散花の章 花を抱く骸と踊る

第23話 草木生えぬ荒野だけが《 Ⅰ 》

 寄せては返す波のような雨音が響いていた。濡れるのも構わず、松仙は上野公園のベンチに座っていた。その姿は先日ようやく退院の許された患者だとは到底思えないほどに健やかだ。

 鈍く、低い鼻唄が響く。

「やあ、機嫌が良さそうだね」

「時雨」

「隣、座るよ? まあ、ダメっていってもボクは座るけど」

 唐紅色の番傘を閉じて、時雨は人差し指を軽く振るった。呪文のない魔法だったが、それだけで濡れていたベンチは乾き、足元の泥濘ぬかるみも解消された。


 当然と言えば当然だ。神之瑪しののめ 時雨はその名のままに雨の神なのだから、雨に汚されることだけは決してない。

「この結末には、満足かい?」

「……なんのことかな」

「惚けるのか。善悪を見定める私の前で」

 松仙はどこか呆然と、そう告げた時雨を見つめていた。それから寂しそうに、苦笑いを浮かべる。

「そっちが本当のきみかな?」

「本当もなにも、こちらもボクで、ふざけているのも私と言うだけだ。不思議なことはあるまい? 例えば金星を司るメソポタミアの女神も美しさや豊穣と共に死と闘争を司っていた。得てして神とは二面性を持つものだ」

「ではきみは?」

 時雨は酷薄な笑みを今度は浮かべた。それが答えのような気がした。


 神之瑪しののめ 時雨は真神と呼ばれる善悪を定め裁きを下す大神おおかみであり、恵みの雨と全てを飲み込む夕立とを司る雨の神でもある。

 ふざけて世界を俯瞰するのも彼であり、無関心と不協和音のような尊大と傲慢を孕むのもまた、彼だ。


「まあ、そう固くならないでよ。ボクらは友達でしょう?」

「そうだね。そうだと信じていたかったよ」

「もう友達じゃない?」

「……試すような真似をしないでくれ」

 冷たく固い返答だった。時雨は目をすうっと微笑み、単刀直入に畳み掛けることにした。


「灰を殺したの、オマエだろ」


 時雨の言葉に驚いたように男は目を見開く。時雨は覆っていた嘘と言う名の泥を拭い去っていく。その名のままに、洗い流す。

「それとも分からないと思ったのかね? 罪と業に濡れた匂いを、狼が分からないと? 高潔さを意味する狼の牙にかけて、そんなことはあり得ない」

 時雨は残忍な捕食者のように笑った。青白く、しでかした罪の前に小さく縮こまる獲物を見下ろしながら。


「これで満足かね? 松仙」


 それは神之瑪しののめ 時雨の声ではなく、その日、同じ問いかけをした亡者の声に、松仙には聞こえた。


***


 刀についた血を払った。灰は覚めた瞳で誰もいなくなった廃工場……その奥を睨むと、そちらに向かって歩き始めた。既に報告にあった反対勢力は全員殺した。だと言うのに灰は緩やかに、奥に向かって歩み始める。


「……やはり君か」

 彼の声は落胆してだろうか。指揮官としてあおいだ男がそこにいた時、彼はどんな顔だったのか。松仙はもう思い出せない。

 ただその、なにかを堪えるような表情だけが目に焼き付いている。

「私をどうするつもりかね」

「………………疑心は身を阻む毒になる」

「はっ。分かっていてそうするのか……それもそうだな。君はオレに恨まれていると思ってる。そうだろ? 〈朝比奈計画〉の立案者」

 黙っていた。それが答えだ。


 分かってほしい、等と言うつもりは毛頭ない。

 松仙は彼らとは立場が違う。戦争に苦しめられたのが彼らならば、彼らを苦しめることを期待して育てられたのが松仙だ。

 エリートとなり家に錦をもたらすことを期待された子供。軍人として理想の帝国人になることが松仙の思考の全てだった。

 そうして発案したのが、〈朝比奈計画〉だった。

 父はその計画を提出したことで失脚し、松仙にかかる期待はますます大きくなった。


 あれだけ冷酷な計画をたてられれば松仙は優れた軍人になると言われていた。実際、松仙は理想の軍人になったと言えるだろう。なにせ、実の親を裏切り、国に尽くしたのだから。

「……親ってなんなんだろうね。理解できない」

「オレにそれを聞くのか。オレは五歳の時に実の親である男に軍に売られたんだぞ」

「それもそうか」

 そう言って杖を地面に突き立てた。人はなろうと思えばどこまでだって冷酷になれる。その事をよく知っているからこそ、彼は冷静にこちらを見ていた。

 影から現れた処刑人達と絞首台を前に、戦火の英雄はただの罪人になり下がる。


「だからきみには死んでもらう――古代の概念えいゆうは政治には必要ない」

「……それが君の結論か」

「それに」

 松仙は灰を力強く睨み付ける。

「君の存在は、胡蝶を不幸にする」

 怒りを孕んだ声で告げれば、彼はおおいに驚いたようで、目を見開いた。それから両手でどうしようもないと言うように顔を覆った。

「……はっ」

「ッ! なんで笑う!!」

 松仙の、妄想と杞憂とが入り交じった狂った意見を彼はただ黙ったまま聞いていた。本気で松仙は彼が害だと思った。彼女の幸福を心の底から願っていた。


 願っていたからと言って、それが善意とは限らないのにだ。聞くに耐えない支離滅裂な憎悪を彼はただ聞き入れた。

 叫ぶべきだった。叫んでほしかった。いっそ、そうでないと彼が言ってくれれば良かった。そうしたら、なにかが変わったのだと、信じたいだけだけど。


「だいたいきみは、エゴで彼女を傍に置いて……その気持ちがあるなら!! いてくれって言えばいいだろ!! なんなんだよ!!」

 その声がきっかけだったと思う。

「そうだな……オレも、そう思うよ」

 堪えかねたように彼はそう言った。その声はひどく乾いて、ひび割れていた。


「傷つけたいわけじゃない。大切にしたい。いっそ真綿で首を絞めてもいいって、思う。でも、それでも――オレがいなくなって、引きずって、傷ついて生きていってくれたなら」


 泣くような声で、ほとんど吐息となった彼の声が緩やかに、笑いながら告げる。痛みを耐えるように笑いながら。

「それで、彼女の無二になれるなら、それでいいと思ってしまった」

「…………灰?」

「傷になって、一生、この命を、この灰を、引きずって生きていてくれたら……そう、思わず祈ってしまった」


 柔らかな柔肌に爪を突き立てて、心もろとも引き裂くように灰は笑っていた。或いは、泣いていた。

「最低だ。資格はないのに。こんな願いも、こんな執着も、持つべきじゃあなかった。幸せを願うなら、さっさとこんな自分、殺してしまえば良かったのに。こんなにも彼女の幸福を願っておきながら! こんなエゴまみれの願いに執着して! こうして彼女の幸せを踏みにじるんだ! オレは!」


 誰よりも幸福を願っておきながら、誰よりも彼女を幸福にできない。彼女の傍にいることも許せない。胡蝶が、ではない。灰自身が、許せない。

「…………どうして」

「分からないのか? オレは今、君のために死ぬのを良しとしてるんだぞ」

 言葉がでなかった。

 彼が、自分のために死ぬ?

 松仙は殺すつもりで来たのだ。

「そう。そして私は死ぬためにここに来た」

「灰、待て」

「君のために死んでやる。ああ、オレは死んでやる。君のために、他の誰のためでもない、あのオレの愛しい子のためですらない。他ならぬ私の死を望む君のために私は死ぬ。そしてそれを、私は良しとする」

「良しと、するって」

「だから、彼女は縛れない」


 皮膚の表面を醜悪な蛇が這う錯覚が起きた。そいつが全てを飲もうとしているような、気がした。

「待って、灰……灰っ」

「君の考えは間違いじゃあない。正しい。いつだって英雄は政治くにの敵だ。国を倒せるだけの切り札を持ってるのが英雄だ。だからこの全ては正しい」

 緩やかに松仙の想定からなにかがずれていく音がする。それがなにか分からない。刀を手放し彼は歩き始める。


 ただ、目の前の男のことが理解できない。鋼鉄の理性と、理論さえ通ればありとあらゆる全てを肯定する狂った精神性とが交錯し、縺れ合い、目の前の人間が、人間から外れていく。

 この男は誰だ?

 よく知っている彼は、なんだった?


「それに、蝶は自由に飛ぶからこそ美しいんだ」


 感情に満ちたその声が聞こえた。

 灰は日曜日の朝に散歩するような歩調で軽やかに絞首台に登っていく。作られたそれはどちらかと言えば自死に見せかけるようなもので、決して威厳が守られるようなものですらなかった。

「……貴方を殺人の罪で死刑に処します。この罪と刑は貴方の名誉に免じて、永遠に白日にさらされることはありません……遺言はありますか?」

 部下がたんたんと取り仕切る。青年はその茶番劇を鼻で嗤った。

「死刑? 私刑だろ? オレのも、君のもだ」

「………………灰」


 夕日のような瞳がただくるりくるりと輝いている。彼はまるでようやく長い旅路の果てに荷物を下ろせた旅人のようですらあった。


「これで満足かね? 松仙」


 板が落ちる。英雄は死ぬ。

 最早取り返しのつかない呪いのように、灰の笑みだけが脳裏に焼き付いていた。


 それが、彼の最後の言葉だった。

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