詐欺師はこの世界に破滅をもたらすのか

忍野木しか

七つの呪い

憤怒の罰

 

 ああ、ちくしょう、やっちまった……。

 加地春人は黒く汚れたコンクリートの床で粗い呼吸を繰り返した。

 錆びた鉄屑の山。破かれた雑誌。無数の羽虫が潰れた缶から漏れ出る甘い汁に群がっている。

 長年放置されていたらしい山奥の倉庫は荒れ果てていた。割れた窓ガラスから吹く風がトタンを激しく揺らす。その音をかき消すように倉庫の中央では、若い男女がひしめき合って騒いでいる。腕や頭にタトゥーを入れ、注射跡で荒れた肌に唾液を垂らす若者たちは地元の半グレだった。どれも此れも、恐れるものの無いようなギラギラとした真っ直ぐな目をしており、つい半刻ほど前まで楽しそうにリンチしていた春人の存在は忘れてしまっている様だった。

 ああ、寒くなってきた……。

 指の無くなった左手を見つめながら春人は、痛みを感じなくなったのは幸いだと自嘲した。だが、もうスリは出来ないと悲しくなる。

 ちくしょう、せめて、あり金は使っちまうんだったな……。

 春人はボロアパートのタンスに丁寧にしまってある札束を頭に浮かべた。

 まともに働いた事は一度も無い。空き巣とスリで小銭を稼いだ。ただ、強請りたかり、強盗など暴力をふるって金を取るような事はしなかった。春人は言葉巧みに人を騙して生きてきたのだ。春人は詐欺師だった。

 仲間のいない春人は一つの街に長くは留まらなかった。失敗しても身一つで逃げればよかった。警察のお世話になった事も無い。

 だが、欲が出た。より多く稼ぎたいと、春人は思ってしまった。

 より多くの金を稼ぐには、より多くの人を狙う必要がある。

 春人は効率的に大量の金を手に入れようと考えて人口の密集する街に拠点を構えた。そして不特定多数の街の住人に腕を伸ばす。結果、その街をシマとする暴力団に目をつけられてしまった。春人は自分が狙われる側になる事を予想してはいなかった。

 ろくな死に方はしないと思っていた。

 だけど、こんなに早く死ぬことになるなんて思わなかった。

 春人は何とか体を動かそうともがく。舌で唇に固まった血を舐め、冷える指先を温めようと手を握った。感触が無い。

 指が無くなった事を思い出した春人は手のひらを見る。何も見えない。

 目が見えなくなってしまった事に気が付き、恐怖が湧いた。だが、その恐怖も次第に薄れていく。

 このまま、何もかも終わっちまうのか。

 たくさんの記憶が頭の中を交差する。

 面白みのない走馬灯。嫌な事ばかりだった人生。だが、記憶を覗いた春人に浮かんでくる感情はなかった。昔から感情のコントロールが上手い方なのだと彼は自負している。

 ふと、渦巻く記憶の嵐の切れ間からうっすらと光が見えた。その光に向かって春人は無意識に手を伸ばす。すると光が徐々に広がっていった。



「君は何を望む?」

 光が問いかけた。光に向かって春人は必死に手を振る。

「君は何を望まない?」

 気がつくと春人は走っていた。

 五体満足だ。身体が軽い。今なら空も飛べそうだ。

「君は何を考える?」

 春人は立ち止まった。見上げると、宙を埋め尽くすほど巨大な白い何かが、形を変えながら流れている。

 これは何だ……。

 春人は訳が分からず呆然と立ちすくんだ。

「君は何を考えない?」

「何だよ、ここ」

 やっと声を出す春人。地面も、空も、絵の具が混ざり合うように常に流れており、濃い液体の中を漂っているような気分になる。

「君はどうしたい?」

「おい! さっきから誰だ!」

「君はどうしたくない?」

「ここはどこだ! 俺は死んだんだろ?」

「答えなさい」

 突然、目の前に少女が現れた。春人は息を呑む。

「答えなさい」

 白銀の瞳。流れるように揺れる白い髪。全身が透き通るような淡い白色の少女は雪を連想させる。

 夢でも見てんのか? いや、確か死んだはずだから、ここがあの世とやらなのかも知れない。

「答えるって、何だよ?」

 春人はいつもの様に冷静になる事に努める。冷静沈着。それが自分の長所だと春人は自負していた。

「君は何を望む?」

 少女は質問を繰り返した。頭を掻いた春人は指があることに驚く。

「はぁ、そうだな。人並みに幸せかな」

「それは、叶えられない」

「何でだよ? お前って神様か何かだろ? 神様でも俺を幸せには出来ねーのかよ」

「幸せは、与えられるものでは無い。幸せはその人自身で得るよりない」

「何だそりゃ、くだらない」

「君は何を望まない?」

 春人は少しムッとして少女を睨みつけた。少女は無表情で春人を見つめ返す。そのまま、しばらく無言で見つめ合う二人。馬鹿馬鹿しくなった春人は視線を逸らすと、少女に付き合ってやることにした。

「俺が望まないのは痛みとか苦しみだな。ああ、どうせこれも与えられないものだとか言うんだよな?」

「君が望まずとも痛みや苦しみを与えられるだろう。君はこれから争いの終わらぬ世界に行く事となる。痛みや苦しみを望まぬのならば君自身で避けるより無い」

「はあ? 何だよそれ。おい、何処に行くって?」

「君はどうしたい?」

「行きたくねーよ、そんなとこ」

「それは、叶えられない。君はそこに行くのだから」

 ぶん殴ってやろうか、このガキ。

 春人は脅すように拳を振り上げた。そして、何をしてんだ俺は、と拳を下ろす。

 怒りなんて余計な感情だろ。理解してるはずじゃなかったか。俺は死んでから何処かおかしくなったのだろうか?

「君はどうしたくない?」 

 少女は機械の様に淡々と質問を繰り返した。

 どうしたくないか、か……。

 ため息をついた春人は腕を組んだ。

 争いの終わらない世界がどーたらとか言ってが、争いってのはつまり戦争の事だろう。じゃあ中東とかあの辺の事か。もしそうなら拳銃を持っていようが生き残れない。だけど、言葉さえ分かれば俺なら生きていけるかも知れない……。

「通訳者とかが欲しいな。つーか、俺ってどうやってそこへ行くんだ? 生まれ変わるとかか?」

「どうしたくないか、だ」

「ちっ、言葉が通じないのは嫌なんだよ。言葉の壁に阻まれたく無い。これでいいか?」

「よかろう。どうやってそこに行くかだが、そのまま行く。生まれ変わっている時間は無い。それと、その願いを与える代わりに罰を背負ってもらう」

「はああ!? 何だと!」

「祝福と呪いは表裏一体なんだ。無条件に願いは叶わない、相応の罰も背負って貰う」

「ふざけんじゃねーぞ! じゃあ願いなんているかよ!」

「願いも罰も実のところ、初めから君にかかっているものだった。私が質問をしたのは君自身がどんな願いを持ち、どんな罰を背負わされているのかを分からせる為であったのだ」

「知るかよそんなの! てめぇ、ぶっ飛ばされてぇのか」

 怒りで視界が真っ赤に染まった。怒りなどという感情はとうの昔に無くしてしまったものだとばかり思っていた。しかし、抑えようのないドス黒い感情が次から次へと湧いてくる。

 春人は少女に掴み掛かろうとした。だが触れられない。常に春人と少女の距離は等間隔に離れているようで、春人が近づいた分、少女は離れた。

「うお!?」

 足場が崩れる。抵抗する間もなく春人の体が地面に飲まれていく。

「くそっ……! おい! 罰っていったい何だよ」

「憤怒の罰だ」

 憤怒の罰? 何だそりゃ?

 少女もまた無抵抗に地に飲まれていった。

 白濁色の地面がゆるりと渦を巻き、胸へ肩へと巻きつくように上ってくる。それに呼応する様に宙を流れる何かは蝋が溶けるように全体が垂れ始め、潰れるように世界が縮んでいった。

 次第に春人は指一本も動かせなくなり、暗い地の底に飲まれていった。



                   



 

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