夢ノ三 心無き骸(間接的な暴力・性描写あり)

※物語の後半に、軽度の描写と、間接的なを含みます※

※ご注意ください※



 涼やかな風が夏の暑さを押しのける仲秋。

 朝晩はだいぶ過ごしやすい季節になった。

 勤番長屋でも蚊帳はすっかりお役御免で、薄い掛物一枚では肌寒く感じるときもある。

 暑さを引きずった昼間を通り過ぎ、夕刻になれば緩やかな風も寒々しく感じられた。

 義一郎は、ゆっくりと永代橋を渡る。

 何気なく川の方に目がいって、欄干の上に肘をついた。

 寒さを感じるのは肌だけではない。

 心の中までも寒々しい風が吹いているように、冷たい。

 江戸に来てからというもの、この風はやむことを知らないままだった。


 古河藩士である真壁義一郎は、半年前に勤番で江戸に来た。

 古河藩は規模としては小さいが、かの徳川家康も北の要所として重要視していた土地だ。

 古河公方として、いつの時世も将軍家の信頼厚い大名が入報している。

 義一郎の主君である古賀藩主土井利里はこの時、奏者番から寺社奉行を経て京都所司代を仰せつかり、後は老中格を待つばかりと噂されていた。

 故に開府当初から古河藩の江戸幕府への忠義は堅い。

 それは下層の藩士に至るまで染み渡っている。

 義一郎もその例に漏れず、古河藩士であることを誇りに思っていた。

 勤番が決まった時は、江戸に来ることを心待ちにしていた。

 しかし来てみると、思っていたのとは、だいぶ違っていた。


 初めのうちは見るもの聞くものが真新しいものばかりで、心が浮足立った。

 そんな義一郎が最初に行ったのは、日本橋だ。

 真っ直ぐに長く伸びた広い道の両脇には立派な大店が軒を連ねる。

 大通りは見たこともない数の人で溢れていた。

 古河の城下町とは比べ物にならない人の海だ。

 その光景を興奮気味に眺めながら、義一郎は一軒の呉服屋に入った。

 店の中はとても広く、多くの客が反物を片手に手代と話をしている。

 目に映る総ての人がとても上品に見えた。

 目を輝かせて店内を眺めている義一郎の元に、一人の若い手代がそそくさと寄ってきた。

 手代は義一郎の姿を上から下まで舐めるように何度も確認すると、眉を顰めた。

「お武家様、どういった御用向きでございましょうか」

 義一郎は、胸を張って大きく頷いた。

「うむ。反物を見だいんだが、いぐつか見繕ってくんねぇべか」

 言葉遣いを聞いて、手代の眉がぴくりひきつった。

「お武家様は、どちらの御国からこの江戸へ来られたのでしょうか?」

 義一郎は更に反り返るように胸を張る。

「儂は古河藩士・真壁義一郎ど申す。勤番で江戸に来たんだ」

 尻上がりの田舎訛りで胸を張る義一郎に、手代はあからさまに態度を変えた。

「お武家様、こちらのお品は京より取り寄せました下りものでございます。お武家様の手持ちではお買い上げいただくのは難しいかと存じます」

 早口に冷たく言い放つと、帰れとばかりに頭を下げる。

 義一郎は憤慨し顔を赤くした。

「んなもんは見でみねぇとわかんねぇべ。一体ぇいぐらすんだ」

 他の買い物客が、ちらちらと二人を見ながら、こそこそと何か話している。

 手代は困った顔で義一郎に近づくと、そっと耳打ちした。

「!」

 手代がこっそり告げた値段に、義一郎は仰天した。

 逃げるように店を飛び出した。

「ああ、驚いた。結城紬だって、あんなにしねぇべさ」

 興味本位で入った店だったが、とんでもない恥をかいた。

 自分も悪かったとは思うが、手代の言葉や態度の冷たさに義一郎の虚栄心は傷付いた。


 次に一悶着あったのは、蕎麦屋だ。

 古河藩下屋敷は深川猿江町にある。

 この辺りは呑屋や食物屋が豊富に出ている。

 勤番の侍たちは自炊も多いが、屋台や店で飲み食いする時もある。

 食は、彼らの楽しみの一つでもあるのだ。

 この日、義一郎は長屋周辺の散策も兼ねて、少し離れた蕎麦屋まで歩いた。

「蕎麦ど、酒を一本付けてくれねぇべか」

 義一郎の無遠慮な大声が店内に響く。

 周りにいた客が、ちらちらと振り返り、すっと店の中が静かになった。

 店内の雰囲気などまるで気にしない義一郎に、近くで飲んでいた若い男たちが笑い出した。

「随分と、でっかい声だなぁ。それに酷ぇ訛りだ。一体、どこの郷の出だぃ」

 揶揄われて、義一郎は、かっとなった。

「儂は古河藩士・真壁義一郎だ。御国の言葉を馬鹿にすんでねぇ」

 男たちが、更に大笑いする。

「下総の勤番かぃ。とんだ田舎者だなぁ」

「浅葱裏か、それじゃあ仕方がねぇや。しかし、ちったぁ他の客に気が遣えないもんかねぇ」

「馬鹿にすんでねぇ、だってよ。はっはっは」

 酒が入っているせいか、男たちは執拗に義一郎に絡む。

 義一郎は、顔を真っ赤にして怒り出した。

「この言葉の、どごがおがしいんだ。それに儂は、誇り高い古河の藩士だ!」

 憤慨する義一郎を、男たちは一層に可笑しそうに睨む。

「何が誇り高いだ! この田舎侍が!」

 大笑いする男たちに、遂に堪忍袋の緒が切れた。

「ふざけるんじゃねぇ! 表さ出ろ!」

 義一郎は男の一人に掴みかかると、外に向かって思い切り投げ飛ばした。

「け、喧嘩だ!」

 店の主人が、大声で叫んだ。

 頭に血が上っている義一郎は、その声も全く耳には入らない。

 勢いで外に出ると、転がっている男に掴みかかった。

 すると、後ろから他の仲間たちが義一郎に向かい匕首あいくちを振りかざした。

 すかさず避ける。体を捻って相手の籠手を打ち、匕首を落とす。

「くっそ」

「来んならこい。相手してやっがら」

 義一郎は、神道無念流免許皆伝の腕前である上に、柔術にも長けている。

 鋭い眼光で睨み据えると、男たちは震え上がって一目散に逃げていった。

「ふん、口程にもねぇ」

 ふと気が付くと、辺りには人だかりが出来ていた。

 店の方に目を向けると、主人と目が合った。

 主人が、すこぶる迷惑そうな目で義一郎に向かい首を振り、頭を下げる。

「頼むから、もう帰ってくだせぇまし」

 小さな声が聞こえた。

 流石にもう、店に戻って蕎麦を食える雰囲気ではない。

 義一郎は主人に蕎麦と酒の分の銭を払うと、何も食わずに店を出た。

(儂の言葉は、そげにおかしいのか?)

 しかし自分には何がおかしいのか、さっぱりわからない。

 虚しい気持ちと、もやもやした憤怒が胸に広がる。

 義一郎は、とぼとぼと長屋へ帰っていった。


 訛りはその後も、何かにつけ馬鹿にされた。

 その度に義一郎は憤慨し、反比例するように口数が少なくなっていった。

 極めつけは、吉原だった。

 幕府公認の遊郭である新吉原は、一度は行ってみたい憧れの場所だ。

 妻子を郷に置いてきている義一郎も、少しの後暗い気持ちはあるものの、男のさがとして興味はある。

「小見世の昼でも、儂らにゃ無理だろうなぁ」

 勤番武士は銭がない。

 義一郎は仲間たちと、昼間に素見しに行くことにした。

 大門をくぐると、そこはまるで見たことのない国のようだった。

 二階建ての建屋が両脇に軒を連ね、真ん中の広い通りには男女交々人が歩いている。

 吉原は遊郭だが、女人が入ってはいけないという決まりはない。

 特に桜の名所としては有名で、春先など隆盛な桜を見物しに来る観光客も多い。

 最近は滅多に無いが、花魁道中がある時などは見世に上がらない人々が美しい花魁を一目見ようと、どっと集まる。

 日本橋とは違った一種異様な艶めいた雰囲気の中を、義一郎たち勤番侍は束になって、ふらふらと歩いた。

 仲ノ町と呼ばれる通りには大見世があり、張見世からゆっくりと煙が立ちのぼる。

 何かと覗いてみると、花魁が煙管で煙草を吸っていた。

 ゆったりとした仕草は妖艶で、半開きの目と艶やかな唇が薄ら笑っている。

 じっと見詰めていると、その中の一人の女郎が、こちらを向いて笑った。

 思わず笑い返すと、中からくすくすと小さな笑い声が聞こえてきた。

 女たちがこっちを見て笑っているのだ。

「安っぽい着物」

「浅葱裏よ」

「臭い、臭い」

 義一郎は自分の耳の良さを呪った。

 確かに吉原の花魁は美しい。

 古河の女郎とは比べ物にならない器量良し揃いだ。

(儂らは、商売女にまで卑下されんのか)

 酷く惨めな心持ちになった。

 花魁たちの言葉と笑い声が、今までの出来事を走馬灯のように思い出させた。

 見目、訛り、誇りに思っていた肩書までもが馬鹿にされる材料になる。

 ひと月ほど前にも、飲んだ帰り道に一人の侍に絡まれた。

 肩をぶつけられた挙句『銭のない浅葱裏』と馬鹿にされた。

(江戸っちゃ、こんなとこか)

 義一郎は仲間たちから離れ、一人ふらふらと大門を出た。


 どれくらい歩いただろう。

 ただ歩いているだけでも、町行く人々が振り返って笑っているような、何かを言われているような気がしてしまう。

『変な訛り』

『田舎臭い』

『浅葱裏』

 今までに投げられた言葉が、頭の中をぐるぐると回る。

 耳にこびりついた声を拭い去るように、義一郎は走った。

 やがて辿り着いたのは、永代橋。

 気付かぬ間に随分と遠くまで歩いてきていたようだ。

 歩き疲れて、義一郎は橋の欄干にもたれかかった。

 橋の上を吹き荒ぶ風が、妙に冷たい。

 まだ然程、季節は深くない筈なのに、川風は容赦なく義一郎の頬を叩いていった。

 自然と下がった視線の先に、船が見えた。

 一艘の簡素な船は、襤褸を纏った人々を乗せて進んでいく。

「ああ、囚人船が行くね」

 誰とも知らない道行く人の声が聞こえた。

 永代橋の麓は、島流しの船が出る。

 罪を犯した人々が、八丈島に送られるのだ。

 彼らが再び江戸の土を踏むことは恐らくない。

 義一郎は、小さくなっていく船を、只々眺めていた。

 ぱさ…と、何かが落ちる音がした。

 足元を覗き見ると、財布が落ちている。

 振り向くと義一郎の後ろを童が一人、走っていった。

 咄嗟に財布を拾い上げると、童を追いかける。

「そごの童、これ落どしたど」

 声を掛けると、童がくるりと振り返った。

 はっ、とした顔で小走りに近寄ってくる。

「これ、おめぇのだろ」

 屈んで童に目線を合わせ、財布を差し出す。

 童は驚いた顔で義一郎を見ていたが、すぐに笑顔になって深々と頭を下げた。

「これはご丁寧に、ありがとうございます。大変、助かりました」

 童とは思えぬしっかりとした言葉遣いで礼をされ、義一郎は小さく笑った。

「しっかりした童だな。もう落どすんじゃねぇぞ」

 童の頭を撫でてやる。

 すると後ろから、一風変わった雰囲気の女が歩み寄ってきた。

「何しているんだぃ、優太」

 童が振り返り、女を見上げた。

「凜さん、この人が落とした財布を拾ってくださったんです」

 凜と呼ばれた女が、義一郎に小さく頭を下げた。

「あたしの連れが世話になったね。礼を言うよ」

「いんや、たまたま拾っただけだがら」

 義一郎は立ち上がって照れたように笑った。

 優太が小さな頭を下げて、凜の着物を引っ張る。

「凜さん、急ぎましょう!」

 走り出した優太に、凜が怠そうに声を掛ける。

「走ると、また落とし物をするよ。気を付けな」

 優太が「早く早く」と急かす。

 凜が欠伸をしながら仕方なしに歩き出した。

「急がなくとも、祭りは逃げやしないよ」

「祭り?」

 義一郎の呟きに、凜がちらりと振り返った。

「この先の、深川八幡の祭りさ。毎年大層賑わっているから、行ってみるといい」

 ふっ、と小さな笑みを残して凜が優太を追いかける。

 その笑みが、やけに意味深に義一郎の瞳に残った。

 二人の後ろ姿を、じっと見詰める。

(江戸にも、ちゃんと礼を言う人があるんだな)

 十人十色、人はそれぞれ違う。

 江戸の人間という括りで十把一絡げにするのは間違っていると思うが。

 嫌な思いをすることが多かったせいか、些細なことで感謝されたことに驚いた。

 心が、ほんの少し温度を取り戻した気がした。

「祭り、か」

 古河の秋祭りを思い出し、懐かしい気持ちになった。

 尤も郷元の祭りと江戸の祭りでは、規模も人出も違うだろうが。

 思いを巡らせているうちに、深川八幡の祭りに興味が湧いてきた。

 空を見上げると、陽はまだ高い位置にある。

 夕刻まではまだ間がありそうだ。

 義一郎は、深川に向かって歩きだした。


 人の流れに逆らわずに歩いていたら、どんどん数が増えて、気が付いたら人混みに流されていた。

 どうやら、いつの間にか深川八幡の境内に入っていたらしい。

 深川八幡とは名の通り、深川にある富岡八幡宮の通称である。

 この季節、江戸に社の多かった他の八幡宮でも祭りは行われていたが、一番大きな祭りは、この深川八幡祭だ。

 江戸の人は祭り好きなので、この祭りも多くの人を呼び込んだ。

 義一郎が訪れた時分は、帰りの客と行きの客が混じって、とんでもない人出であった。

 そんなものだから、境内は人ばかりで、なんの催しが行われているのかも、よくわからない。

 出店が出ているようだが、近づくことすら難しかった。

 人に流されながら歩いていると、近くから鳥の羽音が聞こえてきた。

 見上げると、人々の歓声とともに何羽もの雀が、ばさばさと飛んでいった。

(江戸は雀も多いんだなぁ)

 これは放生会という祭りの催物で、江戸では多く八幡神社で行われる。

 殺生を戒める意味で亀や鳥や鰻を放つものだ。 

 深川八幡祭では多くの雀を放つのだが、それを知らない義一郎は、ぼんやりと大空を舞う雀の群れを眺めていた。

 突然、大きく人混みが動いて義一郎は流れ流され境内の外に追いやられてしまった。

 何とか人と人をかき分けて、流れから抜け出る。

「ふう、人だらけだぁ」

 結局、何をしに来たかわからないような結果になった。

 がっかりした心持ちで息を吐いた。

(江戸は、儂の住む土地じゃねぇな)

 改めてそんなことを考えていたら、どっと疲れが押し寄せてきた。

 きょろきょろと辺りを見回すと、疎らになった通行人の向こうにぽつりと佇む一軒の茶屋が目に入った。

 義一郎は、一先ずその店で休むことにした。

「いらっしゃいませ」

 茶屋の娘が元気な声で出迎えてくれる。

 長椅子に腰掛け、ほっと息をつく。

「茶と、なんか甘いもんを……」

 顔を上げて、息を飲んだ。

 注文を取りに来た娘の笑顔が、きらきらと輝いて見える。

 娘は可愛らしい笑顔を義一郎に向けていた。

「お茶と甘いものですね。じゃあ、お団子はいかがですか?」

 屈託のない笑顔に鈴の鳴るような声。

 言葉の意味など理解する前に頷いていた。

「お待ちくださいね」

 注文を受けたと思った娘はすぐに奥に入って支度を始める。

 義一郎の目は無意識に娘を追っていた。

(江戸には、あんなに可愛らしい女子おなごがいんのか)

 呆然と娘を眺めていると、ふと目が合った。

 はっと我に返って、目を逸らす。

 すると娘は、顔色を変えて義一郎に駆け寄った。

「御武家様、怪我していますよ」

 娘の視線が左腕に注がれている。

 自分の腕を確認すると、擦り切れて血が出ていた。

「これぐらいは、掠り傷だから」

 傷口を舐めようとする義一郎を、娘が慌てて止める。

「駄目です。今、手当てをしますから」

 一度奥に戻ると、娘は桶と手拭を持って戻ってきた。

 義一郎の前に屈み、濡らした手拭で丁寧に傷口を拭き取る。

 俯く娘の顔に、義一郎の視線は釘付けになった。

 滑らかな白い肌に、ぷっくりと血色の良い唇。

 丸いくりっとした瞳と伏した長い睫毛、ほのかに色付く頬。

 華奢な指が腕に触れて、顔が熱くなる。

 胸の高鳴りは、どんどんと大きくなっていく。

「痛くないですか」

「あ、ああ」

 突然問われて、思わず声が上擦ってしまった。

 娘は丁寧に包帯を巻き終えると、

「はい、終わりです」

 満面の笑みを義一郎に向けた。

 それはまるで天女のように美しく見えた。

「……ありがとう」

 義一郎は俯きながら小さな声で、なるべく抑揚がつかないように呟いた。

「今日は人出が多いから、気を付けてくださいね」

 言い添えて、娘は仕事に戻っていった。

 義一郎は団子をかじりながら、娘の働く姿を眺めていた。

「おーい、お花。これ運んでくれ」

「はーい」

 娘は客と楽しそうに会話しながらも、てきぱきと良く動く、とても働き者だった。

(お花、って名なのか)

 西の空に陽が傾いて鴉が山へ帰って行く刻限になるまで、義一郎はお花から目が離せなかった。

 漸く重い腰を上げて、帰り支度をする。

 気が付いたお花が、そそくさと歩み寄った。

「ありがとうございました」

 お花の顔を直視できないまま、俯き加減に勘定をする。

「また来てくださいね」

 団子と茶だけで随分と長居した義一郎に、お花は屈託のない笑顔を向けた。

 義一郎は一礼だけして、足早に店を去った。

 心の臓が耳元で大きな音で鳴っている。

 けれど嫌な動悸ではない。

 江戸に来て、初めて受けた親切が素直に嬉しかった。

 義一郎の胸は、長屋に着くまでずっと早鐘を打っていた。


 長屋に帰って布団に入ってからも、義一郎はずっと呆けた顔をしていた。

 お花の笑顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。

 際立って見目が良いわけではない。

 だが、可愛らしい笑顔やくるくる変わる表情、よく通る声がとても印象的だった。

 何より、自分のことを馬鹿にするでもなく親切に接してくれた。

 それが一番嬉しかった。

(江戸にも、親切な人がいんだなぁ)

 手当てしてもらった左腕を見詰める。

 あの時のお花の真剣な表情を思い返す。

 何故だか照れた心持ちになった。

(もう一度、会いたい)

 ぼんやりと考えながら、久方ぶりに温かい気持ちで義一郎は眠りに落ちていった。


 柔らかな光の中に、一人の娘が立っている。 

 ゆっくりと振り返ったその顔は、お花だ。

 お花は義一郎に向かって、柔らかく微笑んだ。

「義一郎さん。また、会いに来てくださいね」

 そっと義一郎の手を握ると、上目遣いに顔を覗き込む。

 お花の恥じらうような表情がたまらなく可愛らしい。

 頬を薄紅色に染めて微笑む顔に、義一郎は戸惑いながら手を伸ばす。

「……」

 手を空に向かい伸ばした状態で、義一郎は目を覚ました。

 いつの間にかお花の姿はなく、目の前には最近漸く見慣れてきた天井があった。

「……夢か」

 伸ばしていた手を、ゆっくりと降ろす。夢の内容を反芻した。

「お花……」

 目を閉じれば、あの笑顔はすぐそこにある。

「会いにいくべ」

 義一郎は勢いよく飛び起きると、支度をして勤番長屋を出た。


 今日は、たまたま非番だった。

 とはいえ、江戸勤番の仕事など月に何日もない。

 ほとんどは暇を持て余している。

 勤番侍たちは長屋で俳句を楽しんだり皆で飲んだり、工夫して余暇を過ごしていた。

 物見遊山の暇は山ほどあるので、江戸見物をする者も多いが、如何せん銭がない。

 だから、ほとんどが素見になる。

 結局それが、浅葱裏と馬鹿にされるきっかけにもなるのだ。

 外に出るのが嫌になりかけていた義一郎だったが、昨日のことが気持ちを変えてくれた。

 お花に会いたい一心で、義一郎は深川に向かった。

 深川八幡の鳥居の少し手前に、その茶屋はあった。

 昨日は祭りで酷い混み具合だったからわからなかったが、茶屋は富岡八幡のすぐ側だった。

 茶屋の中を遠くから覗く。

 お花は今日も昨日と変わらず、しゃきしゃきと働いていた。

 ごくり、と生唾を飲み込み意を決して茶屋へ向かう。

 人影に気付いたお花が、ふわりと振り返った。

「いらっしゃいまし。あ、昨日の御武家様」

 明るい笑顔に、義一郎もぎこちない笑顔を返す。

 自分のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。

「怪我は、大丈夫ですか?」

 腕の包帯を見詰めて、お花が心配そうな顔をする。

「大した怪我では、ねぇから」

 照れ笑いしながら、義一郎は長椅子に腰掛けた。

「今日は、何にしますか?」

 夢の中と同じ、柔らかい笑顔でお花が義一郎に声を掛ける。

 ただ注文を取っているだけなのに、胸が高鳴る。

「茶と、団子を……」

 義一郎は、なるべく訛りが出ないよう抑揚のない口調で答えた。

「はーい、お待ちくださいね」

 お花が奥に引っ込むと、

「ふう」

 義一郎は大きく息を吐いて、呼吸を整えた。

 ほんの少し会話を交わして顔を見ただけで、心がとても温まる。

 ちらりと奥に目をやり、お花を覗き見る。

 一所懸命に働く姿は、本当に健気で可愛らしい。

 お花の姿に見惚れていると、義一郎の前を一人の女が通り過ぎた。

 女が店の奥に声を掛ける。

「こんにちは」

 声に気が付いた花が、顔を出した。

「はーい。あ、お優さん」

 お優と呼ばれた女は慣れた様子で団子を注文すると、お花と話をし始めた。

「いつも、ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとう。うちの子と旦那が、ここのお団子大好きでね」

 話の途中で優が、何度か湿った咳をした。

「お優さん、体が悪いの?」

 お優は苦しそうな顔で笑顔を作り、「違うの」と手を振った。

「風が少し冷たかっただけよ。最近は、随分涼しくなったものねぇ」

 礼と共にお優が団子を受け取る。

 心配そうな顔で聞いていたお花が、

「ちょっと待っていてね」

 と、奥に戻っていった。

 少しして出てくると、手に薬袋のようなものを持っている。

「これ、葛根湯。煎じて飲んで」

 お花の差し出した袋を見て、優は慌てて手を振った。

「いいよ、いいよ。本当に大丈夫だから」

 話す先から、お優の咳は止まらない。

「病は悪くなる前に養生しないと。ね、持っていって」

 懇願するようなお花に根負けして、お優は葛根湯を受け取った。

「すまないね、お花ちゃん。いつも気遣ってくれて、ありがとう」

「いいのよ、お互い様なんだから」

 お優は頭を下げて帰っていった。

 後姿を見送ったお花が、そそくさと義一郎の所にやってきた。

「遅くなっちゃってごめんなさい。お茶とお団子です」

 ぺこりと頭を下げるお花に、義一郎は「いやいや」と微笑んだ。

「待ってなんかいねぇよ。今の人は、どこか悪ぃのけ?」

 お花は眉を下げて、こくりと頷いた。

「よくうちに来てくれるお客さんなんですけど、少し前から咳が酷くて。大丈夫って言うけど悪くなってるような気がして、何だか心配なんです。私にできることなんてあまりないけど」

「お花ちゃんは、優しいんだな」

 義一郎の素直な言葉に、お花が頬を赤らめた。

「そんなことないですよ。でも、ありがとうございます」

 照れたような表情で微笑む花に、義一郎も微笑み返す。

 穏やかな時が流れていた。

「おーい、お花」

 店の奥から呼ぶ声がして、「はーい」と返事をする。

「ゆっくりしていってくださいね」

 と言い置いて、花は店の奥に戻っていった。

(可愛らしいだけでなく、心も綺麗な娘だな)

 義一郎は満足げに温めの茶を啜った。


 それからの義一郎は毎日、茶屋に通うようになった。

 仕事のある日は勤めが終わってから、たとえ短い時間でも茶を飲みに行った。

 初めのうちは「御武家様」と呼んでいたお花も、いつの間にか義一郎のことを名前で呼んでくれるようになった。

 そうなると仲良くなるのは早いもので、義一郎とお花は色々な話をするようになった。

 この茶屋は自分の祖父の店であること。

 今は二人で切り盛りしていること。

 両親は飢饉の流行病で亡くなってしまったこと。

 今は近くの長屋で祖父と二人で暮らしていること。

 どんなに些細な事実も知れば知るほど、お花への親しみが湧いてくる。

 義一郎も、自分の仕事や故郷のことなど沢山話したが、郷元に置いてきている妻子のことは、どうしても話せなかった。

 初めは特に意識していたわけではなかった。

 だが、お花との仲が深まれば深まる程に、それは話しづらくなった。

 やがて、離れている時間をもどかしく思う気持ちが大きくなるにつれ、話す気もなくなった。

 その頃からだろうか、お花の夢を頻繁にみるようになったのは。

 お花が眩しい笑顔で義一郎の名を呼んでいる。

 小走りに近づいてきて義一郎の前で立ち止まると、上目遣いに見上げる。

 その顔が何とも愛らしい。

 初めは、そんな程度だった。

 なのに、夢は段々と程度が増してゆく。

 義一郎の前で立ち止まった花が、胸に飛び込んできた。

 突然のことに驚いて空を彷徨っていた手は、戸惑いながら花の肩を抱く。

 嬉しそうに義一郎の胸に頬を寄せるので、義一郎も力強く花を抱きしめた。

 するとお花は、義一郎の腕の中でそっと顔を上げ、ゆっくり目を閉じた。

 義一郎は、どきりとしながらも、ぷっくりとした赤い唇に自分の唇を重ねた。

 柔らかく温かい感触が唇を伝って全身を巡る。

 何とも幸せな心持ちだった。

 その後は、そっとお花の体を横にして帯を解く。

 袷を開くと、お花は恥じらった顔で義一郎を見詰める。

 その目が誘っているようで、いやに艶っぽい。

 露わになった白い肌に指を滑らせると、色っぽく可愛らしい声が漏れ、肌が淡く色付いた。

 声を聞いてしまったら、もう止められる筈もない。

 義一郎は狂ったようにお花を抱いた。

 お花も義一郎の首に腕を回して、これ以上ない位に可愛らしくがる。

 義一郎は夢中になって、何度も何度も花を抱く。

 そんな夢を、毎晩みているのだ。


 今朝も、同じ夢を見て目が覚めた。

「う……」

 下半身に違和感があった。

(やっちまった)

 どろり、と生温い感覚が右手を汚す。

 枕元の懐紙を下に挿し込み、それを拭った。

 深い溜息を吐いて、義一郎は起き上った。布団の上に胡坐をかいて俯く。

 妻子があるとはいえ、義一郎もまだ二十六だ。

 江戸に来て半年、そういうこともない。

 こう毎晩、あのような夢をみていては、かえって生殺しである。

 しかも、実際にお花に会うと夢のことを思い返して、思わず抱きしめたくなる。

 最近は暴走しそうな欲求を抑えるのに必死だった。

 こんなことなら会わない方が良いと思い、茶屋に行くのをやめた日もあった。

 しかし、夢は毎晩みる。

 夢の中のお花は自分に従順に体を開いてくれる。

 だが、所詮は夢だ。

 何度も夢をみる度に、本物のお花に会って話をしたくなる。

 我慢するのも苦しくて、結局会いに行ってしまう。

 いつか夢の通りにお花に手を出してしまいそうで、そんな自分が恐ろしかった。

 義一郎の気持ちなど露と知らないお花は、いつも通りに声を掛けてくる。

「義一郎さん、どうしたの?」

 今日も茶屋に来ていた義一郎は、自分を呼ぶ声に呆けた顔で振り返った。

 気が付けば、心配そうな顔をしたお花が立っていた。

「なんだか、ぼぉっとしているみたい。熱でもあるの?」

 額に華奢な指が触れる。義一郎の肩が、ぎくりと強張った。

「熱はないみたい。何か、あったの?」

 近い距離で顔を覗き込むお花に、義一郎は思わず仰け反った。

「いんや、なんでもねぇ」

 本物のお花を見る度に夢の中の顔を思い出してしまう。

 義一郎に抱かれて恍惚な表情をしている、あの顔を。

 思わず顔を背ける義一郎に、お花は不思議そうな顔をした。

「義一郎さん?」

 隣に腰掛けると、お花はそっと義一郎の手に触れた。

「何か悩み事があるのなら、聞くわよ」

 どきり、と心ノ臓が大きく跳ねた。

 徐々に、とくとくと早くて静かな鼓動に変わる。

 もう、お花の声は耳に入らなかった。

 ただお花の触れる手が、どんどん熱くなる。

 それは義一郎の理性を飛ばすには充分すぎる熱だった。

 花の手を握り返し、その腕を引く。

 前屈みになったお花の体を、思いのままに抱きしめた。

 途端にお花の体が強張り、貧窮した手が胸を必死に押し返した。

「やっ……!」

 耳元で小さな悲鳴がして、はっと我に返る。

「や、めて」

 お花の声が震えている。

 夢の中とは違い、彼女は怯えていた。

 義一郎は、咄嗟にお花の体を引き離した。

 改めて良く見ると、お花は体を小刻みに震わせて、目に薄らと涙を浮かべている。

 心の底から、じわりじわりと後悔の念が湧いてきた。

 耐えられなくなり、義一郎はお花の体を突き飛ばすと、脱兎の如くその場を逃げ出した。

 走って走って、とにかく走った。

 お花の目は、信じられないものを見たような目だった。

 今までの無垢な笑顔は微塵もない、恐怖だけを帯びた瞳。

 夢の中で微笑み受け入れてくれた顔は、現では義一郎を完全に拒絶していた。

 わかっていたことだ。

 どんなに仲を深めたとしても、最近見知った男に突然抱きすくめられたら怯えもする。

 当然のことだと思うのに、お花が咄嗟に放った言葉が義一郎の胸を締め付けた。

『やめて』

 少しくらいは、喜んでくれるかもしれない。

 夢の通りに受け入れてくれるかもしれないと思う気持ちが、心のどこかにあった。

 お花も自分と同じように自分を好いてくれているかもしれないと。

 しかし、現実は違った。

 お花に存在を否定されたような気さえしてくる。

 受け入れてもらえなかった状況が、只々辛かった。


 どれくらい走っただろうか。

 いつの間にか、陽は西に傾いている。

 走り疲れて足を緩め辺りを見回すと、知らない道に入っていた。

 勤番でなくとも武士は外泊が許されていない。

 夕刻までには帰らないと、藩に迷惑をかける。

 義一郎は仕方なく裏店に入り、誰かに道を聞くことにした。

 溝板長屋をとぼとぼと歩いていると、目の前に一風変わった看板が現れた。

「夢、買……」

 立ち止まって眺めていると、中に人の気配を感じた。

 気が付いた時には、長屋の戸を叩いていた。

「はーい、どうぞ」

 声がしたので戸を開く。部屋には、いつかの童と女がいた。

「おや、あんたは」

 義一郎の姿を見て、女も気が付いたらしい。

 童が「どうぞ」と声を掛ける。

 義一郎は、勧められるままに腰を下ろした。

「その節は、ありがとうございました」

 童が律儀に頭を下げるので、つられて義一郎も小さく会釈を返した。

「こちらは凜さん。おいらは優太」

 にこにこと自己紹介する優太と愛想のない顔の凜を交互に見やる。

 凜は長い煙管を弄びながら煙を燻らせている。

 呆けた顔で眺めていると、切れ長の目がじろりと義一郎に向けられた。

「で、用事はなんだぃ。医者か、それとも夢買か」

 当然のように問われて、義一郎は困った。

 別段、これと言った用事があって訪ねたわけではない。

 吸い寄せられるように、いつの間にか戸を叩いていたのだ。

 何より、夢買の意味がわからない。

 何も言わない義一郎に、優太が説明を始めた。

「凜さんは、こう見えて医者なんです。それとは別に夢買屋ってのもやっていて……」

 詰まる所、夢買屋は夜みる夢を買い取る商いだという。

 まるで御伽草紙か戯作のような話だ。

 狐に摘ままれたような顔で話を聞いていると、それまで黙っていた凜が口を開いた。

「あんたは夢を売りたいのかぃ?」

 義一郎は戸惑った。

 毎夜みる花の夢は、義一郎にとって悪いものではない。

 むしろ満たされない気持ちを慰めてくれる唯一の手段だ。

 しかし、夢のせいで本物のお花を無理やり抱きすくめるような振舞いをした。

 夢さえみなければ、あんな行為には至らなかったかもしれない。

 夢の中のお花は嬉しそうに自分に抱かれている。

 だが、本物のお花は自分を受け入れてはくれないだろう。

 それは、あの目を見れば明らかだ。

 だったらせめて、以前と同じように仲良く話せる間柄に戻りたい。

(今のまま夢をみていたら、また同じことを、すっかもしれねぇ)

 正直、自分の欲を抑える自信がない。

 夢さえみなければ、きっとあんな振舞いはしない。

 今まで通りにお花と、幸せな時を過ごすことができる。

 夢の中のお花か、本物のお花か。

 天秤にかけて悩んだ。

 今までのことを逡巡し、じっと考える。

(儂は、本物のお花が欲しいんだ)

 義一郎の中で、答えは決まった。

「儂の、夢を……。お花の夢を、買い取ってくれねぇべか」

 かん、と煙管の灰を煙草盆に落として、凜が煙管を放った。

「先に言っとくが、一度買い取った夢は戻せない。それでも後悔はしないかぃ」

 義一郎は生唾を飲み込み、こくりと頷いた。

「しねぇ。儂は、本物のお花が好きなんだ」

 しばらく押し黙った凜が、義一郎に目を向ける。

「わかった。あんたの夢を、買いとろう」

 義一郎の前に膝立ちになり額に手をかざすと、くるくると回す。

 額の真ん中から薄紅色の煙が、もくもくと浮かび上がった。

 その煙をついと摘まんで、思い切り引き抜いた。

 するりと出てきた煙が、ふわふわと部屋の中を浮遊する。

「これが、儂の夢け」

 凜が煙を、ぐいぐいと小さく纏める。

 掌に乗せた小さな塊を、迷いなく口の中に放り込んだ。

 ごくり、と一気に飲み込む。

「ご馳走さん」

 義一郎を振り返りながら腰を下ろす。

 あんぐりと口を開けて、義一郎はその光景を眺めていた。

「これで、あんたがあの夢をみることは、もう無いよ」

 義一郎は、少しだけ惜しいことをしたような気持ちになった。

「もう、みねぇのか」

 しかしこれも、本物のお花と元の関係を取り戻すためだ。

 また以前のようにお花と話ができる。

 そう考えたら、憂いた気持ちが、すっと消えた。

「……」

 義一郎の顔を無言で眺めていた凜が、小判を五枚、放り投げた。

「夢の代金だ。持っていきな」

 凜の傲慢な態度に、小さな憤怒が湧く。

 だが、目の前で黄金に輝く小判を見たら、その気持ちはすぐに吹き飛んだ。

 義一郎は、目を剥いた。

「儂の夢は、こんなにすんのけ」

 小判を手にとって、まじまじと眺める。

 さっきまで頭にあったお花のことなどすっかり忘れて、目の前の小判に見入っていた。

 ごくりと唾を飲んで小判を握りしめる。

 それを懐に仕舞い込み何度も礼を述べると、義一郎は夢買屋を後にした。


「ちょっと、多すぎたんじゃないですか」

 優太が不満げに凜を見やる。

 凜は、小窓から外を眺めていた。

 秋の突風が悪戯に落ち葉を舞い上げて踊るように吹き流れる。

 からからと乾いた音を残して、落ち葉は夕の薄暗闇に吸い込まれ消えてしまった。

「ま、束の間の餞別って、ところかね」

 凜の言葉に、優太は眉を下げた。

 風はいよいよ荒くなり、まるで地上の何もかもを吹き上げてしまうようだった。


 次の日、義一郎は早速、あの茶屋に向かった。

 昨晩、お花の夢はみなかった。

 起きた時、物足りない気はあった。

 だが、本物のお花に会うためだと思えば諦めがついた。

 いつもより早くに茶屋に着いた義一郎が中を覗く。

 お花の姿が見当たらず、店の中をきょろきょろと探す。

 義一郎の前に、お花の祖父がおずおずと顔を出した。

「お花は、いねぇのか」

 祖父は恐縮して肩身を竦め呟いた。

「お花は今、遣いに出ております」

「そうが。んならここで、待たせてもらぁべ」

 長椅子に腰掛ける義一郎の後ろから、祖父が言い辛そうに小さく声を掛けた。

「あの、真壁様。申し訳ありませんが、お花にはもう、会わないでもらえないでしょうか」

 突然の思いもよらぬ言葉に、義一郎は勢いよく振り返った。

「それは、どういう意味だ!」

 義一郎の勢いに押されて仰け反りながらも、祖父は負けじと言葉を続けた。

「昨日あんなことがあって、お花も怯えております。もうここには来ないで頂きたいのです」

 祖父の嘆願が、義一郎の怒りをじわじわと膨らませた。

「それは、お花が言ってんのが、お花の気持ちなのが!」

 顔を真っ赤にして早口で問う怒声に、祖父は肩を震わせる。

 義一郎は堪らなくなり、その場を駆けだした。

「ま、真壁様!」

 制止の声を無視して、義一郎は富岡八幡宮の境内に走った。


 お花がどこに使いに出たのかなど、義一郎は知らない。

 しかしこういう時、人というのは勘が働くものだ。

 いや、義一郎の野生じみた勘が探り当てた、という方が正しいのかもしれない。

 八幡宮の境内の中で、お花の後ろ姿を見つけた。

「お花!」

 大声で呼びかけて、走り寄る。

 お花が驚いて振り返る。

 その顔が、みるみる恐怖に染まって青ざめた。

 義一郎は逃げようとするお花の腕を両手で強く掴むと、間近に迫った。

「儂に会いだぐないと言っだのは本当け? なんで、会いだぐねぇんだ!」

 興奮した義一郎の力は強く、お花の白い腕にめり込む。

「いや、痛い。離してっ」

 必死に抵抗しながら同じ言葉を繰り返すばかりで、お花は義一郎の目を見ようともしない。

 それが歯痒く腹立たしい。

(なして、こげに嫌がんだ。夢を売ったのに)

 幸福な夢を手放してまで選んだ現のお花が、義一郎を拒絶する。

 そのさまに、憤怒が増した。

 義一郎は、お花を無理やり社の裏手の竹林に引きずり込んだ。

「いや、いや」

 泣きながら腕を振り払おうとするが、義一郎の手がそれを許さない。

「お花、儂を嫌いになっだんけ。なんで嫌がんだ」

 義一郎は、お花の両肩を掴んで地面に押し倒した。

「いや、やだ」

 手足をばたつかせ、何とか逃げようとするお花の体を無理やり抑え込む。

「儂はこんなに好いているのに、なんで避けんだ!」

 目の前で大きな声を出すと、お花は怯えて震え出した。

「こっちを見ろ!」

 顎を掴んで無理やりに目を合わせる。

 お花は涙を溜めた目で義一郎を見上げ、囁いた。

「私、そんなつもりじゃ……」

 血の気が、さっと引いた。

 夢を捨てれば、また前のように楽しく話ができると思った。

 元の関係に戻れると思っていたのに。

「儂のことは好いておらんと、そういうごとけ」

 お花が怯えながら震える顎で、こくりと頷く。

 焦燥と、言い得ない怒りが交差する。

 義一郎はお花に尚も迫った。

「だったらせめて前みてぇに、一緒に話しすっだげでもいいがら」

 お花の顎を掴んだ手に力が入った。

「もう、嫌です。怖い。お願い、離して」

 強く掴まれた顎のせいで顔を背けられないお花が、ぎゅっと目を瞑る。

 涙がつぅと頬を流れ、食い込んだ義一郎の太い指に溜まった。

 義一郎の中で、何かが壊れた。

 そこからは無意識に手が動いていた。

 嫌がるお花の帯を毟るように解くと、乱暴に着物を剥ぎとる。

「や、いやああ」

 悲鳴を上げるお花の口を接吻で無理やり塞ぐ。

 そのまま自分も着物を手繰ると、お花の体の上に強引に覆い被さった。

 夢の中とは全く違う。

 お花の全身は強張り恐怖に震えている。

 心の底から拒絶されているのは肌で感じ取れた。

 それでも義一郎は、お花を離さなかった。

 含むように重ねたの唇の中で、花が悲鳴を上げているのを直に聞いた。

 やがて事が済んだ後。

 花が、荒らされた体のまま、ぐったりと肢体を投げ出していた。

 涙と唾液と汗で、ぐちゃぐちゃの顔で、荒い呼吸を整えもせず動かない。

「お花……」

 顔を寄せると、花は憎悪に顔を歪ませて義一郎を睨んだ。

 冷えた目のあまりの生々しさに、義一郎はぞっとした。

 同時に、腹の奥から、じわりと殺意が湧いた。

『浅葱裏』

 その目が、今まで義一郎を馬鹿にしてきた人々と同じ。

 否、それ以上に蔑んだ色、だったからだ。

「や、めろ」

 義一郎は、そろりと両手を伸ばした。

「そげな目で、儂を見んな」

 伸ばした手が、お花の細い首に掛かる。

「ひっ……」

 小さく悲鳴を上げたお花が、必死にもがいて逃げようとする。

 お花が動けば動くほど、義一郎の両手は捕えた首に深くめり込んだ。

「おめぇも、同じだ。儂を馬鹿にしてきた奴らと、同じだった」

 義一郎は泣きながらお花の首を絞め続けた。

 お花の苦しそうな呻き声も表情も、義一郎には届かない。

 只、お花の憎悪と卑下に満ちた目が気に食わなかった。

 今まで自分を馬鹿にしてきた連中とは比べ物にならない程に。

 義一郎は、ひたすらに絞める手に力を籠める。

 白い肌が赤く染まり、鬱血した肌が紫色に変わる。

 義一郎の腕に爪を立てていたお花の手が、土の上に投げ出された。

 やがて、お花の全身はぐったりとして、ぴくりとも動かなくなった。

 はっ、と我に返って手の力を緩める。

 お花の体が、ばさりと地面に落ちた。

 虚ろに半開きになった目が、義一郎を見ている。

 その目はもう、何も映していない。

 けれどそれは最期に義一郎を蔑んだ冷えた視線のままであった。

「お花……お花……」

 名を呼んで頬に手を添えるも、お花は返事をしない。

「儂は……なんて恐ろしい、ことを……」

 震える両手を見詰めて、事の重大さに、気が付いた。

「お花……」

 小さく名を呼びながら、義一郎はお花の亡骸の前に蹲って咽び泣いた。


 それからのことは、よく覚えていない。

 あの後、すぐにお花の祖父と岡っ引きが二人の元に駆け付けた。

 義一郎は番所に連行された。

 連れて行かれる直前、もう動かないお花の傍で祖父が泣き崩れているのを見た。

 それでも義一郎の心には、なんの感情も湧いてはこなかった。

 義一郎の中に残っているのは、お花の、あの目の色だけだ。

(なんで、あんな目で見んだ。お花、なんでだ)

 ぼんやりとそう考えながら、義一郎は牢に入った。

 殺人は死罪である。

 武士ならこの場合、斬首が妥当である。

 だが、義一郎に下った罪刑は違った。

 勤番の下級武士が江戸で殺しを犯した一件は秘密裏に藩主の元にも届けられた。

 古河藩主・土井利里の動きは早かった。

 奉行所に手を回し件の全貌を確認すると、まず殺しの事実を隠蔽した。

 あくまで強姦罪として、真壁義一郎の身柄を古河藩に送るよう指示したのである。

 しかし奉行所は、江戸で起きた殺しとして義一郎を小伝馬町の牢に留め置いた。

 奉行所は南北とも土井利里と全面対決の姿勢を示したのである。

 ところが土井利里も一歩も引かない。

 老中・田沼意次に掛け合って、何とか義一郎を古河に送るよう嘆願した。

 困ったのは田沼である。

 田沼は両方の見解を聞き入れ、苦渋の決断で真壁義一郎に遠島の罪刑を下した。

 奉行所はこの決議を渋々と受け入れた。

 田沼の下した決定であるから、土井利里も異論を唱えるわけにはいかない。

 京都所司代までを務め上げ、老中格を目前としている土井利里からすれば、このような些末な事で今後の人事に悪影響があっては困る。

 田沼の機嫌を損ねるわけにはいかない。

 その為、土井がこれ以上ごねることもなく、渋々ながら双方納得した形でこの件は幕引きとなったわけである。

 そのような上層部のやり取りを全く知らずに、真壁義一郎は遠島の日を迎えた。

 永代橋の袂から出る遠島の船は、恩赦があっても帰れない罪人を乗せる。

 その中に義一郎の姿があった。

 空には厚い雲がかかり、冷たい北風が遠くの木々の葉を舞い上がらせた。

 秋がすっかり深まっていることを、義一郎は今になって漸く身に染みていた。

 岸には遠島になる罪人の家族が集まり、涙を流している。

 義一郎には、見送りの身内の姿はない。

(古河に残してきた儂の家族は、どうなるんだべ)

 別れを惜しむ人々を見て、ぼんやりとそんなことを考えた。

 次に浮かんできたのは、お花の笑顔だった。

(あれは、幻だったか)

 今の自分の身に起こっている事態が現のものとは思えず、どこか夢のように感じる。

 お花の笑顔も、最期に見た蔑んだ目も、死んだのも、総てが夢のようだ。

(夢……)

 夢をみなくなれば、総てが巧くいくと思った。

(これなら夢をみていた方が、ましだったかもしれねぇ)

 ふと自嘲するような笑いが零れた。

 同時に義一郎の目から、つうと涙が流れ、頬を伝った。

「なして、こげなことにっ……」

 溢れる涙を止めることができずに、義一郎は両手で顔を覆った。

 義一郎の憂いに構わず、船は伊豆大島に向けて定刻通りに出港した。

 沖へ向かい小さくなってゆく船を、凜と優太は橋の上から見送っていた。

「夢の中で生きていた方が、幸せだったんでしょうか」

 優太が、ぼそりと呟く。

「さぁね」

 吹き荒ぶ風に流れる髪を押さえて、凜は水平線に消える船を眺める。

「己で気が付かなけりゃ、どうにもならんさ。今は精々残りの生を、よっくと考えて生きること、くらいだろうねぇ」

 船が見えなくなっても、凜と優太は川の先を眺めていた。

 突然、吹いた木枯らしが二人の間を吹き抜ける。

 突風はまるで、見えなくなった船を追うようであった。

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