探偵たちの章――Ⅲ




 駒込駅前に在地する『ポーカロコーヒー』は、喫茶のチェーン店としては、比較的安価なコーヒーを提供してくれる人気店だ。ちなみに『ポーカロコーヒー』の好敵手『バクスターコーヒー』はオシャレ感覚に敏感な人々をターゲットにしており、俺のような偏屈は入店と同時につまみ出されること間違いなしだ。身の程は、わきまえてるつもりである。

 平日の夕方でありながら、座席は案外混んでいた。店のすぐ前で、車椅子にのった女子が内側を覗いていた。どこか足が悪いんだろうか。一階はほぼ満席、二階へのエレベーターもない。なんというか、同情しようにもできなかった。

 途端、あいつのサングラス顔がパッと浮かんできたからだ。あんな夢想に溢れてる奴も、人並み以上の悩みを抱え込んでいるのだろう。それをおくびにも出さないのは、彼の凄さだろうが。

 車椅子少女から目を外し、カウンターへと向かう。一番安いコーヒーを買い二階に上がって、窓際の一番端にするりと滑り込んでようやくカップを指から離した。

 五分ほどして、三原がやってきた。なぜテーブル席じゃないのかという苦情は眉間のしわを寄せるだけで表す。口は緩ませたまま、後ろの男に席を勧めた。

「ここで、大丈夫?」

「うん。大丈夫」と俺の隣に腰を下ろす。いかにも堅物そうな眼鏡をかけ、髪質のせいか前髪がすべて直立している。酒も飲まずタバコも吸わず女遊びもせず、部下から嫌われる中間管理職を俺はイメージした。

 いかん。俺は咳払いをして、脳内妄想に歯止めをかけた。

「お忙しいところ、どうもありがとうございます。ええと、柴葉しばさんでよろしかったでしょうか」

「はい。よろしくお願いします。あと、同級生なので敬語はちょっと」

「そう。じゃあ、まあ、よろしく。俺は福山」

 初対面の人に敬語を使わないと、すごい違和感がある。基本、自分を卑下してるからかな。どうも相手を立ててしまう。

 すると柴葉が、「探偵をやってるの?」と唐突に訊いてきた。俺は奥の三原に一瞬目をやって、首を振った。

「そういうわけじゃない。探偵業をやってる人間の雑用ってだけだ」

「へぇ。まあ、実際の探偵は不倫調査とか猫探しとか地味な仕事ばっからしいよね」

「一番、人に薦めたくない仕事だ」

 『三原探偵事務所』に転がってきた雑用は、三原妹か俺に擦り付けられるのが鉄板行事である。不倫調査だけは、「昼ドラみたいで興奮するのよねぇ」と姉が率先して取り組んでいる。下衆な女だ。

「本題に入っていいか」

「もちろん。『セントラル』のことなら何でも」

「まず……なんで始めたか理由を知りたい」

 柴葉は薄笑いをする。

「単純なこと。承認欲求のために政治活動をするのは見てて腹が立ったから。あいつらは、何も国のことなんか考えてない」

「今の政治家も自分の保身しか考えてないようだが」

「それは別の話。ともかく今は、グループやれ派閥やれいってるような時代じゃない。政治でもそうだけど、多角的な視点から物事を見るためにいろいろな考えを持つ人材を集めるべきだと思ってる」

「右も左も関係ないってことか」

「そもそも、右翼左翼なんていう分類はすでに崩壊してるのが現状――二人は、それぞれにどんなイメージを持つ?」

 俺が黙ったままでいたから、三原が口を開いた。

「右翼が保守で、左翼が革新じゃないの?」

「一般的にはね。日本でいえば、自民党が右、共産党や社会党が左ってことになる。でもおかしいとは思わないかい。自民党は憲法改正を掲げているんだよ? 変革や改革っていうのはまさに左翼のやることじゃないか」

「……確かに、いわれてみれば変ね」

「逆に革新であるはずの共産党は、憲法を何としても守ろうとしている。お互いが本来の思想から外れた政策を取っているのに」

 俺も、おそらく三原も、そのことになんら違和感なく受け入れていた。だからこそ、すでに右翼やれ左翼やれのレッテル貼りは意味をなさないってことなのか。

「右翼ってのは元々天皇主権だったことは知ってるかな」

「戦前の話か」俺は答えた。

「そうだね。日本の敗戦は目的を失った若者に多大なる虚無感を与えた。その受け口になったのが右翼団体だっていう話もある。時は流れ戦後60年安保闘争。主役は反米を掲げる左翼集団。国会前に流れる左派団体を止めるべく、動員される予定だったのが、実は反共と反社を持つ右翼の団体だったんだ。もっとも、東大生・樺美智子の死亡によって騒動は収束したので不発弾となったけどね」

「なるほど」

「それ以降は、左翼の全盛期さ。東大のバリケード封鎖も全学連や全共闘といった左派集団の所業。ただ内ゲバという左翼の内部分裂によって権威は没落。同時に、反共・反社で売っていた右翼も引きずられるように勢力が小さくなっていったんだ」

「太陽と月の関係だな」

「そこで生まれたのが新右翼。従来の右翼を超えた存在――保守からの脱却を図って、協力するところは左翼とでも協力する。今の政治も、新右翼から流れ着いた集団が背後にいると噂されているけどね」

「左翼は?」

「集合離散を繰り返して、今に至る」

 戦後は左翼のブーム、そこからの右翼の発展。『ネトウヨ』という言葉が先にくるあたり、現在の情勢は右に傾いているのだろうか。いや、政治はいつだって右だった。一般市民の目立った行動が左か右かのどちらかっていうだけの話だ。

「はじめて知ったんじゃない?」

 俺は無言で頷いた。

「もちろん、これだけじゃない、色々な大物の話が右にも左にもある。三島由紀夫みしまゆきおとか、坂口弘さかぐちひろしとかね。とても数十分で話せる内容じゃない」

 でも、と紫葉は肩を落とす。「それだけ一口には説明できない、たった数十年だけど深い歴史はあるんだ。問題なのは、知りも調べもせずに『愛国』だの『親米』だのを謳う人間があまりにも多すぎる。失望しても、無理ないと思わないか」

 誰に投げかけたでもない疑問が、天井に突き刺さる。「無知の知」とはどの人がいった言葉だったか。俺は思い出せないでいた。

 コーヒーを一口、俺は飲んだ。すでにぬるくなっていたが、口が寂しい感覚のほうが勝った。どうにもいえない無言の間、俺は腕を組んだまま、琥珀色の液体をじっと見つめていた。

「彼女から聞いたんだが」

 おぼろげな視線を携え、紫葉が口火を切った。「君たちは、例の事件のことを調べているようだね」

「一応は」

「ということは」自らの鼻を指さす。「容疑者ってことかな」

「不快に感じたなら謝る」

「やめてくれよ。疑われる道理もあるし。でも、反論はできる。ウチらが本気で襲うとしたなら、『NGC』よりも『日プロ』を狙うね。あ、『日プロ』ってのは知ってるか」

 説明を加えられて、納得する。非論理的な推論を暴言と交えて、ネット上で攻撃してくる連中ってのが大まかなところか。

「一番の敵だからね、あの連中たちは。何人かの名前も当然知ってるし、今だって……殴ることなら殴ってやりたいよ」

「変に余計なことは口走らないほうがいい」

「そうよ。この男、余計なことしか覚えてないゲテモノだから」

 三原の誹謗中傷は、横に置いといて。

「今のあんたの言葉は、後にこいつには動機があるって疑われる真犯人のそれだ。俺は人を疑いたくない」

「思ったより善人なんだね。福山は」

 違うな。俺はニヒルに笑う。

「疲れるのが嫌なだけだ」

 乾いた笑いを返された。そして、薄く目を見開いた。

「冗談はほどほどにしておけよ」



         〇



 山手線で帰るというので、俺たちは紫葉を見送ることにした。『ポーカロコーヒー』から本郷通りを北西へ数分、横断歩道の向こう側にJR駒込駅が見えてきた。

「正義なんてものは、脆いんだよ」

 諭すような、紫葉のセリフ。俺はどうにもむず痒くなってしまうような、それを口に出せる紫葉に敬礼の一つでもしなきゃいけないのか……なんて。

「お互いの正義がぶつかるなんて、しょっちゅうさ。でも正解なんて誰にもわからない。わからないから、話し合って最善の手を尽くすしかない」

「たとえ罪を犯しても、か」

 歩行者の信号は、赤を示す。

「罪ねぇ。どうなんだろ。それも答えは出ないんじゃない。潔癖な政治なんて存在はしないし、華月の生徒会だって、完全無垢ってわけじゃない。そうは思わないか」

 最後のほうは三原に問いかけたんだろう。三原は首を捻って、「普通じゃないの」と端的に答えた。

「ここだけの話だよ」

 信号が青に切り替わる。他の歩行者と共に、俺らも歩みだす。

「今の生徒会長、元右翼の団体に属してたっていう話」

 なんと。誰だか知らないけど。

 いまいちピンとこないのは三原も同じらしく、「へー。あの会長がねー」と愛想笑いをしている。まあ、一般人がテレビスターを見るような感覚で、華月の有名人である生徒会長など、俺と三原が抱く感覚はさして代わり映えしないだろう。

「ちなみに、その右翼団体っていうのが実は『NGC』の前身でね、青沼と瀬戸内会長、さらには警団委員会の高梁も属していたんだ」

 要するに、今の生徒会主要幹部は右派とズブズブの関係だってことか。『左閣』が大きくなったのも、そういった構造への反発心だったからかもしれない。

「生徒会といえば」

 響き渡る足音に負けぬよう、俺は喉の奥から鳴らす。

「安芸津って奴、知ってるか」

 返事がこなかった。

 紫葉の表情が険しくなっていた。踏んではいけない地雷を飛ばしてしまったような。まずかったか。俺はなんとか応答を待つ。

「彼は――」

 紫葉は言い淀む。

 横断歩道を渡り切り、駒込駅前の、傘レンタル場。

 俺は三原と目を合わせる。

「おい、安芸津がまた何かしたのか」

「忍ちゃんが? 知らないわよ。それよりも、こっちのほうが……」

 三原の目は、気味が悪い、と訴えかけていた。同感である。いったい、安芸津の名前に何が――。

「不気味な人間だよ」

 弱々しく、紫葉は口を緩めていた。




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