1-5 聖地の朝

 カーテンの隙間から光が差しこみ、それが彼女の頬に触れた。やがてフィオリトゥーラは目を覚ます。

 聖地で迎える最初の朝だった。

 窓を開けて、外の景色を眺める。

 屋敷の敷地越しに見える風景は、様々な国から建築物を運んできて適当に並べたかのような、奇妙な街並みだった。

 それが延々と続く遥か先、都市の中心となる南西の方角には、細かな無数の石を丁寧に積みあげたような第二環状街が作るなだらかな斜面と、そのさらに上の街の遠景がぼんやりと見える。そしてさらなるその先、霞むほど遠く離れたこの巨大な城塞都市の頂に、うっすらと大教会の尖塔せんとうのシルエットが小さく浮かんでいた。

 そう。ここは世界の中心、聖地アルスタルトの中なのだ。

 雲ひとつない空が広がっていた。

 ランズベルトは、もうこの地をあとにしただろうか。聖地の空を眺めたまま、昨晩最後に見たあの微笑みを脳裏に浮かべる。

 部屋を出て、スラクストンに挨拶を済ませると、彼女は身支度を整えた。

 案内された裏庭奥に設置されてある簡易浴場で髪と身体を丹念に洗い、再び部屋に戻ると、部屋着のブリオーに着替える。それから朝食の知らせを受け、食堂へと向かった。

 食堂ではガルディアが待っていた。彼は朝食の支度を終えたリディアと楽しそうに談笑している。ディルの姿はなかった。

「あ! フィオリトゥーラさん、初めまして! おはようございます」

「初めまして、おはようございます」

 元気に笑顔で挨拶するリディアに、フィオリトゥーラも微笑みを返す。

「昨晩は素晴らしい料理を堪能させていただきました。これからもお世話になります」

 昨晩、晩餐の準備を終えたリディアはそのまま帰宅していたため、二人が顔を合わせるのは今朝が初めてだった。

 互いに簡単な紹介を済ませると、リディアはきらきらと目を輝かせて嬉しそうにフィオリトゥーラを見つめる。

「わあ……。本当に綺麗な方なんですねー」

「いえ、そんな」 

 フィオリトゥーラは、屈託くったくのないリディアの様子を見て思わずその顔をほころばせる。それは自然な振舞いだったが、彼女らしく気品に満ちあふれていた。

「凄い! 物語のお姫様そのものじゃないですか!」

 リディアは心底感動している様子だった。もっとも、普通の暮らしを送っている街の住人が、ある日突然フィオリトゥーラの姿を目の当たりにしたならば、皆が口を揃えて同じような感想を口にすることだろう。

 その後リディアが退室すると、ガルディアとフィオリトゥーラの二人は、パンとスープに簡単な野菜料理が添えられた朝食を食べ始める。

「ちゃんと眠れた?」

「はい。砂漠の生活が続いていたので、久しぶりにゆっくり眠ることができた気がします」

「そうなんだ、凄いね。僕がここに来たばっかの時は、緊張してまともに眠れなかったけどなあ」

「緊張は、しています」

 彼女は答え、スープを口にする。言葉にしたとおり自身の緊張は確かに感じられた。だが、食事が喉を通らないというようなこともなかった。

「そういえば、私驚いてばかりですけれど、ここは水を自由に使うことができるのですね」

 そう言った彼女の長い髪は、十分に水気をとったとはいえ、まだしっとりと濡れていた。

「ああ。井戸があるからね。ほんと、ここで暮らしてると、砂漠の真ん中だってこと忘れるよ」

 都市があるこの地は、砂漠の南にある山脈から続く巨大な水脈の上にあるといわれ、実際、一般階級の住民でも惜しまずに水を消費できるほどの、豊富で無尽蔵な水源に恵まれている。

「そうだ、とりあえず、朝のうちに教会に行かないとね」

 ガルディアが思いだしたように言った。

「教会、ですか?」

「そう。試合の申請とか報酬の受取りなんかも全部地区の教会で行うことになってる。たぶん上位申請者は講習なんかも教会で受けられると思うけど、でももうそんな暇もないだろうし、とりあえず参加証を受けとって、対戦相手の名前だけでもって感じかな」

 ガルディアは会話の合間にも、スープにパンにと見る見る朝食を平らげていく。フィオリトゥーラもそれにならい、少し急いで食事を進めた。

 朝食を済ませると、ガルディアの案内で二人はそのまま応接室に移動した。

 滅多に来客のないこの屋敷では、ソファのあるこの応接室が、会話をしたりくつろいだりするための場としてよく使われている。

「よかったら教会まで案内するよ。場所わからないだろうし」

 よかったらと言いながらも、ガルディアはすでに外出の準備を終えているようだった。見れば、ソファの上には鞘に収まった小剣が置かれている。

「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」

「じゃあ、外に出る支度をしてここに集合ね。あ、剣は携帯しておいて。ここじゃ、みんな当然のように武器を持って出歩くし、正直いつどこで何が起きてもおかしくないから」

 ガルディアは自分の剣を手元に引きよせながら、物騒なことを平然と言う。

「わかりました。それでは外出の準備をしてまいります」

 フィオリトゥーラが部屋を出てしばらくすると、教会が鳴らす朝一番の鐘の音が聞こえてきた。

 ガルディアはなんとなく予想していたものの、彼女の外出準備はいつまで経っても終わらなかった。荷物を開けたりと通常よりすべきことが多いのだろうが、それにしても長かった。

 やがて階段を下りる足音を耳にすると、ガルディアはソファに座ったまま部屋の入口へと視線を向ける。

「お待たせしました」

 現れたフィオリトゥーラは、スカート部分が膝丈まである臙脂えんじ色のチュニックに着替えていた。下に着こんでいるアンダーチュニックの白と黒のストライブの袖が鮮やかで目を引く。スカートの下の脚はぴったりとしたホーズに包まれ、動きやすそうな革のブーツが足元を覆っていた。

 昨晩見たカルダ=エルギムの剣は、ストラップ付きの革袋に入れられて斜めに背負われていた。また彼女の長い白金の髪は、その邪魔にならないようにと、ひとつに編まれて左肩から前に垂らしてある。

 動きやすさが考慮された中性的ともいえる恰好だったが、それで彼女らしさが消えることはなく、むしろがらりと印象の変わったその姿を見て、ガルディアは昨晩同様に息をのんだ。

 ほんと、何を着ても絵になるね、この人は……。

 思わず見惚れてしまいそうになるのを堪え、ガルディアは立ち上がる。

「じゃあ、出よっか」

 玄関から外に出ると、まだ朝とはいえ街は強い日差しの中に包まれていた。

 ふと、フィオリトゥーラは肌に触れる空気に違和感を覚えた。その手を持ち上げて、ひらひらと空気の中に泳がせてみる。

「不思議です。こんなに涼しいなんて」

 夜の冷気と比べればもちろん暑くはあるが、砂漠の旅に慣れた感覚からすると、いくら朝とはいえ、肌に触れるその温度の低さは明白だった。

「ああ。驚くよね。これも豊富な水源の恩恵らしいよ」

 二人は並んで屋敷の門を抜けると、昨晩フィオリトゥーラがランズベルトと二人で移動した広い通りを歩きだす。

 通りを行く人の姿はまばらだった。時折、荷物を積んだ荷馬車なども通りすぎていく。馬に乗って移動する者の姿も見かけた。

 砂漠を旅する中では、移動に使われる動物は自らも含めてラクダ以外見かけることはなかったが、この都市では普通に馬が使われているようだった。

 よく見れば、ガルディアが言っていたように武器を携帯して歩く剣闘士とおぼしき者の姿もあった。

「この辺りは第三環状街の東部十番区。そこそこ裕福な人たちも住む住宅街かな。商業地区に行ったら、もっともっと人の数が凄いよ」

 ガルディアが少し前を歩き、二人は通りを北に向かって進んでいく。

「聖地の道は簡単だから覚えやすいよ。大教会を中心にしたこんな感じの環状路を右回りか左回りに進んで、目的地に近づいたら内か外に向かって曲がる。それだけで大体の場所に着けちゃう」

 ガルディアの口ぶりからすると、今歩いているこの通りが環状路にあたるらしい。

「この道が、都市をぐるりと囲んでいるのですか?」

 フィオリトゥーラが訊ねた。彼女が今歩いているこの通りは、特に曲がっているわけでもなく真っすぐと先へ続いているように見えた。

「そう。ただここは物凄く広いから、歩いていてもそんな感じはしないけどね。仮に環状路をずっと歩いてここから北部区域の中心まで行こうとしたら、今からだったら夕刻ぐらいにはなるんじゃないかな」

 ガルディアが説明をしていると、そう歩かないうちにやがて二人は大きな交差点へと辿り着く。交差点の中央には大きな標識が立てられていた。

 標識には十字型の剣と翼が描かれた聖剣教の紋章が掲げられ、その下に装飾文字で「第七教会」と書かれてある。

「わかりやすいでしょ? ここを曲がればすぐ教会だよ」

 ガルディアがそう言って指差したその時、教会があると思われるその方角から、かすかに音が聞こえた気がした。

 続いて鐘の音が、今度は小さいがそうとはっきりわかる大きさで耳に届く。そしてその余韻が終わらぬうちに、今度は耳をつんざく大きな鐘の音が周囲を包みこんだ。

「〝二のこく〟だ。早くしないと午後になっちゃうね」


 そこから教会まではわずかな道のりだった。 

 開けた大きな広場に着くと、その中央にはこの都市の七番目の教会である第七教会が建っていた。

 いくつかの巨大な箱を重ねたような白壁の建築物の上に半球形の屋根が乗っている。建物の端からは尖塔がそびえていた。先ほどの時刻を報せる鐘の音は、この塔の上部から鳴らされたようだった。

 教会を前にしてガルディアが立ち止まる。フィオリトゥーラもその隣に並んだ。

「大丈夫だと思うけど、この聖地では聖教音以外の言葉は使えないから注意してね。特に教会の付近ではかなり厳格に規制されてるから」

 フィオリトゥーラはこくりとうなずく。

「でも、フィオさんの聖教音完璧だもんね。普通、なまり方でどこの出身か大体わかるもんだけど、フィオさんの場合言われなければわかんないね」

 そう言われても実のところ自覚はなかったが、ランズベルトといいガルディアといい揃ってそんな感想を口にするということは、そういうものなのだろうかと、彼女はぼんやり考える。

「僕は外で待ってるから、ここからは一人で行ってきなよ。中に行けば、神官が全て説明してくれるはずだから」

 フィオリトゥーラは数歩前に踏みだし、そこで振り返った。

「ここまでの案内感謝いたします。それでは行ってまいります」

 教会内部に入ると、すぐに大きな広間が現れた。

 広間は外と同じ白壁に覆われた広々とした空間で上部も広く、見上げればアーチ状の壁たちが半球形のドームを支えていた。ドームには規則的な紋様が並び、縁に並んだ明り取りの窓から柔らかな光がこの空間に放射されている。

「いかがなさいましたか?」

 天井を見上げていたフィオリトゥーラが視線を戻すと、そこには白を基調に赤が配色されたローブをまとう聖剣教の神官の姿があった。まだ歳の数三十は越えていないだろう若い男の神官だった。

 フィオリトゥーラが事情を話すと、神官は彼女を広間に隣接した小部屋へと案内する。大きな机に書類棚が並ぶそこは、様々な手続きなどを行う部屋のようだった。

 彼女が名を名乗り、腰に下げた革製の袋から用意していた書類を取りだすと、それを見た神官は目を見張る。

「わざわざお越しいただくとは……。こちらから使いの者を出す予定でしたのに」

 ランズベルトからの事前説明がなかったことに納得しながら、フィオリトゥーラは神官に「お気になさらずに」と微笑みを返す。

 上位申請の登録者ゆえか、神官は恐縮したように手続きを開始した。

 ひととおりの手続きを終えると、神官は裏に聖剣教の紋章の入った角型のメダルを取りだし、それに手早く刻印を施す。試合の参加証となる物のようだった。

 メダルを手渡された後、フィオリトゥーラが神官に自身の対戦相手について訊ねてみると、彼はすでに机上に並べられていた紙のうち一枚を抜きだし、それを読みあげる。

「貴女の対戦相手の名はラモン。ランク〝D〟の闘士で、戦績は六勝一敗となっていますね」

 特に抵抗なく伝えるあたり、これは望めば誰もが得られる情報なのだろう。ただし、闘い方も使用する武器も、さらにはその年齢や性別すらもわからない最低限の情報ともいえた。

 もっとも、フィオリトゥーラ自身そんな対戦相手に関する情報を求めていたわけでもなく、これを訊ねたのは「相手の名前ぐらいは」と言うガルディアの言葉に従っただけのことだった。

「開始時刻は〝四の刻〟の後となりますので、それまでにはこちらの広場の北にある九番区闘技場にお越しください。聖なる剣のご加護があらんことを」 

 神官はそう言ってからフィオリトゥーラを見送った。最後の言葉は、ここではお定まりの剣闘士への文句なのだろう。

 外で待つガルディアのもとに戻ると、フィオリトゥーラは対戦相手のことや開始時刻について彼に伝えた。

「四の刻かー。わかってたことだけど、街を案内してる場合じゃないね。戻って支度しよっか」

 四の刻は、正午を過ぎた後に次に鳴る鐘の時刻で、今からはさほどの猶予もない。

 二人は早々に教会を後にすると、屋敷へと戻っていく。

 帰り道の途中、フィオリトゥーラはふと前を行くガルディアの後ろ姿を眺めた。

 腰に小剣一本だけを下げて、軽快な足取りで彼女の前を歩いている。その背丈は彼女とあまり変わらず少しだけ低い。

 ディルの紹介がなければフィオリトゥーラに近い歳なのではないかと思えるような童顔に艶やかな黒髪を持つ青年は、時折振り返っては試合に向けて必要な準備や知識について簡単に説明してくれた。大きな黒い瞳を持つ彼の顔は、どこか中性的でもあった。

「ガルディアさんは、親切な方なのですね」

「ん、そうかな? まあお節介焼きだとは言われるね。最初の頃、ディルにはかなり煙たがられてたし」

 唐突な彼女の言葉にもガルディアは特に表情を変えるでもなく答え、それから少し自嘲気味に笑ってみせた。

「僕もある意味でディルと変わらないんだよ」

「そうなのですか?」

「そうだね。まあ、僕のお節介はそういう趣味だと思ってもらえばいいかな」

 彼の言わんとすることをフィオリトゥーラはあまり理解できずにいたが、そんな話をしているうちに、気がつけば二人は屋敷の門前まで戻ってきていた。


「ラモンか。そいつの試合見たことあったな」

 ソファに深々と腰かけたディルが、その名を聞くなり言った。彼は二人が教会に出かけていた間に目覚めていたらしい。すでに朝食も済ませたようだった。

「結構強いぜ。武器はメイス(戦棍)だ。握りを長くしてバスタード(両用剣)みたいに改造してたな。ま、この聖地でわざわざ剣以外の武器を選ぶようなのは、大抵それなりに闘える奴が多い」

 テーブルを挟んだ彼の向かいで、ガルディアもソファに腰かけ話を聞いていた。フィオリトゥーラはその隣に行儀よく座り、同様に耳を傾けている。ただ、なぜかその視線はディルではなく床の辺りに向けられていた。

「そんなのよく覚えてるね。僕だって他人の試合はそれなりに観てるけど、〝D〟で覚えてる剣闘士なんて一人もいないし。――にしてもさあ」

 話の途中で、ガルディアが深いため息をつく。そして控えめな動作でディルを指差した。

「フィオさんの前でその恰好はないんじゃないの?」

 言われたディルは、冷めた視線でガルディアを睨みつける。その釣りあがった三白眼が睨むとなかなかの迫力だった。

「はあ? いつもと同じだろ。なんであとからここに来た奴に俺が合わせる必要があるんだよ」

 そう言葉を返したディルは、ブレーと呼ばれる緩やかなズボンと簡素な布の靴を履いただけで、上半身には何も身に着けてはいなかった。細身だが、引き締まって均整のとれた肉体があらわになっている。

「その、私は大丈夫ですから。お構いなく」

 うつむいたままフィオリトゥーラが言う。

「当たり前だ。つーか、あからさまに目逸らしてんなよ」

 ディルはぐしゃぐしゃと銀色の髪を掻きむしる。ガルディアは呆れてもうひとつため息をついた。

「フィオさん、そろそろ準備した方がいいんじゃない? ちなみに、今から行く闘技場は着替えるところなんてないから、必要な装備はできるだけ移動前に身に着けておいた方がいいよ」

「了解です。それでは一旦失礼させていただきます」

 フィオリトゥーラは颯爽と立ち上がると、部屋を出て足早に階段を上がっていく。その動きはどこかぎこちなくも見えた。

 そんな彼女の様子を見届けた後、応接室に残った二人は、ソファに預けていた背を離し身を軽く乗りださせる。

「……あいつ、かなり緊張してないか?」

「そんな感じだよね。正直、あの人がどういう闘い方するのか想像つかないけど、ああやって入れこんでる感じは良くないかもね」

「まあ、言っても仕方のないことだろ」

 ディルは再びソファに背を預けた。

「うん。言って余計におかしくなることだってあるだろうし。結局、何を言ったって駄目なものは駄目だろうからね」

 ガルディアはそう言って、フィオリトゥーラがいるであろう二階の七号室へと視線を向ける。

「あんまり悲惨なことにはなってほしくないよね……」

「まあな」 

 ディルもまた、ガルディア同様に二階の方を見つめていた。

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