第2話 A friend of hers.

「げぇ……うぇ、えほ……おふ」


 今朝食べた、昨日の夕飯の残りのカレーを、便器の中に吐き出した。べちゃべちゃべちゃっと不快な音を立てて便器に着陸するカレーたち。胃液や唾液も全部吐き出しきってから、口元を軽くハンカチで拭う。


 便器の中は全体的に黄色っぽくて、よく見てみると、ニンジンっぽい何かや玉ねぎっぽい何かやジャガイモっぽい何かが浮いている。あんまりよく噛んで食べてないのかな、私。


「……うー」


 突如、ぐらり、と頭が重く感じて、目を閉じていないのに視界の八割が暗闇に侵食されていく。トイレの壁に手をついて下を向いて、ぎゅっとこめかみを押さえる。歯をくいしばる。


 ギンギンと後頭部が激しく脈動して、大変に気分が悪い。


 ふー、ふーと激しく呼吸して、視界の暗闇を取り払おうとする。


 次第に、重い鎖が外れたようにすーっと頭の重さが元に戻って、顔を上げる。まだ少し身体の重心が不安定だ。


「……きもちわるい」


 便器のレバーを押し込んで異臭を放つゲロを早急に流して、トイレの個室を出る。喉が焼けるように痛い。実際に胃酸で焼けているのだろう。


 トイレの蛇口で口の中をゆすいでいると、突然後ろから肩を叩かれて、私の心臓と胃と肩が激しくバウンドした。別に強く叩かれたわけでもないのに、不意に人から触れられるだけでいちいちびっくりしてしまう。


 人間不信なんだ、きっと。


「どしたん、急に鬼気迫る勢いで走って教室から出て行っちゃって」


 蛇口から顔を上げて、鏡越しにその人の顔を見る。


 胸の前で腕を組んで、何を考えているのかよくわからない中学生らしからぬ妖艶な笑みをたたえる女子の同級生。妙に上から目線な態度。


葉月はづき、なんでいるの。ホームルームは」

「千草ちゃんのことが心配だからに急いで来たに決まってるじゃなーい。そんなのいちいち言わせないでよー」


 どーんと、葉月は後ろから私に全体重をのしかけながら私に抱きついてきた。慌てて流し台のふちに手をついて、なんとか受け止める。


「葉月、おっもいっ!」

「にゃんだとー? 女の子に向かって重いとか言っちゃいけないんだぞー。小学校で習わなかったのかー?」

「重いものは重いの。あんた、また太ったでしょ」

「最近体重計乗ってないから知らなーい。それより千草ちゃん、なんか顔色真っ青になってない? 今にも死んじゃいそーな顔してるじゃん。ユールックペイルつって」

「別に、そんなことないし」


 私の首の前で手を交差して足を曲げて、歩くことを放棄した体勢の千草の身体を、私はずるずる引きずってトイレから出る。葉月は私の背中にほおずりしながら、ふにゃふにゃと気の抜けたような喋り方をする。


「ちょいちょい、もう教室戻るの?」

「だって、一時間目始まるし」

「そんなのサボっちゃおうよ。どうせ家庭科だし、一時間くらいサボってもだいじょーぶー、のーもんだい」

「ねぇ、今日調理実習だよね?」

「そういえばそうだったね」

「じゃあ二時間あるじゃん」


 ちゃんとエプロン持ってきたっけなとか考えながら、誰もいない廊下を人間ひとりを引きずりながらゆっくり歩く。葉月の上履きのつま先が廊下に擦れてきぃきぃ音が鳴る。


 物理的にも精神的にも重くて面倒な女、葉月。


「二時間あるなら二時間サボればいいだけの話でしょー。それに、千草ちゃんついさっき朝ごはんをリバースしちゃったばっかりなのに、自分で料理作って食べるなんてできるの?」

「え……」


 私は足を止めて、葉月に振り返った。


 葉月は眠そうな目で私を見上げていて、口元はにやついている。だらしのない品の悪い表情だった。


「あたしは千草ちゃんのことなーんでも知ってるんだから。千草ちゃんがあたしに言ってくれなくても、そんなの全部おみとーし」


 臭いでバレたのか。


 そんなゲロっぽい臭いを放っているのか、私。


 今すぐ家に帰ってお風呂に入りたい。


「しんどいときは頑張らなくてもいいんだよ。だから、しんどいときはしんどいってちゃんと言ってくれないと。ね?」


 しんどいときでも頑張れる人間がいるからこそ、この社会は成り立っている。


 たまにしか頑張れない人間を支えるために、埋め合わせをするために、いつも頑張る人間がいる。


 私はどちら側の人間なのだろう。


 私は将来どちら側の人間になっていくのだろう。


「……じゃあ、サボるか」

「いぇーい。千草ちゃんもずいぶんノリが良くなったもんだねー。じゃ、保健室行こっか」

「え、図書室じゃないの?」

「なーんか最近図書室の司書の人が変わっちゃってさー、サボりに行けなくなっちゃったんだよね。だから、保健室」

「つまんねーの」

「しょーがないじゃん。中学生がサボれる場所なんて、保健室くらいしかないでしょ? それに千草ちゃん具合悪そうだし、ちょうど良い口実になるよ」


 私がゲロを吐いたことをサボる口実にされるのはなんだか癪だけど、まあいい。そんなことをいちいち気にしていられない。


「それじゃ、れっつごー」


 葉月がまた私に全体重をかけてきたので、私は首に回された葉月の手をほどいた。


「いい加減自分で歩け、デブ」

「うぇーん。千草ちゃんはあたしにだけは毒舌だけど、それはあたしにだけは素をみせられるってことなのかな? そこに本物の愛があるのかな?」


 一応、葉月以外にも素を見せられる人はいる。西園寺とか。


 しかし、この毒舌が本当に私の素なのかは、私自身にもわからないけれど。


「……うるさい、早く行くよ」


 私は階段を二段とばしで下りながら、中原くんと葉月だったらどちらがより面倒な人間なのかな、と無意味な思考を広げていた。



「失礼しまーす! おはよー、せんせ」

「あら、授業中じゃないの?」

「サボりに来たんですー」


 白衣、眼鏡、巨乳、低身長、編み下ろしポニー、二十代前半、聖母のような優しい笑み。


 男子からの人気はもちろん、女子からの人気も相当に厚い、まるでどこかの学園ドラマに出てきそうな、いわば典型ともいえるような保健の先生が、我が校の保健室に鎮座している。


 私もこの養護教諭は嫌いじゃないけれど、なんとなく好きにはなれない。


 なぜなら、この人はあまり嘘をついている感じがしないから。


「葉月さんまたサボり? 先週もサボりに来てなかったかしら? そんなことで成績は大丈夫なの?」

「いーのいーの、先生は気にしなくても。それよりさ、今日は体調不良者を連れてきたから、ただのサボりってわけでもないよ」

「あら、その後ろの子?」

「ど、どうも……」


 おずおずと、葉月の後ろから顔を出して挨拶する。不思議そうな顔の養護教諭と目が合う。目が合ってもその表情は変わらないまま。まあそりゃあ、有名でも虚弱でもなんでもない私のことなんていちいち認知していないだろうな。


「なんかさ、ゲロ吐いちゃったんだって」


 葉月に手を引かれて、養護教諭の座っている丸椅子へと連れていかれる。


「あらら、大変ね。確かに顔色が悪いわ。大丈夫?」


 養護教諭が心配そうな顔で、優しい手つきで私の頬を触る。


 そんな、本気で心配しなくていいのに。


 心配する振りしてればいいのに。


「まあ、概ね大丈夫です……」

「……そう。じゃあ、ベッドで休んでなさい」


 意外とあっさり診察が終わって、ベッドへと促された。私に優しく微笑みかけてから、養護教諭は丸椅子をくるっと回転させてパソコンへと向き直る。


「おぉ、意外と仕事てきとーなんだね、せんせ」

「ちょっと吐いたぐらいだったら大丈夫でしょう。まだ若いんだから」


 本当に適当なんだな。まあ、私もベッドで休ませてもらえるのならそれに越したことはないし、構わないけれど。


 なんだか本格的に瞼が重くなってきた。今日は貧血気味なんだ。ものすごく眠い。化け物みたいな疲労感にハグされている。


 ピンク色のカーテンを滑らせて、硬そうな保健室のベッドに派手に飛び込む。ぎぃっと鉄が軋む音がした。


「どーん!」


 その上からまた派手に飛び込んできた奴のせいで、今度は私の身体が軋んだ。危うく内臓が潰れるところだった。


「うぐ。おっもい、から! どけ!」

「つれないなー千草ちゃんは。せっかくだからあたしと添い寝しよーよ」

「暑苦しいんだよ。うざい」


 ベッドの上を這って進んで、葉月の下敷きから逃れて、そこにあった枕に自分の顔を埋めた。


「ちーぐさちゃん、しんどいの?」


 衣擦れの音を立てながら私に近づいてきて、葉月は私の頭を撫でる。


 西園寺と手と葉月の手の暖かみは、ほとんど違いがなかった。


「見ればわかるだろしんどいんだよ」

「それは大変だねー。じゃああたしと一緒に寝ちゃおうか」


 まるで動物をあやすような手つきで私の頭を撫でる葉月。


 するとなぜか、体内の血のめぐりがだんだん良くなってきたように思えてくる。


 さっきと比べて気分が良くなってきたように思えてくる。


 頭を撫でられて、気分が良くなってしまう。


「仲良しさんなのね、あなたたち」


 後ろからそんな呟きが聞こえてきた。


 仲良しって。養護教諭の目にはそんな風にうつるのか、私たち。


 私と葉月は、仲良しなのだろうか。


 友達なのだろうか。


 本当に、お互いがお互いのことを大事に思っているのだろうか。


 私と葉月との間に、友愛は存在するのだろうか。


 そんなものは目に見えないから、絶対にわからない。


「そうだよ。あたしたち仲良しだもんねー、千草ちゃん?」


 葉月の子供をあやすような微笑みから私は目を逸らす。その質問には安易に答えてはいけない気がした。


 葉月が私と仲良くするのは、葉月には私と仲良くするメリットがあるからだ。


 葉月は、ただ純粋に私のことが好きで私の友達をやっているのではない。


 葉月は私の父親と付き合っているから、私と友達をやっている。


 私の父親と恋人同士だから、葉月は私と仲良くしているのだ。


 私と葉月が知り合ったのは、二年生に進級してクラスが同じになってからのことだった。だから私は、一年生の頃の葉月がどんな人で、何をしていた人なのかは知らない。


 四月の、クラス替えがあって始業式があった日。葉月は急に私に話しかけてきた。それはもう明らかに不自然な話しかけ方で、明らかに慌てた様子だったから、私の葉月への第一印象は、『ひょっとすると頭がおかしいのかもしれない変な人』だった。その日の葉月はなんだかずっと挙動不審で、なぜか必死に私に話題を振り続けた。好きな食べ物はなんだとか、好きな漫画はなんだとか、好きな俳優は誰だとか、そういう世界で一番くだらない人間たちが楽しそうに会話をするような内容の話題を葉月は振り続けた。


 そんなことがあったから、葉月とかいうこの人は、とにかくなんとかして私と友達になりたいんだな、ということに私が気付くまでさほど時間はかからなかった。この葉月という人はどうにかして、私との距離を詰めたいんだなと、私は察した。


 なぜ葉月が私なんかと友達になりたいのかは判然としなかったけれど、特に悪い気はしなかったので、私はそのまま葉月を受け入れて仲良くなった。私は葉月と仲良くなったと思っていた。


 それから少し月日が流れて、ある夏の日。


 その日、私は西園寺だったか誰だったか、とにかく年上の男と一緒にラブホテルに来ていた。もちろん私服で、それも少し背伸びしたようなコーディネートで。


 そのとき、そのラブホテルのエントランスで、私は葉月とすれ違った。


 ラブホテルなんて、本来女子中学生がいないはずの、いや、いてはいけないはずの場所だ。


 それなのに、ラブホテルのエントランスで女子中学生同士が二人、すれ違った。


 間違いなく、あの少女は葉月だったはずだ。


 私と葉月はラブホテルのエントランスで目が合った。完全にお互いがお互いの顔を視認した。


 葉月は私を見てびっくりしただろうけれど、私はそれの数億倍はびっくりした。


 そのとき葉月と手を繋いで歩いていたのが、他でもない、私の父親だったから。


 父親は背が高いからか、今しがたすれ違ったカップルの片割れが自分の娘だとは気づいていないようだったが、葉月のほうは明らかに私が私だと気づいていたし、私も葉月が葉月だと気づいていた。


 だけれど私たちは、何事もなかったかのようにその場ではそのまますれ違った。


 その次の日に学校で会っても、私たちは何も変わりなく、いつものようにお互い接していた。その日の私たちの会話は、もし事情を知る人が見たら不気味ですらあったと思う。


 でも私たちはお互いがラブホテルにいたことを知っているし、私は自分の父親と葉月が恋人同士であることを知ってしまった。


 葉月があんなに私と友達になりたがっていたのは、つまりそういうことだったのだ。


 私の父親と葉月が繋がっていたからだったのだ。


 葉月は、私の父親との関係をより強固なものにするために、私に近づいてきただけのことなのだ。


 葉月は私のことが好きで友達をやっているのではない。葉月は純粋に私と仲良くなりたくて私と友達をやっているのではない。


 葉月は、私と私の父親のどちらかを選択しなければならなくなったら、きっと迷わず私の父親のほうを選ぶのだ。


「おーい、どしたの猫みたいに顔逸らしちゃって。今日の千草ちゃんはにゃんだかそっけないねぇ」


 葉月が私の頬を指でぷにぷにつつきながら、眠たげな声で言う。


「……いつもこんなもんでしょ」

「そんなことないじゃーん。いつもだったらすぐ『仲良し仲良し』って答えてくれるじゃない。ねぇ?」

「今までそんな質問したことなかったでしょ、あんた」

「そういう意味じゃなくて。千草ちゃんは今まではあたしと仲良しでいることをちゃんと認めてたじゃんってこと。それなのに今日は急に黙り込んじゃってさー。さっき廊下にいたときだって言葉に棘があったしにゃー」

「あんたの気のせいでしょ、そんなの。私は別にいつもと変わんないし」

「じゃあ、あたしたちが仲良しだって、認めて?」

「…………」


 私たちが本物の関係であれば、こんなことを確認しなくても済むのだろうか。


 私たちが本物の関係であれば、私が返答をはぐらかしても葉月はもう一度訊きなおすことはしなかったのだろうか。


 私と葉月との友情は偽物であると私は思う。でも、本当にそれが偽物かどうかを目で見て確認することはできない。


 私と葉月との間に、本物が存在する可能性もゼロではない。


 だけれどその可能性は限りなくゼロに近いのだろうと思う。


「……仲良しだよ、私たちは」

「あっはは、顔赤くなっちゃってるよ千草ちゃん。照れてるの? 照れてるよね。ホント恥ずかしがり屋さんなんだから」

「べ、別にそんなことないし」


 本気でその言葉が信じられなくて、私は自分の頬に手のひらを当てた。確かに熱くなっていた。


 冷静になってみれば、お腹のあたりにぐつぐつと煮え立っている得体の知れない感情も湧き出てきていた。


 しかるべき場面で照れるくらいの、一般的な女子中学生の標準的な感情は、まだ私の中にも残っているらしい。


 私の中にもまだ、普通の女子中学生の素質は残っているらしい。


 そんな素質は私の中から早く消えてしまえばいい。


「照れてる千草ちゃんかわいーねぇ。食べちゃいたくなってきちゃった」


 葉月に頭を撫でられながら、私は目を閉じた。

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