第9話 冒険者は山で迷子になる

 樹皮に刻まれた深い傷跡。


 そこにクマ言語で力強く主張されたメッセージは『俺は大きい。俺は強い。余所者は出て行け』である。


 なぜ、こんな人里近いところにクマのマーキングが。

 疑問はあるけれども、とにかく一刻も早く、静かにかつ素早くこの場所を離れないといけない。


「アンテナ、アンテナ!静かに…声を出すな…」


 アンテナに目で合図して声を低めるよう小声で合図したのだけど、アイコンタクトは失敗した。


「なによーっ!ちょっと聞こえないーっ!!」


 しかも逆効果だったようで大声で返してきやがった。


「バカッ!シーっ、静かにしろ、クマだ!」


「なによ、くまって…クマ?熊?え?まじで?」


 さすがに事態を悟ったアンテナは顔色を変えて落ち着かなくキョロキョロと視線を動かした。


「マジだ。この爪痕、僕はクマのマーキングだと思う」


 アンテナにも、樹皮に深く刻まれた爪痕を見せる。


「おっきい…よね。ヒグマじゃないと思うけど」


「そうだな。ツキノワグマのはずだけど、かなり大きい、と思う」


 狩猟漫画やアニメで聞きかじった知識でそれっぽいことを言ってみた。

 けれども、実際のところアンテナも僕も本物の熊に山で出会ったことなどないのだから、この会話は気休めに過ぎない。

 熊について無知ではないのだから無力ではない、と自分たちに言い聞かせて不安を和らげる儀式以上の意味はないのだ。


 そしてもっと喜劇的なことに、その「聞きかじった知識」に僕とアンテナの命がかかっている。


「…どうしよう?」


「…とにかく、ここから静かに離れよう。ここは熊の縄張りっぽいし、音を立てて追い払う手が有効かわからないから」


「…そうね…って、なに写真撮ってるの!早く来なさいってば!」


「一応、証拠を取っておかないと…よし、行こう」


 僕とアンテナは可能な限り静かに、出来る限り早足で熊のマーキングがあった場所から離れた。


 僕もアンテナも無言だった。


 肩に食い込む荷物の重さも、だらだらと汗を流させる蒸し暑さも気にならなかった。


 ひたすら目を皿のようにして。

 周囲の藪に獣の影が表れないか。

 藪をかき分ける獣の音が聞こえないか。


 目と耳をすませ続けて、とにかくも歩き続けた。


 しばらくして、僕の後ろを歩いていたアンテナが珍しく弱音を吐いた。


「スイデン、そ、そろそろ休まない…?」


「そう…そうだね。休もうか」


 足を止めるのはクマが怖いけれど、いざという時に走って逃げられないのはもっと不味い。


 そうして恐怖にかられ半時間ほども歩き続けた後でふと足を止めた僕たちは、自分たちが山で迷子になっていることを知ったのだった。


 ★ ★ ★ ★ ★



 ――という経緯で、僕たちは「ほとんど遭難」という目に遭っている。


 僕とアンテナは緊張で倍化した疲労をとるために手近な岩と切り株に腰を下ろして息を整えた。

 少し落ち着いたら、これからどうするか考えないと。


「それにしても…あのクマ、なんであんなところにいたんだろう?」


 考えてみれば不思議なことだ。


 地図では小さく見えても、実際に歩いてみると山は高低差もあるし案外広い。

 狩猟をする人だって1日かけて狙う獲物に出会えないことなんてしょっちゅうある。


 なのにピンポイントで仕掛けた罠の位置にクマの痕跡があるなんて、ついてなさすぎる。


「それはね、あたしは罠があったからクマがいたんだと思う」


「依頼の登録罠ってクマ用じゃなくて猪とか鹿の罠だったでしょ?」


「くくり罠ね」


 動物用の罠は何種類かあるけれど、冒険者アプリの確認依頼に登録されていた罠はいわゆる「くくり罠」というやつで、直径10センチ程度の輪の中を動物が踏んで足が通るとバネの力で瞬間的に引っ張ってギュッと足をくくって固定してしまう方式だ。

 罠は近くの金属のワイヤーで繋がれていることが多いので、一度罠に捕まってしまった動物は足を引っこ抜きでもしない限り逃走できなくなる。

 そうしてハンターが来るまで繋がれたま弱っていくしかない。


 くくり罠は輪の直径は誤って人間の足が通らないよう、直径10㎝程度に規制されているし、トラバサミのように鉄の爪が食い込んだりもしないので獲物のダメージを少なく抑えられるため、罠猟を主戦場とする冒険者にも人気の方式らしい。


 アンテナは依頼報告のために撮った写真で気がついたことがある、と見せてくれた。


「スイデン、さっき撮った罠の写真見て。たしかに罠にかかった獲物はいなかったけど、よく見たら足だけが残ってるように見えない?」


「おおう…R15か…グロい…猪かな…鹿かな…」


「写真が暗くてよくわかんないわね…ううん、もう!電波さえ通じたらアプリとかSNSで質問してすぐにわかるのに!」


「まあね…ただ、GPSだけでも通じてるのはありがたい」


 電波が届かないのでネットの地図サービスによるルート検索は使えず下山ルートはわからないけれど、ローカル使用できる地図アプリとGPS信号の組み合わでどうにか現在地は把握できる。


 問題なのは、あれだけ歩いたにもかかわらず、あまりクマと接触した現場と離れていないことだ。

 どうもパニックになって近場をグルグルしていただけらしい。

 人は真っ直ぐ歩けないので砂漠で迷子になるとグルグル回った挙句に遭難する、とネットで読んだことがあったけれど自分たちの身に起きると笑えない。


「何でGPSは見えるのに電話やメールはだめなのよ!」


 スマホを握りしめてどこかへ電話しようとしていたアンテナが癇癪をおこした。


「そりゃあ…すごく簡単に言うとGPS信号は上から来ていて、スマホの電波は横から来てるからだよ。今はたぶん、山で遮られてるんだ」


 現代の地球の低軌道にはアメリカや中国が打ち上げた通信衛星群が数万機とか数十万機のオーダーで飛び交っていて、そのおかげで実現した超高精度GPS信号を利用した様々なアプリやサービスが世に溢れている。


 アメリカの草刈りドローンもGPS誘導だし、冒険者アプリの罠の特定もGPS座標を使っている。


 このGPS信号は宇宙の灯台みたいなもので上を向けば誰にでも受信できるから、戦争でも起きない限りはだいたい無料で利用できる。


 一方で衛星を介した通信についてはGPS信号の受信と異なり、実際に衛星間の通信帯域を占有するわけで、つまりは普通の通信のように費用がかかる。宇宙の真空中で衛星同士で通信をやり取りする方が、地上で光ケーブルを通じて通信するよりも若干スピードが速いらしいので、金融機関や対戦ゲーマーが好んで使っている。


 つまり宇宙衛星を介したインターネットは通信品質重視のそこそこお値段の張る有料サービスであって、貧乏高校生の僕達には手が出ないものなのである。

 そして僕達が普段安価であるという理由で使っている、街中に設置されたコスパ重視の基地局は山よりも標高が低い場所にあるわけで、山に遮られると電波が届かない。

 まあ、電離層の状態がとか出力によっては、とかいろいろ例外はあるので通じることもあるみたいだけど、今は幸運な例外に当てはまらなかったみたいだ。


 結果として僕たちは「近所の山奥で、クマに追い回されて。帰り道は見失ったけれど、どこにいるかは知っていて、けれど誰にも連絡できる手段がない」という極めて現代的な「ほとんど遭難」な状況にある。


「…どうする?」


「…どうしよう?」


 アンテナと僕は途方に暮れた顔で互いを見つめた。


 そんなわけで発足したばかりの新米冒険者パーティー「アンテナと愉快な仲間たち」は設立以来、最大の危機に直面していたのだった。



 クマ―★

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