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 三日目の昼食――粉末マッシュポテトと乾燥ミックスベリー――後、サムの足取りは重かった。それは険しい道のりであるとか、過酷な気候などのためというのではなかった。


 進む道の様子は比較的穏やかで、樹木の密度もさほど濃くはない。すなわち、三歩進むごとにナタを振り回す必要もない、ということだ。


 視界の具合も良好で、また見応えのある野山の風景が眼前いっぱいに広がっていることから、これまでの二日間に比べれば、それこそハイキングにでも来たかのような気分さえしてくるほどだった。


 にもかかわらず、彼が足の重さを禁じ得なかった理由はほかでもない、あのジャガーを殺めたことに対する罪悪感というものが、重石のごとくに彼の背に伸し掛かっていたからだ。


 より正確に表現するなら、サム自身、あの出来事をどう受け止めるべきか心中で決めかねていたのである。いざ例の攻撃について思案を巡らせようとすると、自然とあちらこちらに疑問が飛び火して、収拾がつかなくなってしまうのだ。



――命の危険を前には仕方がない。ああするしかなかった。


――何を言おうが、おまえが卑劣な侵略者であることに違いはない。


――あれはあくまでもアクシデントだ。とっさの判断による出来事だった。


――ならば、「とっさの判断」でライフルを持参していたというのか?


――自分の身を守るためだ。


――自ら進んで危険に踏み入った者が何を言う。


――これまでにも人類は常に、そうやって住む世界を広げてきたはずだ。挑戦と挫折、そして犠牲を繰り返しながら。


――そうして、他者の平穏と住処とを奪い続けてきた。


――その事実もまた、おれの祖国にとっては重要な歴史の一側面だ。


――省みるべき側面だ。未来永劫に記憶され、戒めとされるべき暗い一面だ。



(これでは駄目だ、サム。お前が今考えていることは、ここで答えが出せるような問題ではないだろう)


 彼は己自身に向けてそう考えた。


 殺害と受傷とによる興奮が過ぎ去ったところに、さらに昼食後の倦怠感が重なって、彼の集中力はかなり散漫になっていた。


 足もとや周囲に気を配らなければならないというのに、最前からいかんともしがたい考えばかりが頭の中を回っている。どこかで顔を洗いたい。頭をすっきりさせたい。


 こうなると、下手に道が平穏なのもいいことばかりではない。否が応でも気を引き締めなければならない難所であれば、ともあれこういうふうに悶々とすることにはならないはずだ。むしろ適切な緊張感を保てるぶん、かえって安全だと言えるのかもしれない。


 今このとき、ベテランの冒険家たるサム・モーティマーは、ある種の危険な状態にあった。危機感の欠如という状態にだ。


 そうした状態に陥ることは、彼のこれまでの冒険家人生のなかでも、何度かは経験している事態だった。そしてそのたびに、彼はいつも同じ言葉を唱えることに決めていた。いかなる状況下でも効果はてきめん。たちどころに精神を安定させる魔法の言葉を。


(今じゃなくていい、サム。帰ってから考えようじゃないか、そういうことは)


 結論の先送りは往々にして事態を悪化させる。が反面、時としてそれが強力なカードとなりうることもまた、動かしがたい事実ではある。


「差しあたり、この問題はここまでだ」と、とにかく一度そう決めてしまうと、まるで立ち込める暗雲が晴れるたかのように視野が明るくなるのを感じた。周囲の様子がくっきりと浮かび上がってくるような感覚だ。


 そうして集中力が増してくると自然、それまで見過ごしていたような事物にまで意識が向くようになってくる。


 息をひそめるような鳥獣の気配。風に揺れる枝葉の影。湿った土と濃密な緑の匂い。圧迫感を伴って降り注ぐ陽光。どこか遠方から伝わってくるのであろう、激しい水流を思わせる水の音。


――これでこそ冒険だ。疲労と、空腹と、神経の昂りだ。おれは今を生きている。


 肉体的な消耗が実感としてあるにも関わらず、精神が休息を拒んでいた。自身の身の回りに潜む危険を切り抜けることに、サムは心身ともに夢中になろうとしていたのだ。


 腹の底から沸き起こる止め処ない高揚感に背を押され、彼はこれまで以上に力強く、道なき道を突き進んだ。



 とはいうものの、その場の勢いに任せて無茶な前進を続けるのは厳禁だ。むやみに疲労を蓄積させないためにも、こまめなエネルギー補給は随時、実行されるべきである。


 サムは、ジャケットのポケットから手のひら大のポリ袋を取り出すと、ついでそのジッパーを開け、内容物を口に運んだ。ミックスナッツだ。


 またこの際、水分補給もあわせて行うことにした。バックパックの横に下げた樹脂製の水筒を手に取ったのち、彼は一口分の水で喉の渇きを潤した。


 サムの体重は約八五キロだ。その数値から計算すると、彼が一日八時間の行動中に失う水分の量というのはおおよそ三リットルほどにもなる。


 これだけの水量を一度にまとめて補給するというのは実に困難なことである。下手をすれば、消化器系に過度な負担をかけることにもなりかねない。


 ゆえに、歩きながらであるとか、ちょっとした小休止に際してだとかという具合に、小まめに水分補給を行うことが肝要なのである。


 ちなみにサムは今回の冒険に望むにあたって、容量一リットルの樹脂製ボトルを五本と、それとはまた別に、予備として容量五リットルのナイロン製ウォーターバッグ一つとを準備して来ていた。もしもこれらの容器をすべて水で満たすとしたら、それだけで一〇キログラムもの重量を携行することになる。


 幸いにして高温多湿のアマゾンでは水源に困ることこそ稀だろうが、とはいえ飲み水としてそれらを利用するのであれば、ろ過と煮沸殺菌とを疎かにすることはできない。必要なときに必要な量の水分を適時、摂取できるよう、一定量の飲用水は常に準備しておくべきである。


 つまるところ、「バックパック」なる物体の内容物というのは、その大部分が水と食料とにまつわる物品なのである。


 そうこうしながら進むうち、ついさきほどまでは遠方のものと感じられていた例の水流の音が、だんだんと大きくなっているのに気がついた。音源との距離が縮まりつつあるのだ。


(ちょうどいい、このまま水場を探してみよう)


 コンパスを使って方角をたしかめる。ちょうど、当日分の給水を行いたいと考えていたところだった。流れの絶えない川か沢なら、水が淀んで腐っているという心配も無用だ。


 地図上で確認するかぎりには、近くにそう巨大な河川はないはずである。カーブの内側かどこか、流れが緩くなっている辺りを探せば、水浴びに適した地形を見つけられるかもしれない。


 サムはもうかれこれ丸一日以上も、その機会を心待ちにし続けていた。肌や体毛に満遍なくこびりついた塩気と汚れとを、綺麗さっぱり洗い落とすチャンスをだ。


 つけ加えるなら、幸いにも本日の目標到達地点はさほど遠い位置ではない。昼食前の遅れはすでに取り戻しているし、多少の寄り道に費やすだけの時間は充分にあるはずだ。


 そういうわけでサムは、自身の聴覚を頼りにして足を進めはじめた。視界は変わらず良好で、樹木や下草同士の間隔も適度に離れている。見通し自体は悪くない。

 ただ、進行方向が上り坂になっているがために、坂の頂上から先の地形がどうなっているのかというのは、肉眼では確認ができなかった。上り切ったところでいったん歩みを止め、辺りを見回してみるのがいいだろう。


 そのうちに、足もとの土がだんだんと湿気を帯びはじめてきた。試しにそれらしい場所を強く踏みしめてみると、じわりじわりと泥水が滲み出てきた。水場が近いという証拠だ。


 サムは自身の気が逸るのを感じ取った。現在時刻は一五時過ぎ。気温は三二度。天気は快晴で雲一つない。


(こんな日に天然の流水プールとは、なんとも気の利いた話じゃないか)


「行く手に楽しみが待ち構えている」ということは、それすなわち最高の追い風なのである。


 傾斜のきつい坂の勾配をものともせず、サムは足取りも軽く前進を続けた。そこで再び耳を澄ます。水流の音はもうすぐそこまで迫っていた。


(きっと、この坂を登り切れば……)


 サムがそういうふうに考えたとき、彼の右手側の方向から、ふと奇妙な物音が聞こえてきた。何か、乾いた木材同士をぶつけるような調子である。軽妙かつ弾力性のある音色だ。


 それはたったの一回かぎりで、ごくごく短いあいだに鳴りやんだものではあったが、それでもサムにしてみれば、警戒心を抱かざるを得ない事象ではあった。彼は漠然とではあるものの、根拠のない種類の危機感を覚えさせられたのだ。


 自然、サムの視線は彼自身の右方に引っ張られた。ほんの目と鼻の先に木肌が見える。周囲の風景にしっかりと馴染んだ、自然そのものの造形美だ。


 直後、その木肌を内包する木立の群れの一端から、不意にはっきりとした輪郭が浮かび上がってきた。美しく磨かれた細い直線。異物感を覚えるほどの整った形状。


(あれは枝か? いや……矢柄だ!)


 その脅威にサムが気づくが早いか、辺り一帯に人間のものと思われる叫び声が響き渡った。語尾を長く伸ばした四種の音節が、リズムよく並んで中空を跳ね回る。


(サー、マー……ウー、ヤー?)


 音それ自体は聞き取れるが、それらが示す意味というのは理解ができなかった。そもそもそれらの音程や強弱に、まともな意味があるのかどうかもわからなかった。その音の組み合わせというものは、サムが事前に調べておいた地元住民のどの言葉とも合致するものではなかった。


 この瞬間、サムにとってただ一つ間違いのないことは、誰かがこちらに向けて矢を放ってきた、という事実だけだった。


 反射的に上半身を折り曲げたせいで、サムの大きな身体はほとんど倒れ込まんばかりに前方に傾いた。その後どうにか片手を地面に突くと、彼はなかばむりやりな格好でその身体を前進させた。とにかく物陰に身を隠さなければ狙い撃ちだ。


 近くの木に突き刺さった矢の角度から察するに、射手はサムの背後に位置しているらしかった。さきほどから続いている坂道の、根もとのあたりから攻撃を仕掛けているようだ。


 サムの額が大粒の汗で濡れる。暑さのせいもあるが、当然ながらそれ以外の要因のほうが影響としては大きかった。こめかみが強く脈打ち、呼吸の一つ一つが浅くなる。激しく、またペースの速い脈拍の音が、鼓膜のすぐそばで轟音を鳴らしていた。あるいは、頭蓋骨の中央で。


 ほどなくして、サムは手ごろな木の陰に身体を滑り込ませると、そのまま中腰になって息を殺した。


 このとき彼が欲していたのは、何よりも相手の情報というものにほかならなかった。敵の位置や有する攻撃能力、目的、素性。この窮状を無事に切り抜けるためのヒント。


 このとき唯一幸いだったのは、サム自身と射手とのあいだの距離感というものが、朧気ながらもわかっていたということだ。というのも、先刻から敵方の射手が例の叫び声をあげ続けていたからだ。


 同じ言葉、同じ音程のワンフレーズが、何度も何度もジャングルの奥地にこだまする。そのおかげで、幾分か周りの木々に反響するきらいはあるものの、ともあれ声の発信地に目星をつけることぐらいは可能だった。


 逃げ惑う者と追いかける者。両者間の距離は刻一刻と縮まっている。もはや一刻の猶予もならない。行動は今、この瞬間に起こさなければならなかった。


 とはいえサムの手中に大した手札があるわけではない。こういう場合、するべきことは決まっている。すなわち、逃走あるのみだ。


 最後に一つ深呼吸をしたのち、サムは猛烈な勢いで木陰から飛び出した。すると間を置かず、直前まで彼が身を潜めていた場所に、鋭い軌跡を描いて矢が飛来した。矢じりがサムの足もとに深く食い込む。もはや後先を考えるだけの余裕もない。


 サムは己の直感が告げるまま、乱立する木々のあいだを走り抜けた。


 藪から藪へ、物陰からまた別の物陰へと、息を弾ませながら急坂を駆け上がる。蔦は身体に絡みつこうとするし、尖った枝が顔といわず首といわず肌のそこかしこを切りつけてもいたが、そんなことはいちいち気にしていられない。


 途中、何度も泥土を踏みしめるブーツの底が滑ったが、そうした足もとの悪さもまた、今は問題にしている場合ではない。くだんの意味不明な歌声が、サムのすぐ後ろまで迫ってきていた。


 次から次にとつま先で泥を跳ね上げるたび、坂の頂上が近づいてくる。すっぱりと途切れた大地の縁が。


 どうやら、登り切った先は地面が落ち込んでいるらしかった。この向こう側に飛び込んでしまえいさえすれば、いかな土地の者とてこちらの姿を見失うに違いない。どれほど付近の地形に精通していようと、地面を透かして目標をとらえ続けることなどできようはずがないのだ。


 頂上の向こう側がどういう地形になっているのかは、このときのサムにはわからなかった。ゆえに、これは完全なる賭けだといえた。


 都合のいい隠れ場所が見つかるか。それとも、かえって自らの首を締めることになるか。一か八かの大博打というわけだ。


 それからほどなくして、彼は意を決するだけの時間もないままに、空と大地との境界線にその身を投げ出した。


 瞬間、木々は一斉に姿を消し、逃亡者の視界には輝く空の青さだけが残された。よく晴れている。頭上はるか真上に望む色濃い群青の色はそこから離れていくにしたがって、より軽やかなライトブルーへと移り変わっていく。そうした一見、涼しげにも感じられるグラデーションのなかほどから、輪郭の掴めぬ太陽が灼熱の光を投げかけていた。


 やがて束の間の浮遊感がサムの身体を通り抜けると、今度は強烈なまでの重力というものが彼の全身を掌握した。



 その次に彼の感覚器が受け取った刺激というのは、身の危険を感じるほどの寒さというものだった。身体の芯、それこそ骨の髄まで冷えかかっているかのような感覚だ。


 手足の末端から胴体深部の臓器にいたるまで、身体中のあらゆる部分に痛みが生じていたが、それでもなんとか筋肉と骨とを連携させると、サムはほうほうのていで土の上に這い上がった。そこは紛れもなく、川岸だった。


 彼の身体は完全に水浸しになっていた。どれくらいの時間川水に浸かっていたのだろうか、まったく見当もつけられない。


 ただ、少なくとも手足はちゃんと動いているし、五感もしっかり働いてはいる。致命傷になるような傷を負った様子もない。無論、矢が刺さっているというようなこともない。


 なるほど凍えかけていることそれ自体は事実ではあったが、川岸を離れ、大の字になって地面に寝転がった途端、ぬるい外気が助け舟となったというのもまたたしかなことではあった。ここが熱帯雨林であることに感謝を捧げなければならないだろう。


 辺りは暗い。月光と星明かりとに満ち満ちた天空を除いて、あとは完全なる暗闇が四方の支配者となっていた。森や山肌は黒いシルエットへと姿を変え、まるでそれぞれの区別を失ったかのような、単独の塊ぜんとしてサムを取り囲んでいた。


(いったい何が起きたんだ?)


 というのと、


(おれは今どこにいるんだ?)


 という疑問とが、まったく同じ割合、まったく同じタイミングで頭蓋骨の中心部を埋め尽くした。サムは直前の記憶を失っていたのだ。


 寝ぼけたようにはっきりとしない頭を、彼はなだめすかすようにしてどうにか働かせようと試みた。とっかかりは、輪郭のぼやけた灼熱の太陽光だ。


(おれはあの光の下に何を見た? 坂の頂上を越えた先に、いったい何があった?)


 自分自身にそう問いかけると、間を置かずいくつかの回答を得ることができた。


 ぼそぼそと崩れ落ちる泥の地面。踏ん張りの利かない下り坂。当初の想定をはるかに上回る高低差。無数の木の枝を叩き折り、藪に衝突するなどしながらも、されど止まることなく落下を続ける一人の間抜けな冒険家。轟々と音を立てて流れゆく急流。高さも幅もある渓谷の底面を、砕け散りながら蛇行する白い波。


 きっかけを掴むことこそ難儀したものの、そこさえ超えてしまえば、あとは自ずから記憶は蘇ってきた。つまるところサムは命がけのウォータースライダーを楽しんだということだ。


 河川への滑落は、数あるアクシデントのなかでもかなり悪い部類に入る出来事だ。当然のこと川がなければ直接に谷底に叩きつけられていたわけだから、最悪の状況だとまでは言い切れないだろう。


 とはいえそれはあくまでも結果論に過ぎない。一歩間違えば川底で魚のエサ。でなければ、どこかの沼の片隅で魚のエサだ。


(おれは本当に運がいい)


 うなりをあげる濁流のさなか、岸壁や漂流物などに激突したり、全身をばらばらに砕かれたりしなかったというのは、サムの冒険家としての知識や技術に基づいた成果では決してなかった。


 さらに言うなら、ここで「運がいい」と言い切ってしまうのは時期尚早である。無事に一命を取り留めたかどうかというのは、これから判断をしなければならないことであるのだ。


 サムは手はじめとして、ともあれどのくらいの時間気を失っていたのだろうかと腕時計に目をやった。文字盤側面のスイッチを操作すると、それまで沈黙を守っていた黒い液晶画面の一面に、頼もしげな光が戻ってきた。時計は問題なく機能するようだ。


 その画面上に現れたデジタル数字の表示を見る限り、現在時刻は二〇時一五分。あの射手との邂逅が一五時過ぎであったことからすると、サムは五時間近くも眠りこけていたということになる。それだけの時間ずっと無防備なまま水浸しになっていて、よく大事にいたらなかったものである。

 

 正直なところ、当分はこのままひっくり返っていたいというほどの疲労感が全身を包み込んでいたのだが、しかしその願望を決して実現すべきでないということは、ほかならぬサム自身が誰より一番理解していた。


 ここは脅威と危険とに満ち溢れたジャングルだ。そのうえ、時間帯は夜の入り口ときている。外敵から身を守るためのシェルター、すなわちテントや焚き火といった防衛策は、どうあっても確保しておかなければならなかった。


 同様に、今このときもサムを蝕み続けている肉体的な消耗を補い、明日を生き抜くための英気を養うには、適切な食事をとることもまた忘れてはならない。言わずもがな、日々の楽しみという側面においてもだ。


 と、そこまで考えが及んだとき、ようやくサムは気がついた。自分が大の字になってひっくり返っているのはおかしいではないか、と。


 テントなり食料なりが詰まった背嚢があるのなら、どうして背中を地面につけて寝転ぶことができようか。その現実が意味するところは一つしかない。つまり、このとき彼の背面部には、バックパックなど存在していなかったといういうことだ。


 直後、どうにか赤みを取り戻しつつあったサムの顔面から、再び血の気が失せた。慌てて身の回りの様子をあらためようと試みるも、体力の低下と宵闇とのせいでまともに状況が把握できない。


 手指に触れる土の感触から地べたにへたり込んでいることは間違いなさそうだが、それ以外の付近の様子はまったく未知に等しいような状態だった。


(落ち着けサム、パニックを起こすな)


 軽く瞼を閉じ、深呼吸を一つする。ついで、ジャケットのポケットを探る。ライターがそこにあるのは確かだった。とにかく明かりは残されている。優秀な防水加工のおかげだろう、点火も問題なくできた。


 光源としては少々頼りないふうのオレンジ色の灯が、黒一色の世界に平面の影を浮かび上がらせる。


 このときサムの周囲には、雑草や藪の少ない開けた感じのする岸辺が広がっていた。察するに、雨季には水没する部分であるのかもしれない。


 その後、視線を左右に向けるうち、サムは揺らめく川面の一端に何かを見つけた。細長い光を発するなんらかの物体を、だ。それは自ら発光しているわけではなく、どうやらライターの火あかりを反射しているらしかった。位置関係で言えば、サムが着岸したであろう位置のほんのすぐ真横という具合であった。


 続けざま、サムは一人胸を撫でおろした。なぜなら、そこに見えた光る物の正体というのが、彼のバックパックに取りつけられた帯状の反射材であったからだ。

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