第26話 不自由の中の幸福

 『サメェ〜(作業やめ)』

 工場に雌鳥めんどりの様に甲高い助勤のおやじの声が響き渡る。


 『パンッ、アィ〜(一般手洗い)』

 独特な喋り方をする、この助勤のおやじの名は近藤こんどう


 最初は何を言っているのかさっぱり理解出来なかったけれども、慣れとは怖いもので、今では感動の発する言葉の殆どを理解可能になった私がいる。


 刑務所、特に助勤のおやじには一風変わった人材で溢れている。


 この近藤も、選ばれし変人精鋭部隊で構成される助勤のおやじ達のご多聞に漏れずといった次第なのである。


 助勤のおやじ、近藤の指示で、一班の面々が立ち上がり、行進で手洗い場へ向かう。(基本的に少年刑務所での移動は、手足をピンと伸ばした行進が採用されており、少しでも乱れた姿勢をとろうものなら、助勤のおやじの怒号どごうさらされる事となるのである)


 一班・二班が手洗いを終え、立役も手洗いを終えると、50人程いる受刑者達が一斉いっせいに工場内にある食堂へ移動する。


 今日の昼食のメニューは、コッペパンとカボチャカレー、そして小倉あずき&マーガリン。


 ただでさえ、食事は受刑者達にとって最大の楽しみである上に、メニューがパンとカレーと小倉あずきとくれば、受刑者たちの興奮は最高潮までたかまり、皆一様に【いただきます】の合図を、今か今か心待ちにしている。


 娑婆しゃばにいた頃には、一々食事の度毎に幸福を感じる事などなかった。


 それは、美味しいものが食べられるに越した事はないけれども、仕事がある日の昼食はコンビニ弁当で済ませてしまっていたし、メールをチェックしたり、仕事に取り組みながらの食事が当たり前であったので、食事という行為に幸福を感じる事はなかったのである。


 だけれど、食事中に脇見わきみも出来ず、ペラも回せない刑務所の中では、否が応でも食事に全神経を集中させる事となる。


 すると、どうだろう。


 ただ、食べ物を食べるというだけの行為で、あっという間に心が幸せでいっぱいに満たされるのである。


 テクノロジーの進化で、便利になった現代社会。


 しかし、幾度いくどものイノベーションの末に辿り着いた競争社会のなかでは、幸せを感じる事はとても難しい。


 不自然に歪められた、人工的な世界の中で、作り物の幸福を身にまとった所で、心が満たされる事などないのである。


 常に新しい情報を求め、他者の目を気にして、同調圧力原理主義国家の気持ちの悪い宗教に支配されて、富や名声といった見栄えの良いメッキを、これでもか、という程に塗りたくる。


 どれだけ金を手に入れようと、ハイブランドや高級車でみずからを飾り立て、名声を手に入れようと、手の中に残っているのは虚しさだけという始末。


 競争社会に踊らされ、同調圧力原理主義国家の哀れな傀儡かいらいとしての人生を送り、今際いまわの際に絶望を抱えながら果てていく。


 どれ程多くの現代日本人が、その様な悲しい人生を歩み、絶望を抱えながら、その無意味な人生に幕を閉じる事か。


 ただ、コッペパンに小倉あずきとマーガリンを挟んで目一杯に頬張るだけで、簡単に人は幸福を感じる事が出来るというのに。


 金や権威など、いくら集めた所で幸福を得る事は出来ない。


 なのに、大半の人々は犬も食わない様な下らない見栄みえの為に、かけがえのない人生を台無しにしてしまうのである。


 あぁ、競争社会の、なんと残酷な事であろう。


 刑務所の中の丸坊主の男達は、競争社会の喧騒けんそう等どこ吹く風で、雁首がんくび揃えて目の前のコッペパンに目が釘付けになっている。


 あぁ、何とも愛すべき、純朴な五分刈りの男たち。


 斯くいう私の目も、勿論コッペパンに釘付けになっている事は、わざわざ言うまでもない事であろう。


 『いただきます』


 計算係(工場のトップである立役)の深瀬ふかせさんの号令と同時に、受刑者達が一斉にコッペパンにかぶりつく。


 食堂が幸せでいっぱいに満たされていく。


 あぁ、私は、今とても幸福である。


 誰の目を気にする事もなく、心の底から幸福だと思える幸せ。


 不自由の中で手に入れた幸福を、私は今、存分に噛み締めている。


 

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