新学期7 夜と雨

 夜か。ちがうな。

 雨か。ちがうな。


 何だろうな。


 そう思いながら、犀久馬さくまともは真っ黒な空を見上げる。


 真っ黒だが、夜ではない。

 何か降っているが、雨ではない。


 何だろうな。

 何だろうな。


 伍はいつもそんな調子だ。小さい頃からそうだ。


 陽が差せば「陽が差している」と言う。

 雨が降れば「雨が降っている」と言う。

 風が吹けば「風が吹いている」と言う。

 花が咲けば「花が咲いている」と言う。


 それだけだ。オゾン層が破壊されているせいで紫外線が強くなっているとか、風があちらから吹いているから黄砂が降ってくるとか、最近の雨は酸性雨だからあまり濡れてはいけないとか、この花は何の種類でだとか、そんなことは言わない。考えない。


 あるものをあるがままにしか受け取らない。小さな頃はそれで良かった。皆同じようなものだから。だが周囲の子供たちとのずれは、成長するにつれて大きくなっていった。当初、伍は知恵遅れのたぐいだと思われていた。


 周囲にはよく困惑されていた。伍の知能には何の問題もなかったからだ。むしろ学業は優秀である。だが原始社会スクールカーストで必要とされた、上位者に対する忖度そんたくや気遣いや同化といった感性は全く育つ気配がない。そういう点については逆に愚鈍といってよかった。拒否ではなく、ただ相いれない。同級生たちは彼を異物として排除しようとしたが、いじめたりからかったりしてもとんちんかんな反応しかしない。結局、同級生たちはみな石を飲んだような、なんとも消化不良の表情で伍を遠巻きに眺めるだけになった。


 ぬるりと、空を埋め尽くす闇が蠢く。


 それは、遥か頭上の漆黒から伍を見つめている。まったく見通せない闇の中で、巨大な瞳がうっすらとまぶたを細めているのが、なぜか伍には分かった。ぽろぽろと降り注ぐ何かはひんやりとして妙に硬質で、何かの海洋生物の鱗を思わせた。


 夜じゃない。何だろうな。

 雨じゃない。何だろうな。



 まあいいや。



 伍は考えるのをやめた。


 そこはかつて相楽鈴音さがらすずねが、旧校舎で怪異に遭遇した際に幻視した暗闇の深海であり、彼女を恐慌に陥れた場所。だがここでも伍は、自身がその深海に君臨する恐るべき存在に見つめられていることを分かっていながら、さして痛痒つうようを感じるでもなくふああ、とあくびをしただけだった。


 そんな少年の様子を見つめる、天上の闇の巨大な瞳。ぼさっと突っ立っているだけの伍に向けるそのまなざしは、むしろどこか可笑し気ですらあった。そのうちにそれは再び瞼を閉じ下ろし、深いまどろみに戻っていく。無限の虚空に静寂が戻り、ひとりぽつんと取り残された伍はいつの間にか、何も見通せないはずの深い暗闇の中でやけに際立つ、巨大な門の前に立っていた。



 ご……ん……



 門が身じろぎするように鳴動し、この上なく厳重に何重に留め掛けられた巨大なかんぬきがぎし、とうめき声のような音を立てる。門の周囲をちらちらと絶え間なく舞い落ちる何かを眺めながら、伍ははて、そういえばなぜおれはこんな珍妙な場所にいるのだろうか、と小首をかしげた。



 「おい」



 乱暴な声が伍の耳を叩く。視界が乱暴に揺さぶられて我に返った伍は、身体の痛みとともに自分の置かれた状況を思い出しつつあった。目の前で伍の襟首をつかみ上げているのは、今時のファッションに身を包んだ若い男だ。20歳くらいだろうか。そして視界の端には、ある意味見慣れた顔があった……以前、伍に絡んできた宇田野だ。伍と同じように顔から血を流して地面に転がされ、若い男の仲間らしい連中に囲まれているのが見えた。伍は下校途中、またしても不良連中に絡まれて、人影もまばらな路地裏に連れ込まれたのだった。



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