽師とは天地陰陽の氣を総べ、森羅万象五行の氣を読み解き、人の世の明日を観るもの。一方、私の使う術は、そのようなモノとは全く異なるのです」


 どこか自嘲めいた笑みを山南は浮かべた。


「なにが違うんかの」

「私の陰陽之術は、陰陽の氣の乱れを撹拌して、平らかにする程度のもの――陰陽師のように、より良き明日を観解くようなものとは違います。せいぜいがこのように、荒ぶりし氣を鎮める程度が関の山。なんの役にも立たない酒席の座興です」


 これこそが、新撰組の仲間の知らぬ、山南のもうひとつの顔だった。柔志狼はこれを知る故に、この寺田屋の件を山南に頼んだのだ。


「何が座興なもんか。現に、薩摩藩士らの無念を鎮めたじゃないがか。こげなこと、本物の陰陽師はせんのじゃろ。なら、まるでド偉い阿闍梨か大師やないですか。矢張り山南さんは凄かお人じゃ」

「坂本君――」

「それにの、吉兆を占いより良い明日へ導くが偉いとは限らんぜよ。ワシらは今日を生きる生身の人間じゃ。明日を生きる前に、眼の前の悲しみや恐怖から救ってくれるいうのも、大切なことじゃと、ワシは思いますがの」


 山南を見つめるその瞳は、深い憂いの奥に不思議な光を湛えていた。それはまるで全てを悟っているかのような、菩薩のような優しい瞳である。

 坂本龍馬――なんとも懐の深いなのであろう。


「ありがとう」


 その言葉に、どこか救われた思いがした。

 だが――


「坂本くん。この事は此処だけの話で忘れてください。決して他言せぬように」


 こみ上げてくる思いを気取られぬように、山南がはピシャリと言った。


「分かっちょります。大丈夫ですきに」


 いつの間にか、いつもの飄々とした顔で龍馬は笑った。


「その代りと言っては何じゃが、ひとつ頼まれてくれんかの」

「頼み――ですか?」


 どこか悪戯めいたその顔に、山南は一抹の不安を覚えた。


「いやいや、そげに訝しがらんと。山南さんにとって、決して悪い話じゃないきに」


 龍馬は慌てたように両手を振り、必死にとりなした。


「山南さん、剣を探しちゅう言うたがやろ。昔世話になった刀鍛冶が、伏見のお稲荷さんの奥にいるんじゃが」


「本当ですか。是非、紹介していただけると助かります」


 願ってもない話だった。当てもなく探すより、少しでも伝手があったほうがよい。


「けんどの、一つだけ問題があるんじゃ」

「というのは?」


 気難しい――とでも言うのだろうか。


「そん鍛冶師な、昨年の冬に亡くなっちゅうがぜよ」

「えっ――」

「ちょ、ちょっ、慌てんでください」


 山南の予想外の落胆ぶりに、龍馬が慌てた。


「確かに、本人は亡くなっちゅうが、奥方と子供が居るんじゃ」


 生前、鍛冶師が打った刀が幾つか残されているので、それを見せてもらえばよい――


「腕は確かだったぜよ」


 そう言って、龍馬が嗤った。


「ワシが一筆書くきに、それを持っていけば悪いようにはせんはずじゃ」

「それは大変にありがたい話。だが坂本君、そもそもは、私に頼みがあると言ったのではありませんか」


 一瞬、龍馬の表情が固まったような気がした。


「そうじゃ、そうじゃ。肝心な事を忘れるところじゃった」


 だが直ぐに笑みを浮かべると、膝を叩いた。


「実はな、そん鍛冶師の後家さんなんじゃがぁ、それがえらい別嬪さんでのぉ――」

「坂本君」


 咎めるような山南の視線に、首を振る。


玉音たまねさん――言うんじゃがの。ちぃと見舞ってやって欲しいんじゃ」

「お身体を悪くされているのですか」

「まだ幼い娘がおるんじゃが。鍛冶師が亡くのぉてから、女手一つで無理をしたんじゃな。すっかり身体を悪くしてしまってのぉ」


 不憫なこっちゃ――と、龍馬が深い溜息を吐いた。


「それならば坂本君。君が直接、行った方が良いのではありませんか」

「ワシもそうしたいのは山々なんじゃが、ワシは今夜のうちに大阪へ向かわにゃならん」

「今夜? それは随分と急な話ですね」

「そうなんじゃ。貧乏暇なし。これでも色々と忙しゅうさせてもろうちょります」


 ぼりぼり――と、頭をかいて龍馬が照れる。


「そう言えば坂本くん、君は今なにを……」

「ワシかい? ワシはいま、勝麟太郎かつりんたろう先生のところで色々と勉強させてもろうちょります」


 にやり――と、龍馬が嗤った。


「勝――海舟。幕府海軍奉行の勝安房守様ですか。凄いじゃないですか」


 勝麟太郎――旗本・幕臣である。

 嘉永六年。浦賀に来航したペリー艦隊により、幕府は揺れた。だがこの余りにも衝撃的な事態に対し幕府の決断だけで答えの見出せない老中・阿部正弘は、海防に関する意見を外に求めるという行動に出る。これは幕臣はもとより諸大名、ひいては町人にまで求めるという異例の事態であった。


 当時、まだ役の無い勝麟太郎の提出した意見書が、海岸防禦御用掛かいがんぼうぎょごようがかりであった大久保忠弘の目に留まる。

 万延元年には幕府軍艦の咸臨丸にて渡米。政局に翻弄されながらも、日本の海防の重要性を説き続け、幕府中枢にも影響力を持つ傑物である。


「そいでの、今回も勝先生の使いで、ちくうとだけ京に来たがじゃが――」


 直ぐに戻らんといかん――と、龍馬が溜息をつき、しおらしく肩を落とした。


「そいじゃが、その奥方に大阪で買った菓子を届け、少しでも元気づけてやりたい思うたんじゃが……」


 と、ちらりと山南を覗き見る。


「分りました。私が坂本くんの名代ということで、代わりに届けましょう」


 仕方がない――と、観念したように山南が微笑んだ。


「さすが山南さんじゃ。恩にきるきに」


 龍馬が顔をあげ、にんまりと微笑んだ。


「もう少し詳しく、場所を教えてもらえないだろうか」


 土地勘のないところである。雪の残る山に分け入って、彷徨うのは流石に御免である。


「そいなら心配なか」


 龍馬が手を叩いた。

 すると、音も無く奥の襖が開いた。

 そこには、ひとりの若い娘が控えていた。


香尾かおにございます」


 鼻筋の通った美しい娘であった。控えめでありながらも、意志の強さを感じさせる瞳が、山南を値踏みするかのように見つめていた。


「こん船宿の女中じゃ。この香尾が鍛冶場まで案内してくれるき――心配せんでください」

「お任せください」


 花が香るように、香尾が微笑んだ。


「ほならワシは行くきに」


 唐突に、龍馬が立ち上がった。


「山南さんは、今夜はここへ泊るとええ。話は通しておくき安心して休むとええ」

「坂本君」


 本当に忙しない男である。だが、どうにも憎めない。


「香尾。山南さんのこと、くれぐれも頼んだぜよ」


 はい――と、香尾が微笑む。


「ほいじゃ」


 そう言い残し、階下へと向かう襖に手を掛け、


「先ほどの山南さんの術で、母娘を救ってやってくれんかの」


 ぽつりと、誰にともなく呟いた。


「あれは医術などではありませんよ」

「そうじゃったの。まぁ兎に角――」


 頼んだぜよ――と、龍馬は部屋を後にした。


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