07 天性無欲正直の人

 尼子経久あまごつねひさは、一代の梟雄である。

 その覇道はまっすぐな一本道ではなく、時に曲がり角もあり、一度は国を失うという憂き目にあったとも言われる。

 ……だからこそ、、経久は貪欲に、飽くなき国盗りに身を投じている。


 天性無欲。


 そう言われるほど、物欲を捨てきっている経久であったが、国盗りに対するは誰よりも強く、それ以外のを彼から抜き去っていた……。



「……ご婚礼、ならびに、ご帰国、おめでとうござる」


 と経久は言い放ち、いかにも当たり前といった感じですたすたと歩み寄り、安芸あき武田家・武田元繁の愛馬のくつわを取った。

 そのあまりの自然さに、誰もが度肝を抜かれた。

 元繁もまた自失の渦中にいたが、さすがに数瞬で立ち戻り、手綱を引いて、経久から離れようとした。

 が、経久は笑った。


「はは、すいが暴れておられる」


 とは、史上、本物の項羽の愛馬の名である。

 経久から離れようと、元繁は手綱を引いているのだが、馬はぴくりともしない。

 経久の腕力というか迫力に、馬がなびいているのだ。


「……とりあえずは入城されては如何いかがかな?」


 経久が半ば振り返りながら、その眼光で元繁を射抜く。


「……く」


 大内義興が傑物だとしたら、こいつは怪物だ。

 元繁は心中の動揺を抑え、ここで狼狽うろたえては、安芸武田家の名折れとばかりに、むしろ堂々と経久の導きに合わせて、馬を進めた。



 尼子経久は、何を狙ってきたかは察することができない。しかし、少なくとも、甲斐甲斐かいがいしく武田元繁の馬を引き、元繁が下馬すると、その手を取らんばかりに城中に招じ入れ、桶に水を汲んできて、元繁の足を洗った。

 「天性無欲正直の人」として知られる経久の、真骨頂である。


「…………」


 元繁としては忌々いまいましいかぎりだが、この目の前で自分の足を洗う男の恐ろしさの前に、城の者たちがしてしまったのも無理はないと思った。

 決して、経久は威張ったり脅したり、ましてや殺気を向けたりはしない。


 だが、それが、逆に恐ろしいのだ。


 この、家来に対しても、物欲しげな場合は、そのをあっさりれてやる男が。

 城の松の木を良いものと持ち上げた家来に対し、その松の木を差し上げようと切り倒そうとする男だ。

 こんなにも人のために尽くす男が、その国盗りという野望のためにどれだけ尽くしているか。

 それを想像すると、恐ろしい。


「さ、足を洗えましたぞ、元繁どの」


 綺麗になった足を見て、心底嬉しそうに微笑む経久。

 この正直なところが、また怖い。

 にもかくにも、ここまでしてもらっている以上、城主としても無下に追い返したり、ましてや切り捨てるわけにもいかないので、礼を言って、とりあえずは城主の間へと向かう。

 二人で。


「……こちらへ」


 足まで洗ってもらったのだ。

 城主である自らが案内せざるを得ない。

 元繁と経久は、ごく自然に城主の間に入り、そしてそのまま二人きりとなった。


「……して?」


 元繁としては、用件を聞くだけ聞いて、とりあえずは経久に帰ってもらおうという腹積もりだった。

 仮にも大内義興の命で安芸へ戻ってきたその日のうちに、敵の首魁である経久と膝を突き合わせているこの状況は、いかにもまずい。

 義興の猜疑心を刺激し、せっかくの安芸帰国を取り消しにされ、また上洛を余儀なくされるかもしれない。


「…………」


 経久は、そんな元繁の胸中を読み取っているのかいないのか、にんまりとした笑顔を浮かべていた。

 それが元繁のかんさわった。


「聞いておるッ! なぜ、答えぬ!」


「……さようでございますな。失礼をいたした」


 少しもそのようなことを思っていないような笑顔を浮かべ、経久は詫びる。

 しかし次の瞬間、それは凄絶な笑みに変わった。


「尼子を討伐されるとのよしかと思いましての」


 自分と敵対するか、と聞く経久。

 経久の二つ名、雲州の狼。

 その牙を見たような気がした。


「……ま、まことだッ」


 ここで退くわけにはいかない。

 自分にも、安芸武田家の当主として、仮にも項羽と称せられる者として、意地がある。

 経久は元繁を睨んだ。


「……ほう、それは残念至極」


「ふん、だが、今すぐとは言わぬ。いろいろと尽くしてくれた礼は言う……が、ねッ!」


 こいつと一緒にいると危険だ。

 総毛立ったこの身が教えてくれる。

 こいつと一緒にいればいるだけ、深淵に取り込まれる。


 ……元繁のその感覚は正しかった。

 取り込まれているということをのぞいては。


「それは仕方ないのう……可愛いの者にさようなことを言われては、の」


「だ……誰が一族だッ! 血迷うたか!」


 おれは大内家の身内だぞ、と強がる元繁を、経久はわらう。


「義興の、しかも養女ごときをめとったところで……身内?」


 大内義興を呼び捨てにした挙句あげく呼ばわりである。


「そうではないか元繁どの。いかにもという感じの、よその家の、しかも分家でもどこでもない、縁もゆかりもない公卿の娘。そんな養女ごときを妻としたところで、義興が、おぬしを身内と思うてくれるかの?」


 そんなことより、と、いつの間にか経久は、元繁の横に回り、その手を取る。


「な……何をッ」


「この手に取りたくないのか?」


「だから……何をッ」


「安芸を、じゃ」


「そ……それは……大内家の者として……」


「自らの手で取りたくはないのかと聞いておる!」


 これまでの柔和な態度を崩して、一転、怒鳴りつける経久。

 手を握られたままの元繁は離れることができず、喘ぐように息を漏らす。


「おれの……手……で?」


「そうじゃ……今のように、義興の走狗そうくではない、使い走りではない、安芸武田……名門、安芸武田家の当主として、守護代として……いや何より……として」


 そこで経久は言葉を切った。表情を見ると、能面のよう。これが、この男の本性か。本性の顔か。

 能面がしゃべる。


の手で……盗ろうとは思わないのか、安芸を」


 今なら盗れるぞ、やすく……と能面はしゃべり終えて、沈黙する。


「い、今なら……」


「ああそうだ、大内は、おぬしに丸投げしたから、他に兵はない……好機だ」


「好機……」


 元繁の脳裏に、安芸の勢力地図が浮かぶ。

 安芸武田家の軍、そして麾下の国人に声をかければ、五千は集まろう。

 そして大内家は、京に兵力を集中しているため、この五千の軍に対抗することはできない。

 そうなると、あとは安芸国人一揆ぐらいか。


「しかし……」


「ふむ……」


 ここらで決め手を打つか、と経久は表情を戻す。


「元繁どの、元繁どの」


「な、なんだ」


「さきほどのわしの言葉、覚えておるか」


「言葉……?」


「そう……、ということだ」


「一族……?」


「わが弟の久幸に娘がいる」


「そ、それが何か」


「もろうてくれ……正室に」


「正室!?」


 こいつは何を言っているんだ。

 わが正室は、大内義興の養女で、公卿・飛鳥井雅俊のむすめだ。

 何を今さら……。


「言っておくが、尼子の、他ならぬわが弟の娘だ。尼子は、そなたを切り捨てはしない」


 人質と思うても良いぞ、と経久はつけ加えた。


「ぐ…………」


 たしかに、大内義興にとって、養女である飛鳥井家の女は、人質の価値が薄い。

 しかるに、尼子経久にとって、弟・尼子久幸は腹心である。尼子家にとって、かなめと言っても良い。その娘を、れるというのだ。


「飛鳥井の娘など、離縁してしまえば良いのじゃ」


「…………」


 そうだな。

 元繁はひとりごちる。

 元々、安芸武田家は名門であり、大内義興には、いくさに敗れて、従っているに過ぎない。


「今こそ……安芸をわが手に。そして今度こそ、大内になどおくれを取らぬよう、わが武田を精強なるものに」


 元繁は立ち上がる。

 同じく立ち上がった経久の方を向く。


「尼子どの」


「なんじゃ」


「おかげで目が覚めた。礼を申す」


「なんの、なんの」


「では早速……妻女を……ではない、妻女だった女を、追い出して参る」


 元々、白粉おしろいだらけの京女など、好みではなかったわ、と哄笑して、元繁は城門へ向かった。

 しばらくすると女の悲鳴が聞こえた。「やめて」とか「助けて」という声だ。

 そしてまたしばらくすると、元繁が戻ってきた。


「これでよし……尼子どの」


「うむ」


「姪御どのは、つまらない女ではあるまいな? おれは元々、強い女が好きなのだ……飽きさせない女だといいが」


 元繁の中の何かが変わった。

 野性味を増した元繁の風貌を見ながら、経久は、わが姪に伝えよう、と言った。

 そうか、と元繁は鷹揚にうなずき、「では家臣どもを集める」と告げた。


「安芸をわが手に……ふっふ……尼子どののおかげで、面白くなってきた……わが人生、大内家の走狗に終わらすには惜しいと思うておったことに、今、気づいたわ。ふっふ……くふふ……はっはっはっは……」


 武田元繁の覇道が始まる。

 それは確かに、いにしえ唐土もろこしの項羽のように苛烈なものであり、安芸を戦乱のちまたに叩き込むことになった。

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