第三章-5

 週末である金曜日は、何事もなくやってきた。それでも、色々と書類を作成したり調べ物をしたりと、僕にとっては忙しい数日だった。その内の一つが婚姻届で、市役所に取りに行った際は何だか気恥ずかしい感じがした。なにせ、おめでとうございます、と言われてしまったのだから。どうも、と頭を下げるしかない。

 という訳で、金曜日の夕方である現在、メイムと一緒に彼女の部屋で婚姻届を書いた。もちろん、お互いの親の欄は空白のままだ。それにしても、メイムの『名無』という名前はキツイな。公式な書類だからこそ、そのエグさが際立つ。名前を、せめて漢字だけでも変える事は出来るんだろうか。


「あはは、空夜さん手が震えてる」

「そりゃ一生に一枚だけの書類だからな。メイムは余裕だなぁ」

「ただ名前書くだけですよ。それに、これで幸せになれる、夢が叶うっていう名前だもん。あ、でも柚妃はこれで最後かな?」


 そういえば、そうか。女性は苗字が変わるんだもんな。いや、まぁ、女性だけとは限らないんだけど。


「しおうぎめいむ~。えへへ~」


 嬉しそうだな。十年やそこらじゃ、苗字にそこまで思い入れも無いか。それはそれで良いのかもしれない。由緒ある一族だったら、残念だけど。逆に考えれば、そんな一族だったら、こんな事にはなってないだろう。どちらにしろ、考えなくて良い事だ。

 ともかくとして、婚姻届を書き終わった。何か呆気ないものを感じつつも、もう一枚の書類も完成させる。たった一枚の紙だけど、これ以上ないって位の武器だ。これは何もメイムの親にだけ効く訳じゃない。僕の親にも有効だろうし、全国の両親に効き目がある。


「ふぅ……」


 重い息を吐く。人生を決める書類を書くのは、これで三度目だ。一つは高校受験、二つ目は大学受験。普通の人なら、次は就職のための履歴書という順番だろうな。僕はそれを一つ飛び越えてしまった訳だ。


「まるで無理矢理に大人にされた気分だ」

「お茶、買ってきましょうか?」


 心配そうにメイムが僕を見てきた。そうだな、とメイムに小銭を預ける。さっそくとばかりにメイムは飛び出していった。

 はてさて、最近は随分と散財しているなぁ。来年からはアルバイト必須か。まぁ、メイムと一緒に暮らすんだ。それぐらいやらなきゃ、彼女の幸せに貢献できない。


「勝負は今夜だ」


 呟き、シミュレートしてみる。できるだけ、思いつく限り最低の母親を想像しておく。底を考えていれば、まだマシに見えるだろう。期待など、一切しない。メイムが言う通り、本当は忙しいだけなんていう甘い考えは捨てろ。覚悟をもって、挑むしかない。大人に成り切れなかった大人との、人生最初の戦いだ。


「二度目が無い事を祈るばかりだ」


 呟いた頃には、メイムが戻ってきた。


「ただいま~」

「おかえり、ありがとう」


 メイムは、えへへ~、と嬉しそうに買ってきたペットボトルのお茶とお釣りを渡してくる。やっぱり、ただいまに対して返事があるのが嬉しいんだろうな。


「夕飯は、どこかに食べに行くか?」

「あ、私が作ります! 空夜さんに食べてもらいたいです!」


 あぁ、そうか。メイムは料理が出来るんだった。彼女が食材を買い込む時に、僕は彼女と出会ったんだった。


「それなら作ってもらおうかな。女の子の手料理なんて初めてだから楽しみだ」

「やった! また空夜さんの初めてだ~」


 バンザイしてからメイムはさっそくとばかりに台所へと移動した。う~ん、そんなに初めてが嬉しいもんなんだろうか。

 初めてね~……


「…………」


 いかんいかん。想像の翼が羽ばたいてしまった。いや、でも、夫婦になるんだよな~。そして、法律で許されてるんだよな~。何せ少子化対策で結婚できる年齢が引き下げられたらしいから~。

 実質、子供を生むのに適した年齢というのは、それこそ若ければ若い程に良いと思う。平安時代では、十歳前後の夫婦が多かったそうだ。それがダメになった理由は諸外国からの宗教観らしい。良く知らないけど。違っているのかもしれないけど。

 肉体的にダメだというのなら、若いうちから生理が始まったりはしない。子供が生める条件が揃ったからこそ、子供が生める準備が整ったからこそ、初潮があり、生理が始まるはずだ。

 そうじゃないのなら、そんな仕組みには成りはしない。生物としておかしい。こんな欠陥だらけの生物が、繁栄するはずがないんだから。


「いやいや、何を考えているんだ、僕は」


 呟き、頬を叩く。今はメイムの幸せだけを考えれば良い。自分の幸せなんて後回しだ。童貞が調子に乗るな。殺されるぞ。

 よろしく無い考えを打ち払ってから、僕は台所へと移動した。そこへは初めて入る。台所というよりかは、リビングか。キッチンはそこに併設されている雰囲気だった。そこはかなり広く、ガスコンロではなく電気式。ゆったりとしたスペースで見るからに使い易そうだ。


「あ、空夜さん」

「ちょっと見学に」

「え~。恥ずかしいですよ~」


 えへへ~、と笑いながらメイムはトントンと包丁の音を鳴らす。今は野菜炒めを作っているのかな? 手際は僕より数倍良い。感心する反面、やっぱり悲しい映像ではあった。お手伝いでここまでの腕を手に入れたのなら、手放しで凄いねと褒めてあげられる。でも、事実は違う。現実は違う。彼女は、こうでもしないと、普通のご飯が食べられなかったのかもしれない。自炊を覚えないと、お金が無かったのかもしれない。

 そう思うと、メイムの料理が上手ければ上手い程、美味ければ美味い程、それは悲しいものなのかもしれない。

 僕は手伝う事も出来ず、メイムの料理姿をずっと見ていた。程なくして、ご飯が炊き上がり、味噌汁が出来上がり、野菜炒めが完成する。温かい出来立ての夕飯だ。しばらく実家から離れている僕には、何だか凄く嬉しい感じがした。

 それらをメイムの部屋に運び、食事の準備が整う。一応、余りの食器があるらしく、僕のはそれを使わせてもらえる事となった。


「いただきます」

「いただきま~す」


 まずは味噌汁を頂く。荒熱をふぅふぅと取ってから、ずずずと味わってみた。うん、当たり前だけど我が家の味噌汁と全然味が違うなぁ。


「美味しいよ」


 だからと言って、マズイ訳ではない。ちゃんと味噌汁になっている。というか、女の子の手料理だぞ。マズイはずが無いじゃないか!


「わっ、良かった! いいお嫁さんになれますか?」

「当たり前だろ」


 料理が上手いお嫁さんなんて、最強だろう。それだけで、引く手数多だ。女の子が持つスキルの中で最強ランクの能力に違いない。うんうん。

 その後も、料理の感想なんかを言い合いながら夕飯を食べた。誰かと食べる夕飯は初めてだったのか、メイムは終始ご機嫌だった。後片付けは僕にやらせてもらう。これぐらいはしないと、夫失格かもしれない。


「メイム。今日は夜中まで起きている事になるから、今のうちに寝ていた方がいい」


 後片付けも終わり、メイムの部屋で一息ついてから僕は彼女に言った。


「そうなの?」


 うん、と僕は頷く。さすがに小学生に徹夜は無理だ。僕の記憶では、十一時が限界だった気がする。今のうちに寝ておけば、まぁ、多少はマシになるだろう。


「じゃぁ、お風呂の準備しますね」


 どうやらメイムは、寝る前にお風呂に入る派、らしい。ちなみに僕は夜九時にお風呂に入る派だ。湯冷めとかそんなのを無視した非常によろしくない習慣だけど、今はどうでもいい。


「あ、空夜さん。よかったら一緒に入りませんか?」


 パチンと手の平を合わせて、メイムがにっこりと笑った。え~っと、なんだって? 一緒にお風呂?


「……とっても魅力的なお誘いだけど、僕は遠慮しておくよ」


 あぁ~っと、その、ほら、着替えとか無いし。うん。


「え~、入りましょうよ~。あらいっことかしてみたいんです」

 誰かに背中を洗ってもらうというのは、確かに滅多に経験できるものではないよな。いや、でもね。

「いやいや、メイム一人でゆっくりと入ってきたらいいよ」

「え~。一緒がいい~」


 むぅ……妙にワガママだな。何か、お風呂に関しても憧れでもあるのだろうか。こればっかりは何も思い浮かばないぞ。


「あ~……だったら、じゃんけんをしよう。メイムが勝ったら、一緒に入るよ」

「あ、分かりました! がんばりますよ~!」


 むむむ、とメイムはグーとかチョキとかパーにする手を見ている。対して僕は何もしない。メイムとじゃんけんをするのはこれが初めてだ。つまり、傾向も対策も立てる事が出来ない。まったくの運勝負という訳だ。


「いくぞ~」

「は~い」


 じゃんけん、ぽん、の声と共に、僕とメイムはそれぞれの手の形を相手に差し出したのだった。

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