トラジコメディー

結水あさき

幕開け


 その日、やちるはいつも通り台所で家事をこなしていた。母親が死んだ今、家事は専ら長女である彼女が担っている。父親はほとんど家に帰らないので頼れない。

 彼女には、守らなければいけない家族があった。とて、とん、と近づいてくる小さな足音に口角が緩む。

「お姉ちゃん、ちょっといい?」

 まだ少し舌足らずな、愛らしい声。振り向けば、妹が台所の入口付近に顔を覗かせている。

「いいわよ。どうしたの?」

 彼女は嬉しそうに微笑み、背後に回していた手をやちるに見せた。

 その手に掲げられたのは重厚感のある一冊の本——大きさからして図鑑のようだ。

 やちるが本を見つめていると、妹は頬を紅潮させて喋り出した。

「これ、おとうさまに貰ったの!」

「あら、よかったわね」

 やちるは濡れた手を拭き、彼女の前に膝をついて頭を撫でる。

 妹――――さとるは嬉しそうに目を細め、本を抱き締めていた。

「おとうさまがね、開ける時はぜったい一人で見なさいって言うの」

「……え?」

「これはさとるへのプレゼントだから、一つしかないから、ちいちゃんが知ったら悲しむからって」

 ちいちゃんとは、千智ちさと──やちると慧の妹であり、彼女たち三人姉妹の末子のことだ。

 父に特別扱いを受けた慧は満面の笑みで本を抱き締めている。久々に見る彼女の笑顔に、やちるは目元を綻ばせた。

「もうお勉強は終わったかしら?」

「うん!先生とばいばいしたよ!」

「いい子ね。じゃあ、ちいに見つからないようにお部屋に戻って、読んできなさい」

 それから3人揃っておやつにしよう。

 やちるの言葉に、ますます慧の顔は輝く。

 大きく頷いて小走りに部屋へ戻った慧。やちるも幾分か軽くなった身体で洗い物に戻る。

 それにしても、父が贈り物とは珍しい。表紙には見たところタイトルがなかったが、あれは一体何の図鑑なのだろうか――。

 どれだけ洗い物を続けても、やちるの頭にはあの本が廻っていた。

 表紙の模様、あの色。何か、何か覚えがあるような気がする。

 しかし決定打がない。色や模様が似た本なら、図鑑であればそう珍しくないだろう。

 でも、違う気がする。

「……」

 やちるは握っていたスポンジを置いた。

 そもそも、何故父は慧にプレゼントを寄越したのか。

 こんな、彼女のに──。

「…………っ!」

 途端、やちるの身体が電流を浴びたようにびくりと跳ねる。

 そうだ。あの本は。慧は。

 だめ。唇が声を伴わず呟いた。

 ぞろりと廊下から漂ってきた冷気。足首を撫でるそれに目をやった刹那、耳を劈く叫び声が響いて息が止まった。

「慧!!」

 酷い足音が廊下を打ち鳴らすことにも構わず、やちるは無我夢中で走った。“あの”本と慧の泣き顔が脳裏でぐるぐると回る。

 階段を上がり、廊下を走って辿りついた慧の部屋。身体ごとぶつかってドアノブに縋りつくが、いくら押せども1ミリもドアは動かない。

 あの冷気はこの部屋から漏れていた。慧の、叫び声も。

 その声が、ひたすらに自分を呼んでいた。

 助けておねえちゃん、助けて!

「っさとる、慧!」

 下がらないドアノブを何度も下げる。がちりがちりと、金属質な音がやちるを嗤う。

 慧の叫びは激しさを増す。次第に言葉は消え、ただひたすらに悲鳴が続いた。

「…………やめて……」

 とうとうやちるはその場に座り込んだ。全身に力が入らず、ドアノブに縋りついていた指がだらりと廊下の木目を擦る。

 虚しさに震える唇を噛み、やちるはドアに額を押し付けた。

「————さとる……っ」

 悲鳴がいつまで続いていたのか分からない。耳を貫いていたはずのそれはいつの間にか消えていて、複数の足音が背後に迫っていた。

「どきなさい」

 静かな声は、低く廊下を滑ってやちるの身体の支配を奪う。————父だ。騒ぎを聞きつけた父が男衆を伴って現れたのだ。

 動けずにただ俯いていると、痺れを切らした男衆に腕を掴まれ、やちるは無理やりドアから引き剥がされた。


 彼女が何をしても開けることの叶わなかったドアは、父の指先一つで簡単に開いた。

 押し出されるように廊下へ広がったのは漏れ続けていた冷気と、生臭い血の臭い。

 無意識に上げたやちるの視界に写ったのは、床に広がった血痕と、顔の右半分を血で染め、打ち捨てられた人形のように横たわる妹の姿。

 そして、“あの”本は、白紙のページをはためかせ、慧の横に在る。

 ああ、と溜息のような悲鳴がやちるの口端から零れた。

 父の唇が再び開かれる。

「これより慧は離れに住ませる」

 男衆が隠しきれない歓喜を空気に滲ませ、小声ではやし立てる。

「準備を整えろ、

 父の言葉にその場の全てが動いていく。この家の当主、やちるたち三姉妹の父の言葉は全てだ。血塗れの慧を覗き見て口々に賛辞の言葉を贈り、良くやったとやちるの肩を叩く。

 やちるは一人、蹲っていた。手を振り払い、掴み掛って叫びたい。心はそう吠えているのに、身体がぴくりとも動かなかった。

 父は慧を抱えると、微動だにしないやちるを横目に一瞥して踵を返す。

「――覚悟が足らなかったようだな」

 すれ違い様に投げられた言葉に、やちるは唇を噛み切った。

 涙と血が顎を伝い、廊下を汚していく。


 ああ、父の言う通りだ。

 幕が開いてしまった。


 トラジコメディー

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