Before the story -side Starlight-
何だったんだ、あれ
「……ただいま」
「お帰り
リビングの扉を開けると、ハンモックの上から声が降ってきた。顔を上げると、ハンモックにうつ伏せで寝転がっている金髪の男性。両手のタブレット端末からヒーリングミュージックを流しつつ、猫のような動きで飛び降りる。まだ一月にもかかわらず半袖姿の彼を半目で眺めつつ、山田は問うた。
「……親父、寒くないのか?」
「暖房ガンガンにかけてるから大丈夫だろ!」
「電気代考えろ」
「全く、相変わらず扱いが雑だな……まぁいいや。ホットミルクか何か飲むか?」
「……貰う」
頷きつつ、山田は暖房のリモコンを手に取った。無言のまま、容赦なく温度を下げていく。ガタイのいい身体をぶるりと震わせ、台所に向かっていく父親。それを見送り、山田は学生鞄を置いた。そのままソファに腰を下ろし、ぼんやりと虚空を見つめる。
(……何だったんだ、あれ)
思い出すのは、天使のような笑顔。春の陽のように輝く茶髪、利発そうだが優しい光を湛えた瞳。普段なら気にも留めなかったはずなのに、何故か脳裏に焼き付いて離れない。……たった一瞬で、すべて奪われた。初春の夜空に雷が降るような、孔雀が鮮やかな羽根を広げるような。モノトーンだった世界は七色に塗り替わって、その中心には彼の笑顔があって。名前も知らない、彼の笑顔が。
あの時、少しだけ交わした言葉を思い出す。雑談とすら言えない、ただの外部受験生と案内役の事務会話だけれど……その声すらも、春風にそよぐ桜の枝のようで。彼の声が脳裏に響くたびに、心臓が痺れるような心地よさを覚える。何てことないはずの記憶が宝石のように輝いていて、不思議と胸があたたかくて。
「……ライト」
「……」
「
ふとかけられた声に、山田の意識は急速に現実へと戻ってきた。顔を上げると、ホットミルクのカップを差し出す父親の姿。軽く頭を下げながら受け取ると、父は不思議そうに隣に腰を下ろした。
「どうしたんだ? なんか今日、様子おかしいぞ」
「……そんなことはない、と思う」
「断言できてない時点で様子おかしいな」
「そんなことはない」
「今更断言されてもなぁ。で、何があったんだ?」
何気なく問いかけられ、山田は前髪で越しに額をさする。本当のことなんて口が裂けても言えるはずがなくて、どうでもいい事実だけを口にすることにした。
「……駅の柱に頭ぶつけた」
「は?」
「2回くらい」
それだけ言って、ホットミルクを口にする山田。彼に会ってから、熱に浮かされたように頭が働かない。面接はなんとか乗り切ったものの、帰りの電車に乗ったあたりから、もう彼のこと以外何も考えられなくなってきていた。本当のことを言うと、電車の手すりとか道端の電柱とかにも頭をぶつけたけれど、それはあえて黙っておく。ホットミルクをもう一口飲むと、心配そうに眉をひそめている父を見やる。
「……大丈夫か?
「……大丈夫なんじゃないか?」
「何で疑問形なんだよ……でも、ゲーセンのもぐら叩きガチ勢のスターライトがそんなに頭ぶつけるたぁ、ただ事じゃないな……」
「それは今どうでもいいだろ」
言い放ち、山田はもう一口ホットミルクを飲んだ。その横顔を観察しつつ、父は思考を巡らす。受け答えはしっかりしているし、熱が出ているような様子もない。だが、虚空を見つめる目元は夢でも見ているようだ。なんならその辺に蜂蜜色のシャボン玉じみたエフェクトが見えなくもない。……心の目で見たら、見えなくもない。
「あれ、いつの間に帰ってきてたの、
ふと投げかけられた声に顔を上げると、山田と同じブルーブラックの髪をした女性がソファの脇に立っていた。家にもかかわらずグレーのスーツに身を包んだ彼女は、当然のように山田の隣に腰を下ろす。
「……ただいま。お袋、いつの間に降りてきたんだ?」
「ついさっき。とりあえずお疲れ様……って、なんか
「……それ親父にも言われた」
めんどくさそうに言い放ち、ホットミルクをすする。彼の反対側から父が顔を出し、山田の額を軽くつついた。
「なんか帰りがてら、駅の柱に頭ぶつけたって言ってたぞ」
「やめろ親父」
「それは珍しいわね……アーケードのもぐら叩きガチ勢なのに」
「それさっきも言われた」
呆れたように息を吐き、ホットミルクをもう一口。何となく虚空を見上げる山田の横顔を、母は考えを巡らせながら見つめた。桜色の夢を見ているような、一番星に手を伸ばすような瞳。息子によく似た瞳でそれを観察し、母はふと片手の人差し指を伸ばした。
「恋ね!」
「……っ」
ホットミルクを両手で持ったまま、硬直する山田。ロボットのようにぎこちない動きで首を回し、謎にドヤ顔をしている母をじっとりと見つめる。
「……俺は何も言ってないだろ」
「言ってなくても顔に書いてあるんです。いくら
「……」
「……」
半目のまま父に視線を向けると、彼は気まずそうに視線を逸らした。呆れたように肩をすくめ、山田はホットミルクの最後の一口を飲み干す。その脳裏に明滅するのは、焦げ茶色の髪をした少年の泣き顔。全身を打ちつける雨の痛みと、色を失ってゆく視界。そして……あの時、笑いかけてくれた彼の姿。
(……あいつに会いたい。今度はもっと、いろんな話をしたい)
そう、心から思ってしまうほどに、彼に惹かれていた。まるで地上に焦がれて落ちる流星のように。空になってしまったカップを両手で握ったまま、視線を落とす。
(これが本当に、恋だっていうのなら……)
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