第11話

 琥珀こはくという渋い名前の喫茶店でしばらくの時間を過ごし、レジの前で金を出そうとするあなたと一悶着した。私の手から伝票を奪おうとするので、私は手を高くあげて伝票を遠ざけた。私より背の低いあなたの手が届くわけもなく、諦めて「ごちそうさまです」とつぶやく姿がかわいらしくて、私はきっとだらしなく笑っていたに違いない。

 少し歩くと広い公園があるからと、あなたに誘われて歩いた。肩を並べて歩くのは久しぶりで、考えてみれば私たちはまだ、会うのはたったの4回目だった。もう4回目なのか、まだ4回目なのか、たったの4回目なのか。恋をする者にとっては、会った回数や歳の差など、問題にならないのかもしれない。


 公園は暗く、そして確かに広かった。ところどころにある街灯がきれいに作ってあり、私はなんとなく感心する。

「ここはよくいらっしゃるのですか」

たずねてみると、あなたは隣で首を横に振る。

「つい最近、知ったんです。用事があってここに来て」

「そうでしたか」

「あのベンチが目当てです」

白い指がさし示すのは、洒落たデザインのベンチだ。しかし目当てにするほどのものとも思えない。

「どうしてあれが」

「後ろに大きな桜の木があるんです」

近づいてみたら、本当に大きな桜があった。まだ真冬だから縮こまっているが、春になれば美しい花を咲かせるだろう。

「お花見の時期は人がいっぱいで座れないでしょうから、今のうちに」

「かわいらしい発想ですね」

あなたは、ふふ、と声を出して笑った。


 桜の前のベンチに並んで座ると、ときどき人が遠くを通り過ぎていく。犬の散歩をしている人や、ジョギングをする人。若いカップル。私たちはどう見ても、恋人同士にも夫婦にも見られないだろう。

「私、この街に引っ越すんです」

思いもよらない言葉に、私はきょとんとした。

「え、ご家族で、ですか」

「いいえ、私だけ」

すぐには意味がわからず、私はしばらく考えた。

「それは、ご主人様と」

「別居します。もうアパートも決めました」

「そうでしたか」

まさか私のせいではと、急に後ろ暗くなる。だがあなたはまったく違うことを話し始めた。

「もうずっと、主人から暴力を受けていました」

「暴力ですって」

美しい顔のどこにも傷があったことなどないから、私はにわかには信じられなかった。

「あの人、顔は触らないんです。目立つから。身体を殴って蹴ります。お腹とか背中とか、髪をつかんで引きずったりとか」

「そんな、死んでしまう」

「簡単には、死なないんですよ。身体はあざだらけです」

「知らなかった」

「今はじめて話しましたもの」

 私は会ったこともないあなたの夫を、激しく憎んだ。ゆりさん。そんな過酷な目に遭っていたなんて。

「先生に恋をして、少しずつ目が覚める気がしました」

「私に」

「先生の講義をうかがって、一目惚れしてしまいました。そうしたら、ご近所で。偶然にもお目にかかれて。先生が、振り向いてくださって」

「私も一目惚れですよ」

私の肩にそっと顔をよせて、あなたは「嬉しい」と囁く。

「叶わない恋でもよかったんです。先生に恋い焦がれることは、私の希望になりました」


 私は静かに、あなたを抱きしめた。叶わない恋。その言葉が、胸に痛かった。自分にはなにもできないのに、この人は強くて、ひたすらに戦っていたのだと知った。

「なにもできなくて、ごめんなさい」

「先生が謝る必要なんてないです」

「黙って家を出るのですか」

「いえ、もう話は少しずつしています」

「危なければ、すぐに警察へ」

「もちろんです、ありがとうございます」

 いつまでも私は、あなたのことを離せなかった。あなたもまた、私から離れようとしなかった。抱きしめて、口づけて、髪を撫でて、そんなことをずっと繰り返していた。


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