祝福は

 

「記憶を失っている? じゃあ自分の名前も分からないの?」

 リーリ・トッドはブルーサファイアの瞳をくりくりと動かしながら、驚いたように小さな口を小さな手で覆った。赤褐色の肌に流れる汗が照り付ける日差しに煌めく。

「いや、名前だけは覚えてる……」

 丸めた膝を両手で抱え、硬い地面に蹲る春人は、直射日光を避けようと上着を頭から被った。

「へー、不思議だね。自分が誰だか忘れちゃったのに、名前は覚えてるんだ。じゃあ君にとって名前は特別なものなのかもね。それで、なんて言う名前なのかな? 僕は君をなんと呼んだらいいの?」

「春人」

「へー、ハルトって言うんだ。僕はリーリ。あれ、さっき言ったっけ? まあいっか、ふふ。でもハルトは凄いね。記憶が無くなっても何だか冷静だし、私達の言葉も喋れるし」

 うるさそうに首を振った春人はわざとらしく深く息を吐いた。それでもリーリは喋るのを止めようとしない。砂地から少し離れた木陰で、樹木に腰掛けた白髪の男が蹲る春人たちの様子をジッと見つめている。異様に尖った耳と白い肌。春人をここに送り込んだ少女と同じ銀色の瞳。

 春人はふくらはぎを摩った。ジーパンは黒く血で染まり、矢の刺さった部分には穴が空いているが、傷は綺麗に塞がっていた。リーリ曰く「〈エルフ〉の回復魔法は凄い」らしい。

 魔法だと? 勘弁してくれ。

 春人は自分たちを囲む盛り上がった土の円を恨めしそうに睨んだ。"竜の檻"と呼ばれるそれは〈エルフ〉が得意とする空間魔法の一種だという。円上には魔法の障壁があり、触れると電撃魔法が流れるのだそうだ。実際、春人は電撃によるショックで一時気を失っていた。

 くそ、喉が渇いて死にそうだ。

 膝の間に頭を埋めた春人は、あまりにも現実離れした自分の境遇に、思わず笑ってしまった。

 半日前、肌につく冷気に目を覚ました春人は、先ず自分が生きている事に安堵した。

 暗闇の静寂。夜の世界。体を起こした春人は、昼間とは真逆の凍えるような冷気に身震いをすると、ふくらはぎに手をやった。痛みは無い。ほっと息を吐いて空を見上げた春人は言葉を失う。幾万の星々の煌めき。大小に散りばめられた宝石が覆い尽くす夜空。

 凄いな……。

 しばらくの間、呆然と空を見上げていた春人は、近くで動く何かの気配を感じた。暗がりにじっと目を凝らすと、手の届く距離で誰かが寝ている事に気がつく。

 あの銀髪の女か? 

 恐る恐る立ち上がり、ゆっくりと後ずさった春人を襲う電撃。再び意識を取り戻した時には、既に、二つの太陽が燦々と大地を照らしていたのだった。

「ねえ、大丈夫?」

 リーリは心配そうに春人の顔を覗き込んだ。春人は無視をする。

 赤褐色の肌を持つリーリも人では無さそうだった。顔の作りはテレビで見た西欧の女性をイメージさせる。ただ、ねじ巻く赤い髪は生き物のようにうねっており、異様に小柄だった。

「大丈夫なの、ハルト?」

 初対面にも関わらず妙に馴れ馴れしい少女。春人がいくら無視しようと、リーリは、嬉しそうに口を動かし続けた。普段の春人ならば話に付き合ったかも知れない。むしろ、春人の方からガンガン質問しただろう。

 お前は何故ここにいるのか? この世界は何と呼ばれているのか? 何故、言葉が通じるのか? 魔法とはいったい何なのか?

 右も左も分からぬこの世界で、情報は財宝以上の価値を持っていた。

 だが、今の春人には何もかもが億劫だった。何故自分はこんな目に遭っているのか、考えるのも馬鹿馬鹿しいと目を瞑った春人の胸に渦巻く怒りと悲しみ。初めて味わう感情の渦に、ただただ春人は混乱していた。

「ハルト、何処か痛いの? 大丈夫?」

 リーリは小さな手で春人の背中を摩った。春人は鬱陶しそうにもぞもぞと体を揺する。

「喉が渇いて死にそうなだけだ」

 嗄れた声でボソリと春人は呟いた。ぱあっと笑顔を見せたリーリは立ち上がる。

「ねぇ、ちょっと、そこの〈エルフ〉! 水が無きゃ僕たち死んじゃうよ! 水を持ってきてよ!」

 森を木霊するリーリの声。白髪の男はめんどくさそうに顔を上げた。

「水だよ、水! 〈エルフ〉って馬鹿なの? ミアの季節に水も用意しないなんて!」

 白髪の男はムッと眉を顰める。噛んでいた木の枝をぺっと吐き出すと、右手を上げて拳を握り、振り下ろした。

 何やってんだ。

 ぼーっとその様子を眺めていた春人の頭上に、突然、大量の水が降り注いだ。水圧で押し潰されそうになる。

「うっはー!」

 リーリは嬉しそうに大声を上げた。

 春人は鼻に入った水にゲホゲホとむせながら顔を上げると、ギョッと目を丸める。

 風船大の水の塊が二つ、リーリの周りを浮いていた。

「はい、ハルト」

 リーリは左手を振ると、ふわふわと水の塊が春人の目の前に漂ってきた。

「な、何だこりゃ」

「水だよ」

「いや……いや、どーなってんだ、これ? 何で浮いてる?」

 春人は目を見開いたまま、宙に漂う水を指で突いた。すると、指から腕にだらだらと水が流れてくる。冷たい。

「浮遊魔法の初歩だよ? ハルト、知らないの? あっ、記憶無いんだったね」

 春人は手首に伝わる水を舐めた。上手い。夢中でごくごくと水を飲む。

 リーリは嬉しそうに微笑むと、ぺろぺろと浮かぶ水を舐め始める。

 水を飲み干した春人は、名残惜しそうに指を舐めた。すると、リーリは残りの水を春人に寄越す。

「あ、ありがとう」

「どう致しまして」

 春人は心の底から感謝した。人生で初めて他人に感謝したかも知れないと頭を掻く春人の頬が赤く染まる。

 まぁ、この女は人では無いかも知れないが……。

 水を飲み干すと、春人は、ほっと息をついた。濡れた身体が心地いい。

 リーリは白い毛皮のような服を脱いで、水を絞った。褐色の小さな胸元が春人の視界に入り、何か悪いことをしたような気になって下を向く。

「なあ、さっきのは何だったんだ?」

 リーリが服を着直すと、春人は待ち侘びたように質問した。

「えっ? さっきのって?」

「水が浮いてた奴だよ。つーか、あの水どっから出てきたんだ?」

「あの水は〈エルフ〉が出したものだよ。多分、空間魔法の一種じゃないかな? それを僕が浮遊魔法で浮かしたの。ごめんね、僕、空間魔法使えなくて」

 リーリは申し訳なそうに頭を掻いた。赤い髪が逃げるように蠢く。

「はぁ……魔法ねぇ」

 春人は腕を組むと空を見上げた。相変わらず、日差しは強い。いつか図鑑で見た恐竜のような巨大な鳥が大空を羽ばたいた。木々を越えた遥か遠くの空に島が浮かび、そこから流れ出る大量の水が虹を作っている。

 ここは地球じゃ無いのだろう。だけど宇宙の何処かにある星というわけでも無いのか……。

 まさか、魔法とはな……。それって物理の法則を無視してるだろ。いや、宇宙だとそれもあり得るのか? ブラックホールとかあるらしいし。ああ、大学出てればなぁ、もっと色々分かったかも知れないのに……。

「ねえ、ハルト。焦っちゃダメだよ? 少しづつ思い出して行こうよ」

 俯いて考え事をする春人の肩を、心配そうに背伸びをしたリーリが撫でた。

「そう言えば、リーリは何でここにいるんだ? 俺と同じように聖域とやらに迷いこんじゃったのか?」

「聖域に? ううん、そんなの間違っても迷い込まないよ。だって〈エルフ〉は大空間魔法で森を守ってるから、普通なら誰も近づけないよ」

「そうなのか?」

「うん。噂では、憤怒の魔女が封印されてるんだって」

「憤怒の魔女? それって白髪銀目の雪みたいな少女の事か?」

 春人は少女の姿を思い出す。そう言えば、憤怒の呪いがどーたらと言っていたな。

「白髪銀目って〈エルフ〉の事? ううん、憤怒の魔女は〈ヒト〉だよ」

「〈ヒト〉? じゃあ、あの子は何だったんだ」

「あの子って誰のこと?」

「あ、いや、その、その森で出会った女の事なんだが」

 春人は言葉を濁した。リーリはキョトンと首を傾げる。

「おい」

 後ろから女の声がした。春人は驚いて振り返ると、いつの間にか、白髪の女が真後ろに立っていた。目がルビーのように赤い。昨日、森で春人のふくらはぎを弓を打った〈エルフ〉の女だった。今日は長い剣を手に下げている。

 春人は思わず身構えた。ふくらはぎの痛みが蘇ってくる。

「貴様、何故その〈ホビット〉の女を殺さない?」

「……はあ?」

「貴様、〈ヒト〉だろ? 〈ヒト〉は〈ホビット〉を殺して食うと聞く」

 〈エルフ〉の女は真顔で剣先を此方に向けた。刀身が光に反射して煌めく。

 何を言ってるんだコイツは……。

 春人は何と答えていいか分からず、リーリの方を向いた。

 この子を食べる? いったいどんな化け物だよ、俺。

「殺して食うって……。なあ、この世界の〈ヒト〉は、そんなに残忍なのか?」

「えっ? ううん、怖いのもいるかも知れないけど、僕、良い〈ヒト〉もたくさん知ってるよ」

 リーリはブンブンと首を振った。付いていくまいと空中に留まる赤い髪。春人は腕を組んだ。

 コイツの言うように、この世界の人間はリーリのような人と変わらぬ知性を持つ者を残忍に食べるのが普通だとしよう。もしそうなら、それは俺の知っている人間とは違う生き物だ。

 もしくは、この〈エルフ〉の女は人間に出会った事がないのかも知れない。伝聞や伝承のみで人間の特徴を知った気になっているのならば、先程の言葉も頷ける。

「あの、〈エルフ〉……さん?ちょっと……」

「おい、貴様なぜ〈ホビット〉の言葉を喋れる?」

「えっ?」

「なぜ〈ホビット〉と会話が出来るのだ?」

「ハルトは凄いんだよ! 私達の言葉も喋れるし、あなたたちの言葉も理解出来るんだから! まあ、僕も〈エルフ〉の言葉は喋れるけど」

 春人はうっと息を呑んだ。

 やはり言葉が通じたのは、普通では無かったらしい。何故か分からないが、春人には二人の会話が日本語に聞こえる。

「どうなっている? 誰に習った?」

 〈エルフ〉の女はグイッと顔を近づけた。甘い香りがふっと漂う。

「それが、分からないんです。記憶がないようで」

 説明が出来ない春人は、知らぬが何とやらと分からないを貫いた。

「貴様、昨日も同じようなことを繰り返していたな。どうしたものか……」

 〈エルフ〉の女は剣を鞘に仕舞うと、考え込むように顎に手を当てた。すると、ルビーのように鮮やかだった瞳が徐々に薄れて銀色に変わっていく。

 訳の分からないことばかりだな、本当に。

 春人は疲れたように肩をすくめた。

 

 

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