第10話 叢雲隊《 Ⅰ 》

 もし、立葵の言うことが真実で、世界に大きな流れがあるとすれば。

 ――勿論、胡蝶はそれを肌で感じているし、理解もしている。この世界には大いなる流れがありそれは、淀みなく、歪みなく、狂いなく、常に今この時もとうとうと流れ続けている。


 しかし時として感覚はただの錯覚であることもある。或いは、感覚はただの感覚に過ぎない。感じていること、見えること、触れられるこの世界の全てが真実であるとは限らない。


 だがもし――胡蝶の感じているそれが真実ならば、これもまた大いなる流れの一部なのだろう、きっと。


 水が雲となり、雨となり、川となり、海へ還り、また雲となるように。全てはいずれ世界に帰結するのだ。当然のように、定められたように。

 淀みなく、歪みなく、狂いなく。


***


 軍上層部の男が口を開く。

「東西戦線の要が全て叢雲隊に握られた」

「あり得ん。よもや松仙は帝都領地を古都に売却するつもりか?」

「売国奴になるつもりだと言うのか!」

「離反こそすれど愛国心を持っていると思っていたのに」

 情報から得られた些細な下らない噂を、自己の正義感だけで彼らは増長させていく。まるでそれが正統な行為だと誤認しているようだった。

「そもそも奴は裏切り者だ。愛国心など持ち得ぬ人間だったと言うだけよ」

「それもそうだな。さて、我らは早急にどのようにして東西戦線を納めるかを考えねば」

 彼らは会議室の扉を押し開いた。


「やあ、皆さん。お揃いのようで」


 会議机の奥に座るのは、ここにいるはずのない男。ここにあるはずのない男――鶴野 松仙、だった。その事実を飲み込めないと言うようにまばたきを繰り返す。

「元気にしていましたか? ワタシは勿論元気でしたよ。むしろ元気が有り余って、東西戦線をものにしちゃいましたよ」

「か、鶴野 松仙……!! なぜここにィ!!」

「あははっ。そう驚かないでくださいよ。まだ死なれちゃ困るんですよ。それにほら、急に怒ると頭の血管がプチンと言って死んじゃいますよ?」

「貴様ァ!!」

 吠える上層部を無視して松仙はカラカラと道化のように笑った。

「ま、座ってくださいよ。それともぼくと取引もしませんか? そうすれば東西戦線を取引のテーブルに乗せることができるかもしれませんよ?」

 上層部は歯噛みをしながら、されど大人しく、机についた。松仙はへらりと、胡散臭い笑みを浮かべる。


「よかった。取引すら応じてくれなかったらどうしようかと思いました。ぼくはできるだけ血は流したくないんです。その覚悟をしている、していないとは別にして、信条としてそう思うんですよ」

 神経質な彼の精神がやすりにかけられているのだと言うように、指先で規則的なリズムを刻む。

「どういう意味だ」

「ああ、気にしないでください。ところで……ワタシは、欲しいものができると、なにがなんでも必ず手に入れたくなる質なんですよ。ましてやそれが手に入らぬ星空の彼方で煌めいているならば兎に角、すぐ傍にある宝石箱の中にあるとすれば尚更にね」

「……なにが言いたい」

「単刀直入に言いますね。ワタシ、この国が欲しくやっちゃいました」

 衝撃波のようにざわめきが広がる。松仙はただ、真摯に、誠実に言葉を重ねているだけだ。


 時雨が無言で、上層部の前に一枚ずつ誓約書をおいていく。

「簡単です。皆様はそこにサインをするだけ。あとはワタシがこの国を適当によくしていきますから」

「ッ!! 松仙ッ!! こんなことが――こんなことが許されると思っているのか!!」

「どんなこと、でしょうか」

 男は机を拳で叩いた。

 不意に、会議室の扉が開け放たれる。


 漆黒の髪の襟足を長くしたボブカットの軍人が、会議室に脚を踏み入れた。彼女の登場に、上層部の瞳が希望を見つけたように煌めく。

 彼女こそが戦場できらびやかな戦果をあげている軍人……鬼灯 桜華だったからだ。

「これはどう言うことだ」

「鬼灯大佐!! 待っていたぞ!! さあ、早くこの逆賊を殺してください!!」

 彼女は冷たい薄紅の瞳で席に着く軍人を。希望にすがるような瞳が、一瞬で暗く曇っていく。

「な、なぜ……」

「遅かったね、桜華」

「すまんな。説得に時間がかかった」

 大佐……鬼灯桜華は笑顔で松仙の手を取った。

 待ってすらいなかった味方を歓迎する素振りをした男は問いかける。何故。なぜ、なぜ、なぜ――。

「何故、か。教えてやろうか」

 ブーツが机の天板を踏み、傲慢に見下ろす。


「飽きた」

「…………は?」


 桜華は笑みを絶やさずにそのまま言葉を紡ぐ。

「我は飽きた。汝らは毎日一日も欠かさず同じことばかり唱える。女の癖に戦場で戦果をあげられる等可笑しいとな。昇進すれば男と寝たんじゃないかと下世話な話ばかり。かと思えば下にいたらいたで、女は軟弱だから向かんと、よくもまあのうのうと言葉を垂れながせたものよな」

 桜華の滂沱のごとく流れ落ちる言葉を前に彼らはただ呆然と、なす術もなく見上げている。

「我は別に女も戦えばいいと思ってるのではない。戦いたい奴が、戦える奴が、それらだけが戦ってればよい。どだい戦争など、時代遅れにも程があるだろう」

「ほ、おずき、桜華ァァァアアア!!」


 絶叫する彼らを桜華は鼻で笑う。

「こ、こんなことが許されると思ってるのか!! 獄幻家が黙っちゃいないぞ!!」

「へー、そりゃずいぶん政治に真剣な魔法師の家があったもんだな」

 心臓の辺りに突きつけられた拳銃に男の動きが止まる。胡蝶は微笑みながら拳銃をじりじりと擦り付けた。

「退屈だった。ああ、マジで退屈だった。本当にここまで退屈だった。早く誰かなにか言わないかと思っていたくらいだ」

「胡蝶。殺してはならないよ」

「分かってるっつーの。こいつらが余計なことさえ言わなければオレだって引き金なんざ引かねえよ」

「ごっ……獄幻家、の、メッセンジャー!!」

 その瞬間、男の頭を銃で殴っていた。男は吹き飛び、机に鼻血が飛び散る。


 転がった男の胸倉を掴み胡蝶は壁に叩きつける。松仙はため息をついて頭を抱えた。

「おい、テメエ今なんつった」

「胡蝶……」

「引き金は引いてねえぞ」

「でも死んじゃうよ……。それに今は君、買って出てるんだからその名前で呼んだからって殴っちゃあダメじゃない? そうだよね?」

「…………それもそうか」

 手を離された男は鼻を押さえながらふらふらと立ち上がった。なので反対側の頭を銃で殴った。

「胡蝶ぉおおおお!!?」

「んだよ。きちんと水銀で保護しといただろ」

「…………もしかして、話が通じてない?」

「チッ……ああ、そうだ、思い出した。そのお前たちを助けてくれるすっごーい御家の獄幻家のジジイから伝言だ」

「な、なんて……!!?」

 この期に及んですがるような顔をするのか。バカだな。見ればもう既に結論が分かりそうなものだが。


「……『片目を捧げるほどの覚悟なき者に、真理授ける理由無し』だそうだ」


 男の目が、今、緩やかに見開かれる。まるで絶望と言う種が淡く咲く花の蕾を綻ばせるかのように。北欧神話に準えたその伝言の真意はつまり、〈隠居した老人〉は最早、彼らとの関与を断つと言うことだ。


 数分の沈黙が流れた。

 それから、一番年老いた男が立ち上がり、サーベルを鞘から抜く。

「閣下……!!」

「仕方ないことよ」

「血で洗うつもりですか、閣下」

 男は答えない。松仙は僅かに傷付き、躊躇うような、そんな表情を浮かべる。

「松仙。もういいだろ。覚悟を決める時ってだけだ。取り返しがつかないのは最初から分かってるはずだ」

「胡蝶」

 彼の瞳はどこか縋るようにこちらを見る。唇を噛み、拳を握り締めて、なにかを堪えるように。

「……」

「松仙」

「…………それでもワタシは……より良い未来を、描きたかった」

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