第4話 What a splendid girl !

 中原航太と付き合っているという事実を私が忘れかけてしまっていたことについては、ここだけの話ということにしておいてほしい。


 今日は日曜日。天気は太陽がやかましいくらいに燦々と輝く快晴だが、風は少し冷たい。そして今日の私の予定は、一日丸々埋まっている。


 改札を通り抜けて待ち合わせ場所に到着すると、駅の隅っこで挙動不審にぐるぐると歩き回っている変な男子中学生がいた。五秒に一回は大げさな動作で深呼吸をしていて、その間も足は忙しなく動いていて、そしてきょろきょろと首を動かして誰かを探している。家で主人の帰りを待つ健気な大型犬のような雰囲気があった。とにかく落ち着きのない男子中学生だった。


 その中学生の首が私の方を向いて、途端に中学生は時が止まったように動かなくなった。さっきまで死ぬほどうるさかった動作が、突然ぴたりと静寂に落ち着く。私は構わずその中学生に近づいていく。


「おまたせ。ごめん、ちょっと待たせちゃったかな?」


 や、と手を挙げて私が挨拶しても、その中学生は静止したまま、微動だにしない。


 一体今、彼の中で何が起こっているのだろう。


 私が彼の顔の前でひらひら手を振ってみても、彼は目玉ひとつ動かさない。魂が抜けたみたいだ。


「おーい、大丈夫? どうかしたの?」


 彼の頬を指でついて、そのままぐーっと押し込んでみても、彼は石のように固まったまま。


 彼の両頬を私の両手で挟んで押し込んで、とても間抜けな顔を作って遊んでみても、彼は動いてくれない。


 いい加減にしてくれ。


「ねえ、もしかして私のことをからかってるの?」


 今度は彼の両頬をぐにーっと引っ張りながら、私は呼び掛けた。返答はない。


 彼の頬を引っ張ったままぐりぐり回して遊んでみる。それでも彼の目の焦点は合わない。


「もう、このままじゃ時間なくなっちゃうよ?」


 私の、いつもより少しだけトーンが高いよそ行き仕様の声にも、彼は答えてくれない。


 本当に石像みたいに固まっている。私の顔を確認した瞬間にこんな状態になってしまうなんて、まるで私がメデューサになったみたいだ。自分の髪の毛を触ってみると、それは蛇なんかではなくちゃんと人間の髪の毛だった。


「うーむ……」


 数学の難問に立ち向かっている幼気な女子中学生のような思案顔を作ってから、よしと心を決めて、私は思いっきり彼の顔を引っぱたいた。クラッカーが鳴るような派手な音がした。彼の頬には赤くくっきりと、私の手形の痕がついていた。


「痛っ……」


 するとようやく彼は動き出したのだけれども、すぐに顔を押さえてしゃがみこんでしまった。


 まったく、人にはたかれたくらいで立っていられなくなるなんて。


「やっと動き出してくれたね中原くん。こんにちは。少し待たせちゃった?」

「こ、こんにちは二条さん。えっと、全然、待ってないよ……」


 言って、中原くんは顔の半分を手で覆いながらゆっくりと立ち上がって答えた。なんだか痛々しい。


「本当に? それはよかった」


 私は笑顔を自分の顔に貼り付けてから、それに応じる。すると中原くんもそれに反応するように、ぎこちなく笑った。


 そして中原くんはゆっくりと顔から手を離して、そしてその手を私に差し出した。


「ん、なに?」

「あーいや、せっかくだし、さ、その、手、を、繋ぎたいなって、思って」


 中原くんは目線を逸らして顎の辺りを掻きながら、照れ臭そうに言った。顔に私の手形があるから、今の中原くんは何をしていてもなんだか間抜けに見える。


「うん、いいよ。手、つなごっか」


 私は一切の躊躇なく、その差し出された中原くんの手を握った。すると一瞬、ぶるっと中原くんの手が震える。女の子の手を握るのは初めてなのだろうか。かくいう私のほうは、初めてのわけがない。


 中原くんはものすごく弱い力で、優しく包み込むように私の手を握った。小学生の女の子みたいな握り方だ。


「ねー、ちょっと照れてる?」


 からかいまじりに笑いながら私がそう言うと、中原くんは苦笑いして「て、照れてないよ。これくらいのことで」とわかりやすく頬を真っ赤に染めた。中原くんの苦笑いは少し気味悪かった。


 今日の私の予定は丸々一日、中原くんのデートで埋まっている。


 中原くんは先週の昼休みに、走って来たのか何なのか、息を切らせながら教室に戻ってきて、そしておもむろに私の座っている席まで来て、「今度一緒に水族館に行こう」ととんでもなく突発的かつシンプルな切り出し方でもって私のことをデートに誘った。そのときの私は、なぜこの男子は急に何の関わりもない私のことをデートに誘ったのだろうと疑問に思った。つまり私は、中原航太と自分が付き合っているという事実をすっかり失念してしまっていた。それでも私はすぐにその事実を思い出して、中原くんの誘いを快く引き受けた。そして、今日のデートに至る。


 でもしかし、初デートに水族館を選ぶとは、一体どういう理由があるのだろう。センスが良いのか悪いのか、微妙なところだ。


 私たちの学校のすぐ近くには、デートスポットとして地域では有名な大型のショッピングセンターがある。だから私はてっきり、もし同級生の男子からデートに誘われるようなことがあれば、自動的にそこに行くことになるのだろうと思っていた。実際にこれまで付き合ってきた同級生の男子は、デートとなると大抵は私をそこへ連れて行った。


 それなのに、そんな近場におあつらえむきに最適なデートスポットがあるというのに、中原くんは私を、学校からかなりの距離があるこの水族館へと連れてきた。


 なぜ水族館なのか。


 単純に中原くんが大の水族館好きで、それに私を付き合わせているだけなのだろうか。いやでも、中原くんの性格を考えるに、私の事情を一切勘案せずにデートスポットを選んだとも思えない。


 じゃあ、本当になんで?


「ねえ、今日はなんで、水族館に行こうと思ったの?」


 ストレートにド直球に、訊いてみた。別に変に怪しまれるような質問でもない。


「二条さんって、水族館好きなんだよね?」

「は?」


 なんだそれ。私が水族館好き?


 そんなこと、いつどこで誰が言った?


 私は別に、水族館が特に好きなわけではないのだけれど。


 私の反応がいまいち悪かったのが不思議だったのか、中原くんは驚いた顔で言った。


「え、あれ、葉月さんが言ってたんだけどな……」

「葉月が?」

「う、うん……」


 思わず私の声がいつもの低いトーンに戻ってしまって、中原くんは困惑したように表情をゆがめた。でもそんなことはどうでもいい。


 私が葉月に、水族館が好きだなんてことを言った覚えは全くない。なんなら、私は葉月との会話の中で水族館というワードを発したことすらないかもしれない。そのくらい、私と水族館には何の関連もないはずなのに。


 だからつまり、葉月は嘘を吐いたのだ。二条千草は水族館が好きだという、意味もわけもわからない嘘を吐いた。


 一体全体どういう了見でそんな嘘を?


「葉月が、私が水族館好きだって言ったの?」

「う、うん。そうだけど、違うの?」

「…………んーん、違くないよ。そうそう、私水族館大好きなんだよね。泳いでる魚を見てるとなんだか気分が落ち着いてくるよね」


 とりあえず適当に話を合わせておいた。ここで変な反応をして中原くんを不安にさせても仕方がない。


 それに、あの葉月のことだ。葉月の吐いたそんなくだらない嘘に、そこまでの深い意味があるとも思えない。どうせ気まぐれないたずらか何かだろう。


「やっぱり、そっか。それなら良かったよ。二条さんに楽しんでもらえなきゃ、デートの意味がないからね」


 言って、中原くんは爽やかに笑った。少し幼さの残る笑顔だった。


 そんな笑顔を見ると、なんだか、私と中原くんとでは住む世界がちがうような気がしてくる。いや実際、中原くんと私とでは、見えている世界が全然違うのかもしれない。


 中原くんと私との間に、何か決定的な線引きが為されているような気がする。


 私はあんな爽やかに笑うことなんてできない。


 私が大人になってしまっているから、爽やかに笑うことができないのだろうか。


 私が、寂しさを埋めたいがためだけに人間関係を構築するような、愚かで汚くて醜い人間だから、爽やかに笑うことができないのだろうか。


 中原くんはきっと、私とは違って、寂しさを埋めるために病的に他人を求めるなんてことはないのだろう。私に告白してきたのも、正確な理由はまだわからないけど、たぶん自分の寂しさを埋めるためではないのだとと思う。だけれど私は、寂しさを埋めるために中原くんの告白を受け入れた。


 中原くんのその笑顔は、私のいる場所よりもずっと遠い場所にあるように思えた。


 その遠い場所が、私の前方にあるのか後方にあるのか、私には判然としなかった。



 水族館の入り口で、中原くんは私の入場チケットまで自腹切って買ってくれて得意気な顔をしていたけれど、私には他に会うたびに五千円を渡してくれる男がいるので何とも思わない。


 意外なことに、なぜか水族館内の客足はまばらだった。だから、水族館内で人混みにもまれてはぐれてしまう、なんていう面倒なイベントは起こりそうになかった。


「二条さんは、見たい魚とかある?」


 入場ゲート近くの館内マップを指して、目を爛々と輝かせた中原くんが言う。水族館内に足を踏み入れたあたりから、中原くんはなんだか妙にテンションが高い。水族館に興奮しているのか。子供なのか。


「順路通りいけばよくない?」

「あ、そ、そうだよね。二条さんは魚好きなんだから、種類関係なく全部見たいよね」

「いや、別にそうは言ってないけど……」

「あ! 見て見て! イルカショーだって! シャチもいるらしいよ!」

「うぇぇ、めんどくさい。服濡れたくないし……」

「服が濡れたら僕が新しいやつ買ってあげるからさ、ほら、せっかくだし」


 さっき手を繋ぐ時も中原くんはせっかくと言っていたし、中原くんはなんでもせっかくだからで済ませられると思い込んでいるのだろうか。


「そういう問題じゃないし……」

「あ、もう時間始まっちゃうよ、早く行こう!」


 中原くんは私の手を掴んで、駆け足で強引に私の手を引いた。私はされるがまま、千鳥足のようにつまずきながら引っ張られる。


 中原くん、完全に調子に乗っている。変なテンションに陥っているともいえる。


 失礼かもしれないけれど、たぶん今日は中原くんにとって人生で初めての、女の子と二人っきりのデートなのだろう。だから、中原くんの中で緊張と興奮が入り混じった結果、色々なもののストッパーが外れて、こんな変なテンションに陥ってしまっているのだろう。


 だからまあ、それに付き合ってあげるのも、告白を引き受けた私の責任なのだろう。


 男子中学生とは人の形をした黒歴史製造マシーンであるから、男子中学生が黒歴史を製造していく様子を暖かな目で見守ってあげるのも、彼女である私の責任なのだろう。


 こういううざいテンションの中原くんを受け流してあげるのも、彼女の務めなのだろう。


「うわ、もう始まっちゃってるよ、ぎりぎりセーフ」


 観客席に囲まれた屋外プールから、ちょうどイルカがざばっと飛び出してきて、纏った水滴をキラキラ輝かせながら空中を舞って、派手に水しぶきを上げながらまたプールへと飛び込んでいった。


 頬に刺すような冷気を感じた。水滴が頬まで飛んできたらしい。


 私たちは観客席の最後列まで移動して、そこに腰掛けた。その間にもイルカは跳躍する。今度は腕に水滴が飛んできた。この程度の水しか飛んでこないなら、服が濡れる心配はないか。


 最後列だから、あまりイルカショー特有のリアルな迫力は感じられない。イルカの飛ぶ様子よりも、イルカが飛ぶ度に大騒ぎする子供の黄色い声のほうが迫力があるような気がする。


「すごいね。僕、イルカショー見るの初めてなんだ」


 目をキラキラさせた中原くんが、興奮気味な口調で言った。本当に子供みたいだ。いやもとから中学生は子供か。


「二条さんはやっぱり、イルカショーなんて見慣れてるの?」

「ま、まあね。それなりには」


 本当はイルカショーなんて一度も見たことない。そんな機会は私の人生には生憎とめぐってこなかったのだ。


 そもそも、水族館に来たことだって、今日を除けばたったの一度しかない。


 小学生の頃、今は亡き母親に連れられて行ったことが、一度だけある。


 あのとき、母親と二人で。


 ……あえて思い出したい記憶ではない。


「ああやって水槽という限られた空間の中で飛び回っているイルカはさ、生きるのが楽しいとか思うのかな」

「え?」


 唐突に哲学的というか倫理的というか道徳的な投げかけをされて、私は思わず間抜けな声を出してしまった。


 こんなキャラだったっけ、この人。


「ああ、いや、動物園とか水族館とか、ペットショップとかに来るとさ、いつも思うんだよ。この動物たちは生きているのが虚しくならないのかなって。昔からの癖みたいなものなんだけど」

「は、はあ……」


 まあ、それは私も一度は考えたことがある。というかこれは、誰しもが一度は考えるようなありきたりな問題だろう。


 人間に管理された動物たちははたして幸せなのか否か。


 人間に利用されるためだけに生まれてきた生命に幸福はありえるのか否か。


 利用、利用ね……。


「生きるのが面倒くさいって動物にとっては、人間に管理されるほうが良いんじゃない? 私たち人間もそうだけど、野生で個人として生きていたら、自分で道を切り開かないと生きていけないからね。特に弱肉強食の世界だったら、いつも死の危険性に付きまとわれてるわけだし。それに比べれば、自由が縛られる代わりに安定した食事が供給されて、安全な場所死ぬまで世話してもらえる環境のほうが好ましいのかもね」

「でも、自分でがんがん道を切り開いていきたいって性格の動物もいるよね」

「そう。だから、結局どっちがより幸せとかはないんじゃないかな。どういう状況において幸福を感じるのかなんて、動物によってそれぞれ違うんだろうし」


 即席で思いついた適当なことをそれっぽく述べると、中原くんがほへーと感心したような表情を作っていた。今の中身の薄っぺらい話のどこに感心する要素があったんだろう。


「じゃあ、二条さんは、どっちがいい? 一生涯ずっと管理されて拘束されて生きるのか、野生として自分で道を切り開いて生き抜くのか」


 イルカショーを見ながら話すような話題じゃないと思うんだけど、他にすることもないのでしばし考えてみる。前列のほうの子供たちは頭の中がすっからかんになったような奇声を上げているのに、そこまでの歳の変わらないはずの私たちはここまで落ち着いている。どちらが場違いなのか。


 自分の人生の全てを、誰かの管理のもとで生きるのか。あるいは、自分ひとりの力で、自分だけの人生を切り開いて生きるのか。


 そもそも、私の現状はどちらになるのだろう。


 私は今までの人生を自分の力で切り開いてきたという覚えは全くない。だからといって、誰かに切り開いてもらったという覚えだってない。だけれど私の人生は、こうして十四歳までの道が既に開かれている。一体誰が開いたのだろう。


 私の人生のレールの上を走るトロッコに、私はまだ乗り込んでいないのではないか。そのトロッコは私の知らないところでひとりでにどんどん先へと進んで行って、そのトロッコが進むのに合わせて全然関係ないはずの私の人生も進んでいく。私の人生のトロッコは、私が動かしているわけではない。じゃあ一体誰が動かしているのか。


 私の人生を動かしているのは何者か。


 それは、私の周り。この社会だ。


 私の人生はこの社会によって動かされている。


 極端な例でいえば、子供が小学校に通うのはあたりまえだとか、十三歳になったら中学校に通わなければならないだとか。


 女子中学生が年上の男とセックスするのはおかしいだとか。


 結局私たちも、この飛び回っている、いや、飛び回ることを強いられているこのイルカたちと同じなのだ。


 私たちは社会という組織から中学生であることを強いられている。


 イルカたちは水族館という組織から飛び回ることを強いられている。


 イルカたちはこうして今、人間たちに娯楽として利用されている。


 私たちも将来、人間たちに労働力として利用されることになる。社会が私たちに小学校や中学校に通うことを強いるのは、つまりそういうことだ。将来的に私たちを利用するため。


 なんだ、最初から選択の余地なんてないじゃないか。


 私たちも、自由なように見えて実際は全く自由なんかではないのだ。私たちもイルカたちと同じく、自由を縛られた、鳥かごに囚われた存在なのだ。


 イルカという他の生き物を利用するのと同様に、人間は自分たちと同じ人間という生き物さえも利用する。


 人はお互いを利用し合って生きていく。お互いの自由を縛って生きていく。


 私が中原くんを利用しているように。私が西園寺を利用しているように。


 つまるところ人間はどこまでも孤独なのだ。行き着く結論はいつもここだ。だから限りなく、どこまでも寂しい。


 この世に真のつながりは存在しない。人間とつながろうとすることは、イルカとつながろうとするのと同じくらいに難儀を極める。コミュニケーションができない相手と心を通じ合わせようとするのと、難易度はそう変わらない。


 人間が寂しさから解放されることは、ありえない。


 ……なんてことを言ったら、中原くんはどういう反応をするだろうか。


「……別に、私はどっちでもいいや。どちらにしても、私は自分の運命を受け入れるよ」


 色々考えた挙句、私は答えを濁した。私が今さっき考えていたことをだらだらつらつらと語って、その後で中原くんの告白を受け入れたのは私の寂しさを埋めるためなのでしたー恋愛感情なんて一ミリもありませんでしたー、と言ったら中原くんはどんな表情になるのか、並々ならぬ興味をそそられたけれど、我慢した。


「僕は……、やっぱり、野生として生きていくほうがいいかな」


 中原くんは今日、私と会ってから終始、少し口角を上げている。なんだかみっともない表情だ。


「僕は、自分の欲しいものを自分の力で手に入れたい。自分の欲しいものを、自分が納得のいくまで、満足するまで探求し続けたい。だってそのほうが、死ぬときに後悔が少ないだろうから」

「ふーん」


 これまた中身の薄っぺらい回答だった。たった十四年しか生きていない人間に深みを求めるのもお門違いかもしれないが。


「僕は、二条さんが欲しいものも一緒に探したい。二条さんが何かを求めているなら、僕も一緒になって探求したい」

「え、なに急に」

「二条さんはいつも、心のどこかが抜け落ちているような雰囲気があるから」

「…………なにそれ、ポエマー?」

「い、いや、そうじゃないけど……」


 中原くんは照れて顔を逸らした。もとより中原くんは、隣の私には顔を向けずにずっと正面のイルカショーを見つめていたけれど。


 私にはいつも心のどこかが抜け落ちているような雰囲気があるらしい。


 心のどこかが抜け落ちている。


 確かに私の心の中には、どうやっても満たすことのできない部分がある。


 その部分が満たせないから、私はずっと寂しい。


 その部分を満たすために、私は異性を求めた。


「二条さんは、いったい何を求めているの?」

「私は……」


 中原くんがずかずかと遠慮なく私の心の中に入り込もうとしてくる。それも変なテンションのなせる業か。今吐いているようなセリフを後になって思い出したら、中原くんは悶え死ぬのだろうか。


「私は、別に、何も……」

「二条さんはそうやって、いつも自分の内面のことを語ろうとしない。それが悪いことだとは言わないけど、僕の前でだけは、そういうのやめてほしいな」

「は、はあ」


 子供たちの黄色い声は、いつのまにかどこか遠くへ行ってしまった。


「二条さんの寂しさの原因は何?」


 私はなぜ寂しいのか。


 それは、人は皆孤独だから。


 人と人は、繋がり合うことはできないから。


 人は生まれてから死ぬまでずっと、孤独だから。


 人である私ももちろん、孤独だから。


 孤独だから、寂しさを感じるのはあたりまえで。


 だから私は寂しい。


 ……本当にそれだけ?


「人間がみんな寂しさを感じているわけじゃない」


 そうだ。


 私は明らかに異常だ。それは私自身も重々理解している。私は病的なまでに寂しさを感じすぎている。人並みなんてものはとっくに超えている。


 私がここまで寂しいのはなぜか。


 私がここまで寂しさを埋めようと躍起になる理由は。


 私が異常になってしまった原因は。


「…………」


 私の周りの人間たちのこと。


 私に対して全く興味がないお父さん。とても仲が険悪で、できるだけ一緒にいたくないお父さん。家族である私のことよりも葉月のことが好きなお父さん。


 そして、私のことよりも私のお父さんのことが好きな葉月。お父さんとの仲を深めるためだけに私に近づいてきた葉月。本当は私のことなんか好きじゃない葉月。


 そして、私のことを都合の良い新鮮な若い女だとしか思っていない西園寺。私のことをお金を渡せば簡単に身体を許してくれる都合の良い女だとしか思っていない西園寺。私のことを恋愛対象ではなく性欲のはけ口だとしか思っていない西園寺。


 これは。


 こんなのは。


 そりゃあ、寂しいよな。


「……誰も私を愛してくれないから」

「……うん、そうだね」

「誰も私のことを気にかけてくれないから。誰も私のことを心配してくれないから。誰も等身大の私を真正面から見てくれないから。誰も私のことを愛してくれないから」

「でも違うよ」

「え……」

「僕はキミのことを愛してる」


 そこで、イルカショー終了のアナウンスが鳴った。ステージ上のイルカたちと飼育委員が舞台裏へ引き上げて行って、前列の方の子供たちもいそいそと立ち上がっている。


「僕はキミのことを気にかけているし心配しているし、もしキミが見せてくれると言うなら、キミの等身大の姿にも真正面から向き合う。そしてなにより、僕はキミのことを愛してる」


 そしてやっと、私は中原くんと目が合った。


 私は中原くんの目に吸い込まれそうになった。


 いや、私は中原くんの目の中に吸い込まれてしまったのだ。



「ねえ二条さん、なんで泣いてんの?」

「……楽しかったよね、今日」


 震えた涙声を出す。鼻水をすする。目元を袖で拭う。


「う、うん。そうだね」

「だから、楽しかったから、嬉しい。嬉し泣き」

「そ、そっか……」


 中原くんは困惑の混じった苦笑いを浮かべた。もしかしたら引いているのかもしれない。でもそれでもいい。


 中原くんは私のことを愛してくれているのだから。愛してくれているその事実が変わらないのなら、いくら引かれても構わない。


 もうすっかり橙色に焼けた空の下を、私たちは手を繋いで歩いていた。水族館から出て、今は駅に向かっている。中原くんと繋ぐ手にぎゅっと力がこもる。


「また、二人でどっか行こうね。絶対」

「うん。また僕のほうから誘うから」


 でへへと二人で笑い合う。傍から見たら気味悪く映ることだろう。でもいい。これが私の幸せだから。誰にも邪魔させてたまるものか。


 ああ、寂しくないってこういうことか。


 幸せってこういうことか。


 嬉しい。幸せ。楽しい。胸の中が暖かい感情でいっぱいになる。溢れそうになる。


 身体の芯の部分がストーブみたいに暖かい。身体の芯が暖かいから、しだいに身体全体に暖かさが広がっていく。そうやって暖かさと一緒に、幸福感も身体全体にしみわたっていく。


 心が満たされていく。


「ね、次はどこ行こっか」


 私が中原くんの顔を覗き込むようにして訊ねると、ばたりと倒れた。


 聞いたことのないような鈍い音が聞こえた後、中原くんがそのまま体勢も変えずにばたりと倒れた。ただの道端に、うつ伏せになって倒れた。


 中原くんが倒れた。起き上がらない。起き上がる気配もない。どうして。 


 何が起こった?


「男の子と手ぇ繋いで歩いて、そーんなデレデレした幸せそーな顔しちゃって。千草ちゃん急にどーしちゃったの? いっつもあたしに見せてるみたいなあのむすーっとした表情はどこ行っちゃったの? そんなに幸せそうな顔されると、さすがのあたしもちょっとばかし嫉妬しちゃうなぁ。さてさて、ではここで残念なお知らせでーす。千草ちゃんの幸せタイムはここまででしゅーりょーでーす。残念だったね、残念だったね。かなしーねーかなしーねー。でも仕方ないよ。現実っていう世界はね、幸福が長くは続かないように設計されてるんだよ。人生における九割の時間は不幸で構成されているんだね。いやまあ、そんなこと今はどうでもいいんだよ。とにかく千草ちゃんもあたしと一緒に来てね」


 どーん! という女の子のかけ声が聞こえた瞬間、首筋の骨が砕けたような音がして、テレビ画面がふっと消えるように私の視界は暗幕に閉ざされてしまった。


 目の前にいた中原くんの姿も確認できない。中原くんがいない。中原くんはどこだ。


 どこいったどこいったどこいったどこいったどこいったどこいったどこいったどこいった。


 中原くんがいなきゃ、中原くんがいなきゃ、だめなのに。


 おしまいなのに。


 おしまいにしちゃえ、こんなの。


 はやくおわれはやくおわれはやくおわれはやくおわれはやくおわれはやくおわれはやくおわれ

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