不首尾な黒い影


 透き通るような青い湖面。

 山脈の岩肌は雪化粧に煌めく。

 純白の峰を映す湖の岸辺。

 佇む白い石壁の館は色欲の魔女の居城である。

 

 質素な門扉がゆったりとした音を奏でると、色欲の魔女アンナ・ジャコフスカヤが姿を見せた。サファイアピンクに揺らめく瞳。淡いピンクのドレスが華奢な体と形の良い胸元を強調している。

 〈ビースト〉の長老タルピオス・ギーシャは膝をついて、灰色の毛に覆われた頭を慇懃に下ろした。〈ラミア〉の王子ナスリー・ア・ディーンも慌てて膝をつく。

 ナスリー・ア・ディーンはアンナのお気に入りだった。全身を覆う純白の鱗。まだ若いナスリーのあどけない表情と仕草に、アンナの擦れた心が癒された。

「あらあら、坊や、よく来たわねぇ」

 アンナは小動物をあやすかの様に、ナスリーの銀色の髪を撫でる。ムッと青い唇を結んだナスリーは「おやめください!」と頭を振った。

 外観だけ見ればそれ程歳が違わないように見えるアンナとナスリー。その為、うら若い表情をした魔女に子供扱いされることが、ナスリーには不快だった。だが、アンナにとっては嫌がるナスリーの姿も可愛らしい。

 ナスリーの銀色の髪を一頻り撫でたアンナは満足した様に微笑むと〈ビースト〉の長老に視線を送った。

「爺も良くいらっしゃったわね。遠かったでしょ?」

「いやいや、良い運動になったわい」

 色欲の魔女には今のところ、瞳の色が違う以外に別段変わった様子は見られなかった。タルピオスは取り敢えず、ほっと胸を撫で下ろす。

「それにしても、本当に良い景色でありますな」

 タルピオスは立ち上がると白い毛に覆われた顎を上げた。悠然と連峰が聳える。山嶺の向こうは巨大な黒雲が渦巻いていた。

「そうでしょ? ふふ、ここは私のお気に入りの場所なの」

「ワシも山奥で暮らすのを辞めて、景色の良い水辺にでも引っ越そうかのぅ」

「うふふ、それが良いわ」

 アンナは機嫌が良すぎるようだった。何度もその細い指先で紅く輝る口元を撫でては、喉の奥でころころと声を震わす。

 タルピオスは少し不気味に感じた。

「……アンナ嬢、あなたにお聞きしたい事があるのだが、よろしいかな?」

「あら、どういたしましたの? かしこまっちゃって」

「……いや、最近、何か良いことでもござったかな?」

「あらぁ? うふふ、どうしてそんな事を聞くのかしらぁ?」

 色欲の対象を早急に知る必要のあったタルピオスは、内心肝を冷やしながらもガハハと笑った。

「いやなに、あなたの雰囲気が以前よりグッと華やいだ気がしましてなぁ。ワシのような寂しい老人には、しばらくぶりのうら若き女性の変化が気になったりするのですわい」

「うふふ、お分かりになりますのぉ? 実は最近、私にお友達が出来ましたの!」

「友達……とな?」

「ええ、オリビアという名前の素敵な女性ですのよ。……まぁ、私たちは随分と前から知った仲でいたのですけれども。……ふふ、オリビアったら私が側に居てあげないとすっごく寂しがるの! ほんとに世話の焼ける子でね。……たまーに、とっても頼りになる事があるのですけれど、ふふ」

 アンナは白い両手で口を押さえて楽しそうに笑った。サファイアピンクの瞳がギラギラと光を放つ。

 タルピオスは困惑したように毛深い頭を掻いた。

 まさか色欲の対象は女か……? しかも友達とはいったい……?

「……ほぉ、それは大変喜ばしい事だ。ここの美しい景色もお友達と一緒ならば、更に華やぐのでしょうな」

「そう! そうなのよ! とーっても綺麗なの! ああ、本当に……。オリビアはね、呪いのせいであまり身体を動かせないのだけれど、それでも城の窓から見える景色を、いつも二人で眺めているのよ」

「呪い?」

「オリビアは怠惰の呪いに苦しめられているの、私と同じ……。ふふ、だからこそ、お互い通じ合うものがあるのかしら?」

「た、怠惰の……」

 タルピオスは戦慄した。横でじっと二人の会話を眺めていたナスリー顔からスッと血の気が引く。

「じゃ、じゃあ僕はこの辺で……」

 ナスリーは、アンナと目を合わせないように立ち上がると、慌てて身体を反転させた。

「これこれナスリー坊! ワシは長旅に疲れておるのだ!」

 タルピオスは逃げようとするナスリーの腕を、ガシッと掴んで引き寄せた。

「そうよぉ、坊や、少しお城で休んで行ってはいかが?」

 アンナは、タルピオスの毛深い腕の中で暴れるナスリーにそっと顔を近づけると、その細い指の先でスッーと鱗に覆われた頬を撫でた。ナスリーは恐怖で固まってしまう。

「で、では、お言葉に甘えてそうさせてもらおうかの!」 

 最悪、自分が死んでも、ナスリー王子まで殺されるような事は無いだろう。

 タルピオスはここまで来ておいて引く事など出来ないと決心する。

 アンナはにっこりと微笑んだ。二人に手招きすると、クルリと背を向けて城に入っていく。タルピオスは、ぐずるナスリーを引き連れてアンナに続いた。

 城の中はひんやりと静まり返っていた。執事である背の高い〈オーガ〉以外に動く影はない。

「他の者たちは?」

 タルピオスは尋ねた。アンナは少し悲しそうな表情をして振り返る。

「強欲に殺されたわ」

「そ、そうであったか。……それは何とも、悔やみ切れぬ話である」

「良いのよ、皆んなの仇はもうすぐ取るから」

「仇を取る、とな?」

 タルピオスは首を傾げた。アンナを襲った強欲の魔女は、とっくに死んだものと聞いていたからだ。

「このままじゃ、私の可愛いしもべ達が浮かばれないでしょ?」

「しかし、強欲はもう死んだのでは……?」

「ええそうよ、オリビアがやっつけてくれたの!」

「では……」

「だから今度は私が、皆んなの為に〈ヒト〉は皆殺しにすると決めたの!」

「……は?」

 タルピオスはポカンとアンナの顔を見つめた。

「それでね、オリビアと二人だけの国を作るの!……きっときっと、とーっても幸せな世界になるわぁ!」

 アンナは喜びを全身で表すかのように、両手で頬を包んで満面の笑みを浮かべた。サファイアピンクの瞳に恍惚の涙が光る。

 タルピオスとナスリーは言葉を失って、呆然と立ち尽くした。

 

「こっちだ、坊主ども」

 ガベル・フォートルマン・イェル・ドゥルフは、木々の隙間から向こうの様子を確認した。乾いた緑色の腕が枯れ木の枝のように縦に揺れる。それは、錆びた鉄を擦り合わせたような不快な声だった。

 春人は、イェル族の若頭だと言う〈ゴブリン〉の横顔を恐々と見つめた。

 鷲鼻は童話に出てくる魔女のように突き出し、耳元まで裂けた口からはナイフのように鋭利な牙が覗いている。大きな耳の先は尖り、全身の皮膚は老いた松葉の緑に脈動していた。

 大半の〈ゴブリン〉は〈ヒト〉の言語を話せるらしい。アリシアはその事にひどく驚き、また警戒した。

 ソフィアは、いつでも春人を守れるようにその斜め前を歩いている。

 遠くの空から、微かな爆発音が響いてきた。現在、北西のサマルディア王国とド・ゴルド帝国が激しく交戦している。春人たちはクラウディウスの指示で、その戦争を止める為に動いていた。

 戦争なんて個人の力じゃ止められねーだろ……。

 春人はソフィアの背中で眠るアリスをちらりと見た。いざとなったら、アリスに頼んですぐに逃げようと考えていたのだ。本当ならば、今すぐにでも引き返したかった。だが、腰を低くして無音で移動するガベルに背中を向けるのが怖かったのだ。

 忍者みたいだ。

 春人は音を立てずに草木の上を進むガベルの後ろ姿に唾を飲み込んだ。その背中には長い槍が携えられ、三日月型の剣が腰のベルトに下がっている。

「おい緑色! どーするのだ、これから!」

 ソフィアの怒鳴り声。振り返ったガベルは舐め回すようにソフィアの全身を見回すと、クックといやらしい笑みを浮かべた。

「貴様が裸となって囮になれ。その隙に坊主の呪いをあ奴らにぶつける」

 ガベルは既に戦争の様子が見えているかのように、長く折れ曲がった指を爆発音のする方向に指した。

 ソフィアはカッとなって短剣を抜いた。瞳の色が紅く光る。

「お、落ち着いてください、ソフィアさん! ガベルさんも謝って!」

 アリシアは周囲を警戒しながら小声で怒鳴った。

「お嬢ちゃんなら、どうする?」

 ガベルは真っ黒な瞳で、アリシアを流し見る。ざらつく不快な声色に、アリシアはビクッと身構えた。

「……既に大国同士の激しい戦闘が始まっています。正直、私たちの力ではもうどうしようもありません」

「ほぅ、本当にそう思うか?」

「思います、何をしても無駄です。……お願いですから、早く負傷者の救援に回りましょう」

「クック、戦場の負傷者を数人助けたところでどうなる? どのみち、このままでは何万人と死ぬのだ。そうならぬように、戦争自体を止めるべきだと思わんか、お嬢ちゃん?」

「……だから、それが不可能だと」

「〈ドワーフ〉の頭を殺せばいい。その日の戦闘は終わらんだろうが、次の日の朝に〈ドワーフ〉軍は瓦解する。奴らの大半はリーダーの号令の元に動き出すのだ」

「そんな話聞いた事無いわ。いったい何を根拠に……」

「お嬢ちゃんは〈ドワーフ〉をよく知らんだろう? あ奴らは一見無秩序に見えてその実、強力なリーダーの元へ一本線で繋がっておる。少し前に強欲の魔女がド・ゴルドの帝国軍を襲撃した事があった。あの金髪の男は知ってか知らずか、ガザリアスという軍隊長をいち早く殺す事で、見事に奇襲の成功を収めていた」

「ご、強欲?」

「まぁ、お嬢ちゃんは知らなくてもいい話だ。帰って絵本でも読んでいなさい」

 ガベルはクックと笑った。アリシアはムッとして唇を結ぶ。

 沈黙が流れると、ガベルは前に向き直って先に進んだ。春人たちもそれを追う。眠りこけるアリスを含めた五人は少しづつ戦場に近づいていった。

「止まれ!」 

 陽が傾き始めた頃、急にガベルが怒鳴り声を上げた。長い左手で春人たちを制止する。同時に横から飛んできた巨石が前方の木々を薙ぎ倒した。

 ソフィアは咄嗟に、春人とアリシアを押し倒す。

「おいおい、ガキばっかじゃねーか……」

 巨石の飛んできた方向から異様に背の高い男が姿を表した。

 春人の胴体より遥かに野太い手足。無造作に伸ばされた黒髪。ブラシの様に尖った髭は短く揃えられている。

「……お主〈ドワーフ〉か? 戦場はあっちだぞ?」

 ガベルは素早く手に取った鋭い槍の先を、爆発音の続く北に向けた。

「なに、敵の主力を殺ったら暇になってな。戦場の周りを歩き回るネズミどもに興味が湧いたんだ」

「ほぉ、ネズミを気にするとは。お主、デカい図体に似合わず小心者だのぉ」

「クハハ、ネズミとはお前ら〈ゴブリン〉どもの事だ。死ね」

 〈ドワーフ〉の男はベルトで背中に縛られた、丸太の様な大剣を掴んだ。二の腕の筋肉が牛の胴体のように盛り上がる。

 馬鹿が。

 ガベルはスッと腕を下げると、全身で半円を描くようにして槍先を伸ばした。陽光を反射させる鋭い矛が風を切り裂き、男の無防備な胸元に突き刺さる。

 槍先には即効性の神経毒が塗ってあった。ガラムピシャという青い蛇の牙から取れる毒液で、ごく僅かでも体内に入れば、最強種族と言われる〈オーガ〉ですら死に至らせるという強力なものだった。

 〈ドワーフ〉の強靭な肉体を貫けずとも構わん、僅かな傷で良いのだ。

 ガベルはニヤリと口を歪ませる。

 だが、男は厚い胸板で槍先を押したまま、何事も無いかのように大剣を振り上げた。

 何だと!?

 素早く後ろに下がったガベルは、手裏剣を男の両眼に飛ばした。男は鬱陶しそうに指でそれを払う。

 槍が突き刺さったはずの男の胸には、傷一つ付いていなかった。樽の様に盛り上がった胸板。槍先を下ろして目を細めたガベルは、無造作に髪を伸ばす男の顔を見上げる。

「……お主もしや、‘’赤壁‘’のバルザック・リオンか?」

「クハハ、懐かしい呼び名だ」

「では、それが噂の‘’竜の肌‘’か、どうりで……」

 ガベルは逃げる算段をつけた。

 ‘’赤壁‘’のバルザック・リオンはかつての戦争において、〈ヒト〉の最上級魔術師を含む三個師団六千人を、たった一人で壊滅させていたのだ。

 先ずは憤怒の坊主を逃がさねば。

 ガベルは手裏剣を右手の指に挟むと、左手で三日月刀を抜いた。鏡のように磨かれた刃は、細い毛を縦半分に切り裂けるほど鋭利に研いであった。

 アリシアは、バルザックの巨体から溢れる猛獣のような殺気に震えが止まらなかった。急いでガベルを除いた四人の周りに障壁を張ると、一斉に逃げられるように範囲転移魔法の準備をする。だが、バルザックは女子供には興味が無いのか、ガベルだけを見つめていた。

 バルザックは岩のような膝にグッと力を込めると、空間を切り裂くように大剣を振った。ガベルはその眼球に照準を合わせる。

 突然、ハープの音色が辺りに響き始めた。弦を弾くリズミカルで優しい旋律が、爆音の隙間を縫うように流れる。

 バルザックとガベルは咄嗟に後ろに下がった。

 アリスはパッと目覚めと、異空間魔法を展開する。だが、一歩遅かった。

 最古の〈ヴァンパイア〉エメリヒ・フローレス・カラヴァッジョの鋭い爪が障壁を突き破り、春人の胸を貫いた。



 

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