「夏の始まりに」

 幸運でも不幸でもない。と、いうことがあの頃の僕の心配事だった。いいことに見えて、これはちっとも嬉しくない、少なくとも本人にとっては。

 僕の16歳の夏は、そんなこんなで何事もなく、いいことも悪いこともないまま始まろうとしていた。確かに、生活は不自由なく、父も母も健康で、この海辺の街で、至って何もなく平和に暮らしていた。だがその裏では、僕の体で原因不明の難病が進行していたり、父が他人に言えない多額の借金を抱えていたり、母が密かに年下の男と浮気をしていたり、親戚の家から両親を失った一人娘を引き取ることになり、それをめぐって家族の意見が真っ二つに別れたり、東京で一人暮らしをしている大学生の姉がよからぬ男と同棲を始めていたり、僕の住んでいる街で謎めいた連続殺人事件が起こったり、自分が秘められた特殊能力の保持者で、政府の特務機関に追われていたり、ある朝起きてみると宇宙人か謎の巨大生物が侵攻を開始したりとか――

 そういうことは一切起こっていなかった。僕は弱虫というより面倒くさがり屋なので、そのどの一つでも起こって欲しくはないのだが。


 だから僕は思っていた。変化が欲しいと。具体的にどんな変化?それは自分が一瞬だけでも、なにか世界の主人公になれるような、そんな変化。この決められきった毎日、決められきった自分を捨てて、飛び立ちたい。地面に這いつくばる僕も、いつか飛び立つ、そんな変化。

 何も出来ないまま、そんな事を夢見ていた。いや、正確にはそのために何をしていいかわからない。何も出来ないまま、心臓の四つ打ちだけが続いていく。

 そんな、高校2年生の夏に入ろうとしていた。海がキラキラした、最高に陶酔的で綺麗で、どこまでも広がって行くような音に包まれていそうな、あの夏が。

 でも何かできるような気は、まったくしなかった。特別な事も、全く起ころうとはしていなかった。


 6月末、梅雨の中休みの夕暮れ、太陽光線がもうすぐ終わりの、最後の一押しを見せている。まるで光が全て不透明な液体になって、すべて飲み込んでしまったよう。

 ひどく暑い日だった。どれ位暑い日だったかというと、その日のうちに熱中症で3人が保健室送りになるレベルであった。これはいくらなんでも激しすぎる。貧弱なボキャブラリー丸出しで言うなら、ヤバい。

 僕も少しフラフラしていた。学校にいる間はなんとか耐えてはいたけれど、帰りの冷房がキンキンに効いた電車の中で、一気に体力の消耗と疲労がどかーんと来たのだった。そしてとうとう僕はここ、いつも通学に使っている最寄りの駅、阿明駅で力尽きてしまった。情けない(ちなみに僕はまだ16歳だ、こんな事でいいのだろうか…)。


 暑苦しいくらい、それこそビーチの松崎しげるくらい輝いている銀色の電車から放り出された僕は、ホームに2つしか無いベンチ、その中の1つに陣取った。カバンの中にすっかりぬるくなって、むしろほの温かい位の炭酸飲料…これはやめておこう。

 絶対状況が悪化するだけだ。

 視界がハッキリしないくらいに、強烈な夕日で僕は光合成していた(こんな時に、人生の事とか、勉学や自分の得意分野や思索や文学的情緒について考えていれば、僕はこんなボンクラでは無いかもしれない)。

 

 だけどその時、一瞬の静寂が訪れた。波打ち際のざわめき。カエルたちの短いフェスティバル。そんな、自分の周りを囲んでいる音達が、すべて、消え去ったのだった。

ホームの傍。小さな踏切の、遮断機の向こう。

 誰かが、そこに立っていた。――水色のワンピースの女の子……僕はその姿を、瞬きもせず見つめていた、少し伸びた髪を風に、なびかせながら。そのこの髪も、やっぱり、なびいていた。ショートで、黒い、内巻きの綺麗な髪だ。

 そうやって目を、そっちに向けていると、物憂げにうつむいていたそのこもまた視線に気付いた。そして、優しく、でもちょっと困ったようにちょっと、笑った。僕は、そう僕にだ。一瞬のうちにはっとなり、絶対に心臓に悪いけど、心地よい驚きが全身を包んだ。

 こんな事は今までにない、絶対にない。無かったから僕は平凡なんだ!でも、後から振り返ってみたことだが、この後も無いと思う。静寂の後の盛り上がり。体が飛んでいきそうだ。いや、飛んで行けそうなんだ!僕は何も出来ないままに、ただこんな不思議な感覚に溺れていた。

 風の音が、更に強くなったように、僕は感じた。

 

 その時、向こうから響くモーターのノイズ。それを全帯域でハウリングさせながら、二両の機関車が前に立った鉱石列車が、僕と、そのこの間に立ち塞がった。機関車の後には、何十両もの貨車が、ガシャガシャと性急に反復するインダストリアル音を響かせながら、それに続いた。あの強い風を押しのけながら。


 時が、輝き始めた。世界が、歌い始めた。

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