合意

初夏。

太陽からの熱い視線を一身に受け、多くの人々は通勤通学のために額に玉のような汗を浮かべる。

そんな中、ある一台の車がある邸宅の前に止まる。

車と行っても普通の自動車ではない。

リムジンである。

それはまさに今朝購入したばかりのように光沢に満ち満ちており、夏のぎらつく日差しがそれを更に強調していた。

その重厚感のある扉がゆっくりと開けられる。

中から出てきたのはなんとも幸薄そうな男性だった。

年齢は20代前半のやや細身な体。

かといってその肉体は引き締まってはおらず、どちらかと言うとその体躯の割には肉付きのよい男だった。

日差しを手で隠すようにして恨めしそうに空を見上げる男。

そんな彼の前に一人のメイドが落ち着いた様子でやってくる。

「おかえりなさいませ。ご主人様。」

よどみのない綺麗なお辞儀。

それだけで彼女のメイドとしての立ち居振る舞いの良さが見て取れた。

腰まで伸びた墨汁を垂らしたかのような艶やかな黒髪。

その先端はわずかに赤みを帯びており、それが逆に彼女の美しい髪を強調している。

その上にちょこんと乗ったヘッドドレスがメイド感を引き立てている。

整った小さな顔に切れ長の黒の蠱惑的な瞳。

ふっくらとしたハリのある純白の肌はまさに健康そのもの。

長身の彼女に見合ったすらりと伸びた手足。

たわわに実った双丘は男のロマンが詰まっている。

ご主人様と呼ばれた男はメイドの姿を認めるとにこやかに口を開く。

もっとも、その笑顔がなんとも悲しげに見えるのは彼の幸薄さに起因しているのだが。

「ただいま、由美。」

「今日もご通学お疲れ様でした。」

「よせよ、僕はただ大学で勉強してただけだよ。」

持っていたカバンをメイド、由美に渡すと邸宅内に足を向ける。

自室に戻った彼は大きなため息を一つするとベッドに腰掛ける。

コンコン。

扉をノックする音が聞こえる。

「開いてる。入っていいよ。」

「失礼します。」

木製の扉がギギギと重い音を立てて開く。

その先にいたのは先ほどのメイド、由美である。

由美は彼専属のメイドである。

といっても彼が由美をそうしたのではなく、彼の父があまりに女に縁がない彼に慈悲にも似た感情を抱いたのが始まりだった。

基本的にはお金持ちだとモテるというのは一般的ではあるが彼の父からすれば彼は悲しくもその例外のように思えた。

彼の家は許嫁のように決められた相手とすでに結婚が決まっているというわけではない。

無論家柄はいいが、彼の父は彼に自由な恋愛をしてほしいと考えていた。

というのも父親自身、金持ちであるにも関わらず女性に縁がなく、仕方がなく見合いで結婚した。

そういうこともあってか彼の父は彼に自由な恋愛を望んでいた。

半ば父の憧れを受け継ぐ形で彼は年を重ねていったのだが、一向にその兆候を見せない彼を不安に思った父が強引に由美を彼の専属メイドにしたのだった。

「どうかした?」

「昼食の準備が出来ました。いかがいたしますか?」

「あぁ今行くよ。」

彼はそう言って立ち上がり、扉に向かう。

彼の部屋は一階の入り口に一番近いところにある。

他にも部屋はいくらでもあるのだが、彼が二階三階はいちいち降りてくるのが大変という理由だった。

一般人よりも豪華な昼食を済ませた彼は自室に戻り、早速課題に取り掛かる。

今週の課題はまあまあ面倒くさいらしい。

蝉の騒がしい鳴き声をBGMにしてペンの進む音だけが響く。

最も空調のおかげで暑さとは縁がないのだが。

せっせと手を動かす彼の少し後には由美が静かに佇んでいる。

彼女は専属メイドというだけあって風呂やトイレ、就寝、大学内を除いて常に傍にいる。

そんな彼女の彼を見守る穏やかな視線は柔らかく暖かかった。



「ふぅー、終わったー。」

「お疲れ様です。ご主人様。」

相変わらずきれいなお辞儀で主を迎える由美。

数時間たったにも関わらず由美は一切動いていなかった。

相変わらず仕事への熱意が見て取れる。

「ちょっと、トイレ。」

「かしこまりました。この後はどうなさるおつもりですか?」

「後は軽く明日の授業の予習しとくよ。」

「かしこまりました。」

彼が部屋を出た後、彼女はなお部屋で主を待つ。

その際ふと気になった。

彼女の視線の先は彼が普段使っている鞄。

口が少し開いており、そこから小さく何かが光を反射している。

(なんでしょうか?)

由美は大抵、主人の鞄の中身に興味を持つことはないのだがこの時ばかりは我慢が出来なかった。

しゃがみ込んで鞄の中身を確認する。

「・・・・そうですか。なるほど。」

目的のものを認めた彼女は静かに、ぽつりと言葉を漏らす。

その声には抑揚も生気もなかった。



「ご主人様。」

「な、なに?」

彼がトイレから戻った後、丁度彼と向かい合う形で由美は立っていた。

「これは一体何ですか?」

「あ・・・」

由美の手にしていたのは可愛らしいピンクの包装がされた小さい箱だった。

「これ、どういうことですか?」

「チョ、チョコレートです。」

たどたどしく答える。

「でしょうね。」

対する彼女の声は冷たい。

今日はバレンタインデーなのだ。

彼がチョコをもらってきたことはもはや言うまでもないだろう。

「ご丁寧に手紙まで・・・詩織さんですか。ご主人様、この方とはいったいどういう御関係ですか?」

「講義が一緒っていうだけで特にこれといって関わりはないです。」

「そう・・そうですか。ではこれは処分しておきますね。」

「え?」

「何か?ご主人様、あなたはこの家の大切なご子息なのですよ。もしこのチョコに有害な物質が混入されていたらどうするのですか。よく知りもしない相手から物をもらってはいけません。たとえもらったとしても捨ててください。口に入れるなどもってのほかです。前々から申し上げようと思っていましたがご主人様はもっと自覚を持つべきです。」

「でも——」

「いいですね?」

「・・・はい。」

「・・・・・そ、それでですね・・。」

うなだれる彼とは対照的にその端正な顔を薄い朱に染めながら体を身じろぎするように動かす由美。

「その・・これ、受け取って頂けませんか?」

「え?」

差し出されたのはこれまた可愛らしいラッピングを施された小箱であった。

これに気づけないほど彼は鈍感ではない。

「いいのか?」

「えぇ、私はご主人様の専属メイドですから。」

果たしてそれは理由になっているのだろうか?

しかし、彼にとってもこれは非常に歓喜すべきことであった。

彼女の理屈は確かに筋が通っている。

一年に一度のバレンタインデーということで浮かれていたが異物が混入している可能性は一応ある(ごくわずかだが)。

しかしそれを言ってしまえば大学で特に仲のいい友人がいない彼にとって異性からのチョコなど夢のまた夢である。

そこに現れた燦然ときらめく一筋の糸。

掴みたくなるのは仕方がないことだ。

「固まってないで早く受け取ってください!」

「あぁ、ごめん。」

緩慢とした動作でチョコを受け取り、手にかかるその重みが未だに信じられないといった表情で由美とチョコを視線が忙しなく飛び交う。

大学でチョコをもらった時の彼の様子が想像できる。

きっと飛び上がって喜んだのだろう。

「そ、それじゃあ私はこれで失礼します。」

パタパタと慌てて部屋を出ていく由美。

「・・・マジか。まさか由美からもらえるなんて。」

1人感慨に耽っていると部屋を出て行ったばかりの由美がひょっこりと顔を見せる。

「チョコ、必ずお召し上がりください。今日中に!明日感想聞かせて頂きますから。」

すっかり口調の戻った由美が相変わらずの無表情で顔を引っ込める。

「あぁ、分かった。」

彼のなんとも言えない頼りない発言は誰にも聞かれることなく虚空に散った。




その数時間後、彼の自室前に一つの影が佇んでいた。

手に握られた携帯からはこうこうと光があふれ出ている。

その画面に映し出されているのは彼だった。

ベットに倒れ込むような状態で体がわずかに上下していることから眠っているのだろう。

赤外線でとらえた彼の自室内部にはもう一つ特筆すべきものが転がっていた。

それは小箱。

今日、由美が彼に渡したあの小箱が床に転がっている。

開いたままのそれからはまだ口を付けられていないチョコがいくつか散乱していた。

その様子をしっかりと確認した影、由美はほくそ笑む。

人前では決して見せない愉悦に満ちた彼女の表情は周囲の闇と携帯の光との陰影により、ことさら強く強調され、もはや恐怖を抱くほど。

「おいしく召し上がって頂けたようですね。フフフ。可愛らしい寝顔。」

ドアノブを軽く捻り、押してみる。

ドアの軋む音がやけに大きく響いた。

「全く、詩織とかいう女狐が。私のご主人様に色目を使うなんておこがましいにもほどがあります。ご主人様は私だけのものです。誰にもあげません。安心してくださいご主人様。ご主人様の御父上にもちゃんと『了承』頂いていますから。今からゆっくり楽しみましょうね。」

虚ろな瞳に彼の姿だけを映しながら由美はゆったりと部屋に足を踏み入れる。

「た~っぷり愛し合いましょうね。私のご主人様。」


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