回顧

忘れたい

 脱衣所に入って服を脱ぐ。少し前に海斗から頂いた傷もいつの間にやら消えて、打ち身の青痣だけが残っていた。

「まだこの痕は治らないな。この傷が治ったら蒼空のことも忘れられたら、なんて……馬鹿みたいだ」



 なんでこんなことになったのだろう、僕が強がったのがいけないのか。いつものように海人に歯向かわず、大人しく教室から出て昼食を食べればよかったのか。

 シャワーの握りを捻り、体中に湯を浴びせてからボディソープを泡立てて身体に纏わせる。そしてまたシャワーをかけてやれば今日僕の身体に浮き上がってきてこってりと残った気持ちの悪い汗ともおさらばだ。だが、嫌な記憶とはおさらばできない。その記憶はおさらばどころか今後数年は僕の影を追いかけて勝手にやってくるだろう。

「人間の脳って、なんでこういう方向には高性能なんだろうな……」

 体に続いて無駄に伸びた髪に溜まった汗や汚れも洗い流し、身『だけ』すっきりした。



 僕が湯船に身体を入れると、ちゃぷん、とかわいい音が浴室内に反響する。こうやって湯船につかるのは何気に久々な気がする。大体体に傷が入っていて染みてくるから浴槽に入ること自体を避けていたから。

 でも、傷もなくなっていて、今日のように異常なほどに気持ちが沈んだ時にはこうして、ゆっくりと体と冷え切った心を温めたくなる。浴槽の中に現れた小さな空気の泡たちが僕の身体にくっつき、それを払いのけると四方八方に散らばって、そのままぱちんとはじけて消える。

 小さな泡が何か自我を持っているように感じて、ついつい見入ってしまう。自由奔放に動く気泡たちを眺めていると、ふと昔の記憶が思い起こされる。


「そういやぁ、ばーちゃんが死んだときもこんなことしてたっけ……」

 祖母が亡くなった時、それは中学に入って間もないころ。その時の僕は両親が出張や泊まり込みで仕事をすることがよくあったためによく祖母の家に世話になったり、祖母が家に来てくれることが多く、いわゆる『おばあちゃん子』と言うやつだった。

 愛情を多く受け、穏やかで落ち着いた環境で育てられて、たくさん遊んでもらっていた。たまにきつく叱られることもあったが、その後には何がいけなかったのかを丁寧に教え諭してくれる、そんな人だった。

 でも、彼女は突然亡くなった。夏休みのある日、僕は両親がいないのをいいことに祖母の家まで遊びに行くことにした。小さなリュックサックに夏休みの宿題プリントと筆記具と携帯ゲーム、そして何かあった時のためと母親から渡されていたテレホンカードを詰め、気分上々で祖母の家に向かった。

 そして、祖母の家に到着し、呼び鈴を鳴らす。が、返事が返ってこない。祖父は僕が小学校の時にすでに亡くなっており、目の前にある家には祖母が一人静かに暮らしていた。


――まさか、そんなことないよな……?


 少し前にニュースで見た『孤独死』とやらを思い出した。不安になってやけに重厚な門を押してみると施錠はされておらず、すんなりと開き、縁側の障子の下のガラスから足元の状況が伺えた。


「っ!?」


 そこで僕の視界に入ってきたのは畳の上でうつ伏せに倒れている祖母の姿。一瞬言葉を失ったが、全力疾走で顔なじみの隣家の呼び鈴を連打し、出てきたお姉さんに事のすべてを伝えた。彼女に救急を呼んでもらったのだが、もはや後の祭りで、甲斐も虚しく、祖母は帰らぬ人となっていた。


――というのが、僕の過去の話。この日家に帰った時も一人湯船で今の僕と同じことをしていた。


 そして悲しみから次第にふさぎ込むようになり、部屋に籠って一歩も出なくなることが多くなった。そんな僕を両親や教師、かつての友人たちは部屋から出るように必死に説得した。

 でも、その必死さが僕を余計に追い込んだんだ。そんな中で、唯一優しい声を掛けてくれたのが蒼空だった。


「っと……考えなくてもいいところまで考えちまった」

 ふうと大きなため息を吐いて半透明のアクリルに覆われ淡い光を放つ電球のある天井を軽く仰ぎながらそう呟いた

 なんであんな奴に蒼空が取られたのだろう、海斗なんかにあの蒼空が付いていくなんて考えてもみなかった。どうせ、憐れな僕に構っているのに嫌気が差したのだろう。

「……畜生!」

 ゆらゆらと揺れる水面に拳を叩きつける。浴槽に溜まっているお湯は僕の拳の圧力を受けて形を変え、いくらかが水しぶきとなって僕の顔に掛かる。

 どうしてこうも不幸なことが続くのか、僕にだってわからない。何がどうこじれて今のような結果になったかも到底理解できる話ではなかった。


 手でお湯を掬い、顔にばっと浴びせる。そして立ち上がりながら横にあったハンドタオルで顔と体を軽く拭き、浴室から出る。

「あっ、着替え全部部屋に置いたままだ……まあ、誰も家にいないしいいか」

 バスタオルで体の水分をできるだけ取り除き、ドライヤーで髪を乾かすと、ミケランジェロのダビデよろしく丸裸のまま自室へ戻る羽目になった。


 誰もいない家の廊下を裸の王様のごとく悠々と歩き、一度リビングに行って放置されたスマホを手に取ってから自室に向かう。湯冷めで風邪を引くのも癪なので

、タンスから適当に服を取り出してそれを着る。


 そして連日たまりにたまって体内にこびり付いてしまった疲労感と今日のストレスから、無意識のうちにベッドに身体を放り投げて微睡まどろみの中に落ちていった。

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