絵の中の窓4 キャンバス



「 」


 は。


「 」

 彼はまた何か言った。


 は?


 白く濁った窓。

 霧のせいだ。


 ぬるく湿った空気にさんざん妨害されてすっかり弱りきった陽の光が、ガラスの向こうからゆるゆると滲み出している。窓を背にして立つ彼の姿は薄暗い陰に沈み、その輪郭が淡く逆光に溶けて幻影の様にぼやけていた。


 ああなんだ。これは錯覚だ。錯覚なんだ。ぜんぶ霧のせいだ。おまえのことを知っているだれかなんているものか。だれかがわたしをわらって…


 ―こんにちは。


 


 全身の血液が一瞬で沸き立ち心拍が跳ねた。わたしの耳元で絶望を囁いていたは、彼がわたしに向かって近づくコツコツという靴音にあっさりとかき消され、逃げるように霧散してしまった。次第に彼を覆う逆光が遠のき、ぼやけた影絵のようだったその姿は、いまや確かな輪郭を持つ紛れもない現実としてわたしの目の前に立っている。無視と孤独に慣れ過ぎたわたしにとって、わたしを認識しわたしを見つめる彼の存在は、むしろあまりに非日常だった。


 どうしていいか分からなくて、わたしはあちこちに視線を彷徨わせる。


 微かなかびの匂いも、淡い日光の中をゆっくりとさまよう埃も、何かを待つぎゅうぎゅう詰めの行列みたいなキャンバススタンドたちも、元々それらに親しみなど感じたことはなかった。まるでそういったわたしのを見抜いていたかのように、それらの周辺物はわたしが助けを求めて投げかける視線に対して、何を今更いまさらと言わんばかりにそっぽを向いてすんとただそこにあるだけで、わたしに何の対応策インスピレーションももたらさなかった。


 わたしは掛けているメガネの真ん中をしきりに押さえたり、ずれてもいないメガネの位置を無意味に何度も直すふりをしながら、なんの反応もできないまま近づく彼を見守るしかなかった。彼は言った。


 ―窓。


「窓」。取るに足らない単語。それでも長年忌まわしくも縋り続けたはわたしにとって「こんにちは」よりもずっと身近な言葉フレーズだったのかもしれない。


 彼の視線はわたしの後ろに注がれている。わたしが彼の視線につられて振り返ると、教室の真ん中、あの画布キャンバスが鎮座していた。


 画布キャンバスに描かれていたのは、廃墟の絵だった。

 背の高い雑木林の中に佇む、円柱状の多層建築。


 和洋折衷のデザインが、わたしたちが立っているこの旧校舎とは別種の建築思想を感じさせた。きっと当時革新的だったのだろう鉄筋コンクリートの武骨さと、昔ながらの西洋の様式美が混在する近代的な・・・モダニズムというのだったっけ・・・建築は、さなぎを脱しようとする蝶のように、中途半端でありながらそれでいてなお美しかった。建物は雑木林の緑に埋没し壁は青々としたツタに覆われている。石造りの地面は揺蕩たゆたう透明の浅い水溜まりの中に沈んで、通常の手段では中に入れそうにない。人造物が静かに自然の一部に帰ろうとしているように見える一方で、雑木林の隙間から差す、乏しい陽光の中で佇む姿は、まるで朽ちかけたその姿自体が自然物としてかのようにも感じられた。


 あまりにも写実的であるせいで、長方形の異空間がふわりと教室の中に浮かび上がっていて、そのままその向こう側を貫いて森の中に行けてしまいそうだ。


 ―窓。


 彼の声が私の頭の中で反響する。彼がこれを廃墟ではなく窓の絵といったのは、まさにそれがからだ。


 描かれた廃墟の窓はほとんどがガラス窓はもちろん周辺の木枠も朽ち果て、ただの四角い穴となっていた。ただ1か所、意図的としか言いようがないほどに画布キャンバスのど真ん中に描かれた窓だけが、木枠や開きかけの雨戸にいたるまでぎっしりと綿密に描き込まれていた。


 廃墟や、周辺の雑木林と同じく緻密に描かれているにもかかわらず、窓の内側だけは執拗なほどに真っ黒に塗りつぶされ、そこにもともと何が描かれていたのか全く分からない。描きかけというよりも、そこに何かがかのようだった。


 建物との縮尺もややおかしかった。間違いなく建物の一部として描かれたはずなのに、その窓だけがやけに大きく感じる。仄かに差す木漏れ日と、ブラックホールみたいに完全に黒く塗りつぶされた窓の内側とのコントラストのせいで、トリック・アートのようにその窓だけが絵の中で一歩浮き出て見える。別の作者がその窓だけを描きこんだような奇妙な二重構造のせいで、教室全体の物理法則がなんだかおかしなことになっているようだった。


 ―やあ。


 熱の気配に、再び心拍が躍る。


 いつの間にか彼は私の隣にいた。この奇妙に錯綜した空間の中で、わたしたちは二人並んで、絵を、絵の中の窓を眺めている。窓から差し込む陽光が少し明るさを増したように感じた。外の霧が薄くなったのかもしれなかった。



 彼は瀬名と名乗った。

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