交渉担当

 警察官の勤務は基本的に当番と当直、そして当直明けと全休による交替制によって成り立っている。刑事の場合も日勤をこなしつつ時折り当直からの非番と全休があり、バランス良く回っているのが通常だ。そんな中、当直明けで帰宅し、ようやく寝付けようとしていた人間の携帯が震え始めた。

 一般企業に勤める者なら「寝ていた」事にして無視したりするかも知れないが、残念ながら一度でも【服務の宣誓】を受け入れた人間にとって、それは許されなかった。

 しかし労働者の権利を考えるに、労務を与える側が自身で制定した休みを取り消すような行為は何かしらの法律に抵触するのではないか等と思いつつ、巨大な岩の如く動く事に対する意思を放棄した右手を無理やり浮かび上がらせて携帯を掴み、液晶のボタンを通話モードへスライドさせた。

「もしまし」

『明け番の所を済まない、緊急事態が発生した。テレビは点けているか?』

「いえ。音がこもっているように聴こえると思われですが布団の中に居りますです」

 自分が本当は起きておらず、寝起きである事を装うため変な言葉を混ぜ込んで話して見るが、そんなのは一切通用しなかった。

『では可能な限り速やかに帝京地下鉄の本社へ向かってくれ。現在、中野方面に向けて走行中の電車にてトレインジャックが発生した。犯人の総数と詳細な目的は不明。現地には既に1係からも数名が急行中だ。到着次第、連携を取りつつ被害者側との情報交換、場合によってはそのまま交渉を始めてもらって構わない。何か質問はあるか』

 意識レベルの低い状態で矢継ぎ早に喋られても、情報は右耳から左耳へ抜けていくだけだ。こういう時のために録音機能を持った機種を使う者も居るだろうが、そうすると今度は状況の認識を嫌でも掌握させられる事になるので、やんわりと拒んでいた。

「取りあえず問題ないと思われます。何か気になればその都度に連絡します」

『分かった、連絡には常に出られるようにしておこう。頼んだぞ』

 通話を終了させ、今からするべき事を頭の中でシミュレートする。まず着替えなくてはならないが、体を包んでいる布団と毛布が「捨てないで」と縋り付く恋人のように重く圧し掛かり、そこから生まれる眠りへの誘いを振り切るのが一苦労だった。

 それでも取りあえず起き上がり、洗面所まで行き冷水に浸したタオルで顔を拭った。寝不足と覚醒し切ってない自分の顔を鏡で見つつ、冷蔵庫を開けて牛乳を2度3度と空っぽの胃に流し込む。

「…………どっか遠くに行きてぇなぁ」

 この現代社会、どんな仕事をしていても誰だってそう思うだろう。それは警視庁と言う日本屈指の警察組織の中に身を置く自分にとっても例外ではない。

「髭……まぁいいや」

 明け番で中途半端に伸びた髭はもうこのままでいい。下手に剃ると肌が酷い事になる。それ以外の体裁を繕い終わると、薄暗い部屋を出て施錠し、最寄り駅へ向かって歩き始めた。

 日中の昼間は人通りも少なく、何かに邪魔される事もないまま10分足らずで駅へと辿り着く。何か胃に入れたくなったので、立ち食い蕎麦へ寄る事にした。

 店内へ入ると同時に券売機へ千円を投入し、かけそばと生卵、焼き海苔にいなり寿司のボタンを押して食券を掴み、カウンターに差し出した。白髪が綺麗なおばちゃんが券を手に取って訊ねて来る。

「お蕎麦は温かいので宜しいですか」

「はい」

「少々お待ち下さい」

 コップに水を注ぎ、品物が来るまでの間に店の天上付近にあるテレビを見やる。東西線中野方面に向けて走行中の電車でトレインジャックが発生し、乗客約50名を人質に取って走り続けていると報じられていた。犯人の総数と目的は自分が得ている情報の通りまだ不明で、帝京地下鉄からも正式な発表は成されていないとの事だ。

「……あんなのと交渉なんて出来んのかね」

 そう、こう見えて彼は警視庁捜査一課の特殊班捜査係に身を置く刑事なのだ。担当は被害者対策班で、主に犯人との交渉に携わっている。昔から、大して経験もないのに人生相談をされる事が多く、こっちの意のままに相手を動かす事に自然と慣れていった経緯から、これを仕事に出来ないかと模索した結果、こんな仕事に就く羽目になったのだった。

 正直、楽しくはない。こんな事を言うと怒られるかも知れないが、自分に被害者や加害者の人生をどうこうする資格なんて無いと考えていた。ただ、相手をどうにかして丸め込む事が好きだっただけで、そこに余計な責任を追いたくはなかったのだ。

「139番の方」

 食券の番号を呼ばれた。カウンターへ食券を差し出してトレイを受け取り、誰も居ない場所へ取り付く。

 窓から差し込む日差しが心地いいが、ゆっくりしている訳にもいかない。素早く胃へ収めて店を後にし、気が進まないのを感じながら電車に乗って目的地である帝京地下鉄本社の最寄り駅を目指した。


 同時刻、既に帝京地下鉄本社と総合指揮所に到着した捜査員たちは、相互に情報を共有する用意と犯人グループとの交渉を行う準備を進めていた。本社には小松こまつ警部率いる特殊犯捜査係と強行犯の混成チーム、指揮所は須貝すがい警部補の調整チームが取り仕切っている。

 本社最上階の会議室に踏み込んだ混成チームは早速行動を開始し、まずは太田社長率いる重役たちへの事情聴取を始めた。

「警視庁捜査第一課、第一特殊犯捜査係の小松警部と申します。今回は非常に稀なケースでの事件ではありますが、まず皆様に1人ずつ事情聴取を行わせて頂きます。勿論、事件の早期解決を目指すため、交渉や捜査の方は並行して行いますのでご安心下さい」

 事情聴取は隣の社長室で始まった。当然だが、経営陣の彼らに思い当たる節がある筈もなく、当たり障りない言葉のやり取りで終わってしまう。

 しかしこれは警察側にとって想定していた結果であった。経営陣クラスの人間になればなるほど、そう言った遺恨や確執を意識する事からは遠ざかる傾向にある。寧ろ可能性が高いのは、ここより下の部長や課長たちの方だ。実質的に社外の人間と一番やり取りが多い彼らの方が、人間的トラブルを抱えている事がある。そこに付け入る隙があれば、犯人側は本人に恨みが無かろうと社長や重役を誘拐する手段に出るのだ。

「まぁここまでは想定内ですね。あとは何所から糸口を見つけられるか、ですか」

 小松の右腕こと、立花たちばな警部補が聴取の終わった人物のリストを見ながら呟く。脇にはこれから聴取を行う事になるであろう社員の名前が載っている別のリストが挟まれていた。

「しかしな、この手の事件では全く違う所から手が伸びている可能性もある。特にインフラ関連の企業は標的になりやすいだろう。正直、誰それへの恨みの線は薄い気もするが」

「残りの時間を考えると虱潰しにやっても効果は無さそうですね。それでも、今の状態では手近な部分から探っていく他はないでしょう」

 過去、日本において発生した企業を標的とする事件で最も有名なのは、恐らく「グリコ・森永事件」だろう。また今回のようにインフラを狙ったものとしては1985年に発生した「国電同時多発ゲリラ事件」が挙げられる。この他では1974年から75年にかけて、東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件が発生していた。最後はどちらかと言えば企業の施設と社員が標的に近かったが、国内で発生したテロ事件としてはかなり規模の大きいものと言えるだろう。そして忘れてはならないのが、1995年の「地下鉄サリン事件」だ。これはまだ人々の記憶に新しい筈だ。

 リストにある社員の聴取が始まって1時間が経過。この間、然したる情報も無いまま時間が過ぎていった。


 帝京地下鉄の本社は都内の台東区に存在した。自宅から電車を2回ほど乗り継ぎ、本社の最寄り駅に降り立つ。

 ここで俄かに腹痛を覚えたためトイレに入り、誰も居ない空間から更に仕切られた個室で用を足すと共に、精神の統一を図った。

「……帰りてぇなぁ」

 これから仕事に臨もうとする気概と裏腹に、口からそんな言葉が漏れ出た。思わず我に返り、トイレに誰も入って来ていない事かを気配で感じ取る。こんな事を誰かに聞かれていたら恥ずかしいだけだ。

 幸い、トイレにはまだ自分しか居ないのが分かった。ここに入って15分ばかりが過ぎている。そろそろ出なくてはならない。

「…………行くか」

 今度は小声でそう呟いた。立ち上がるとセンサーがそれを感知して水が流れる。身なりを整えた後はドアを開け放ち、洗面台の前に立った。

 鏡に映る自分の目を見ながら、ある言葉を静かに喋り出す。

「私は日本国憲法及び法律を忠実に擁護し、命令を遵守し、警察職務に優先してその規律に従うべき事を要求する団体又は組織に加入せず、何ものにもとらわれず、何ものをも恐れず、何ものをも憎まず、良心のみに従い不偏不党且つ公平中正に、警察職務の遂行に当る事を固く誓います」

 これは警察職員における【服務の宣誓】と言われるものの全文だ。聞くだけなら最もそうに感じる。だが、この組織が如何に前時代的で、腰が重く、薄汚れた世界なのかは、ここで働いている自分自身も痛感している事だった。

「……これが終わったら辞めるか。何回言ったか忘れたけど」

 面倒な事件が起きる度に、こうして1人で鏡に向かい、同じ言葉を口にするのだった。任官して何回こう言って来たかはもう覚えていない。

 鏡に映る自分は、もう1人の自分だと何か読んだ事がある。だがそれは嘘だ。ここに映っているのは紛れもない自分。どう繕おうが、自分だ。それ以上でもそれ以下でもない。こっち側の自分が髭を剃っていないのに、鏡に映る自分は髭を剃っているなんて事は有り得ないのだ。

 さっさと終わらせて美味い物でも食って寝よう。いや、さっさと終わるかは相手によるが、少なくともこっちの努力次第では短くする事は可能な筈だ。そう思い直し、ようやくトイレから出て駅を後にした。


 帝京地下鉄本社では、重役よりも下位に属する社員たちへの聴取が続いていた。場所は1階下にある中規模の会議室にて行われ、終わった者は他者と接触して不必要な噂話が起こるのを避けるため、時間をズらしながら非常階段を使って所属する部署へと戻っていた。

 そんな状況を知る由もなく、本社の1階から最上階に上がって来たエレベーターから1人の男が降りた。その光景を目にした刑事はその男が社員だと思い込んで詰め寄るも、今現在で最もこの場が欲している人間だと分かった事で背筋を正し、敬礼した。

「お待ちしておりました。あちらのドアが会議室になります」

 男は刑事が示すドアを見やり、また視線を戻して小さく頷いた。そのままドアに近付き、遠慮気味に開け放って中へと踏み込んで行く。

「おはようございます」

 ゆっくりとした口調でそう言いながら姿を現したのは、第一特殊犯捜査係の交渉担当こと三嶋京平みしまきょうへいである。彼は特殊事件捜査係の被害者対策班に属し、主に犯人と被害者の間を取り持って交渉を進める役割を担っていた。特に今回のような、明確な意思を持って行動している犯人との交渉に強いと言う特技があった。

 事前に現地入りしていた交渉担当の刑事はどちらかと言えば立て篭もり犯や暴れて正気の状態にない犯人とのやり取りが得意だったため、一見は狂っているようでもメンバーを統率しているだけの理性を保った取っ掛かりのない主犯格とは相性が悪かったのだ。

 他の刑事たちや帝京地下鉄の経営陣らがキッチリとしたスーツ姿で居る中、やや草臥れた格好の彼は嫌でも目を引く存在だった。明け番で寝ている所を起こされたのだと知っている者は居ても、それに対して別に「可哀そう」等と思う人間は居なかった。それが三嶋が本心では嫌っている【服務の宣誓】によるものか、或いは本職に対する情熱か。そう考える事すら、三嶋自身も嫌っていた。

 適度に義務を果たし、深入りせず、可能な限り自分本位に生きていたい。それが静かな望みだった。自宅の戸棚に仕舞い込んでいる密かに認めた白い封筒。「退職願」と印字されたソレを、鞄に忍ばせるのをまた忘れたと思い出しつつ、小松警部に近付いた。

「到着が遅れました、申し訳ありません」

「いや、よく来てくれた。だがまだ連絡を取り合ってはいない。段取りが整うまで少し休んでいろ。これが現状の資料だ」

 少し休んでいろと言われた事で、三嶋は10分でも20分でも寝れるかと淡い期待を抱いたが、盛大に出鼻を挫かれた。当然と言えば当然である。

「ありがとうございます」

 顔色ひとつ変えずに小松警部が差し出した資料を受け取り、慌ただしく動き回る他の捜査員を尻目にソファへ浅く腰掛ける。本当なら深く腰掛けて大きなため息でも吐きたい所だが、ここでそれを行うのは悪手だ。仕事に対する自分のスイッチを徐々に切り替え始め、内容を確かめながらゆっくり資料を捲っていった。

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