第1話 好きだから

 最寄り駅から大通り沿いに徒歩5分。間口がやや狭い煉瓦仕立てのビルのドアを押せば、カランコロンと入店の知らせが軽やかに響く。

 微かに流れるゆったりとしたクラシック曲の邪魔をしないように、カウンターに佇む笑顔のスタッフと挨拶を交わすのが常だが。

「ハッピーバレンタイン!」

 思わぬワードに面食らい、

「ハ、ハッピーバレンタイン……」

 戸惑いの顔で乗客待ちのエレベーターへと滑り込む。

 ウイィィン、と乗り込んだ小箱が上昇するにつれて改めて自分の置かれた状況に気付かされ、鼓動の速度も上がっていく。

 落ち着こう、鎮めよう。


 ポーン、という到着音を耳奥に届かせて扉が開き、十人ほどが待機可能な広間のソファに腰掛けてその時を待つ。

「……れでは、次回もお待ちしてますね」

「ありがとうございました」

 男性ふたりが挨拶を交わすのを見届けて、決戦場に向かうが如く、すくっと立ち上がる。

「こんにちは、今日もよろしくお願いします」

 緊張を抑えながらの挨拶に先刻の男性の一人が気付き、にこやかな笑顔を見せながら応対する。

「はい、こんにちは。奥にどうぞ」

 先を行くその背中をいつも以上に見つめて防音の利いた一室へ歩みを進めると、ドアノブに手を掛けたその瞬間に彼が突然振り返り眉を寄せて、一言。

「……ハッピー、バレンタイン」

 事務局より、毎年配布の義理チョコの代わりに全受講者へ声掛けするようにと通達があったようで、照れたのか視線を泳がせながらドアをギイィッと力強く開ける。

 そういう事例はお手のものなイメージだが、意外な一面もあるようだ。


 現在、厳冬真っ只中の二月。

 この時期の我が国の女性は一斉にチョコレート色に染められる。

 他聞に漏れず私もその一人なわけで、あろうことかレッスン中ながら渡す機会を窺ってしまい、

「集中しましょう」

 と注意を受ける始末。


 今居るのは、技術向上の為に始めた音楽教室。気付けば一年半が経った。マンツーマンで行われるので私語も支障がない程度に自由。上達ポイントを聞けば直ぐに答えが返るのが強みだ。

 講師は、つり眉タレ目をふわっと優し気に崩して眩しい笑顔を湛える、所謂イケメン。だからといって明るさを押しつけるわけではなく、その見た目に反して心の機微に鋭いのか、話下手な私が気負う必要のない程に気遣いが万全。物腰も柔らかなので自然体でいられる安心感に包まれるわけ、だが。

 最近は打ち解け過ぎて砕けたか、無駄に情けないところを見せるようになり、当然のようにそのギャップに惹かれ、先刻の散漫なレッスンとなったわけである。


 さて、ひと通りの指導と確認を終えてふと時計を見れば、長針が終了時間を幾らか過ぎた場所を指していた。

「背筋も伸びていいですね、その調子でしっかり指を動かす練習を忘れずに。では、今日はここまで」

 レッスンも終わり片付けが始まる。

 いよいよ行動に移さねばならない。

 私の後に受講者はいないので時間に余裕はある。

 向けられる雑談に曖昧な相槌を打ちながらバッグの中に手を伸ばし、ふぅ、と深呼吸をひとつしたところで背後から声が掛かる。

「あの、実はお願いがありまして。このチョコ、一緒に食べてくれませんか?」

「………はい?」


 驚きです。

 レッスン室にひっそりと置かれたであろう、どなたかの想いの詰まるチョコレート達を食べてくれと懇願する人がいるのです。


「口溶け良く甘いものは苦手なんですが……」

 確かにそれは聞きました。

 カカオ80%以上なら大丈夫だとも。

 だから数店舗をハシゴして該当する品をやっと見つけたときは思わずガッツポーズしたものです。

 まあ、事務局から『預かるなかれ』『渡すことなかれ』とお達しが出ている事も承知の上ですが。


 それにしても―――食べてくれ、か。

 よりにもよってこの私に言いますか、それ。

 こっそり用意した勇気の収め処を先に教えてくださいよ。

 そんな想いも知らず、センスの良い落ち着いた色味の包装を丁寧にほどいては、何故か品々の紹介が饒舌に続く。

「この右端はリキュール入りのようですから手は出さないように」

「しょっぱい系のクッキーも有りますね、是非」

「情けない限りですが、一人で食べるには限度がありまして……」

 知りませんよ、そんな事。

 それでも、私は溜息をきながら言ってしまうのだ。


「好きだからいいですよ」

 と。

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