第二章 ②


 なんて素敵な女性だろう、とゼルは感激していた。まさか、向こうの方から距離を縮めてくれるとは。

 これはもしかすると、もしかするのではないのか。

「教会に行って、婚約証明書を司教に用意してもらおう。いや、俺とフレンジュの式だ。聖ミウンゼスター大教会の枢機卿を呼ぼう」

 そこは、王族や貴族の結婚式で利用されるほど格式高い教会だ。

 ゼルの思考が雛鳥の羽根よりも軽くなったとき、焼きクレープの屋台を囲む人だかりに悲鳴が混ざった。

 続けて、気品とは正反対の馬鹿声。

「だからここのショバ代を寄越せって言ってんだよ。一日十万ラルドだ。とっとと払って貰おうか。でないと、瀟洒会同盟である《レーブリーコール》が黙ってねえぞ」

 無駄に筋肉質な体格以外は長所が欠落した、牛糞と馬糞の悪霊が間違って生んでしまいましたみたいな大男だった。その背後には、脳味噌に犬糞しか詰まっていないだろうチンピラが下卑た笑みを浮かべて待機している。屋台の店員だろう老夫婦が、すっかり委縮して言葉も失っていた。

 すると、うら若き乙女が一人、大男に近付いた。

「《レーブリーコール》へのショバ代は一日五千ラルドでもう払い済みよ! あんた達が瀟洒会同盟に属している証拠がどこにあるっていうのよ!」

 野次馬連中が『そうだそうだ』と抗議の声を上げるも、チンピラ達の一睨みで黙り込んでしまう。

 少女の表情は強張っていて、膝が震えていた。

 大男が、いやらしい視線を乙女の胸元へと向ける。

「おやおやおやー。なかなか良い娘じゃねえか。十万ラルドが払えねえなら、こいつを貰うとしようかね。けけけっけっけけけ。一晩も俺達の相手をすれば、ショバ代の代わりにしてやるからよ」

 大男が少女に手を伸ばし、掴んだ。

 正しくは、掴まれた。

「あん?」

 大男が、怪訝そうに首を傾げる。己の腕を、誰かに掴まれたからだ。

「お前、もういい加減にしておけ」

 自分とほぼ同じ高さから聞こえた声に、大男が目を剥いた。顔から一気に血の気が引いていく。

 ゼルが割って入った。

 今度は、大男が言葉を忘れる番だった。

 ゼルが手を離しても大男は硬直したまま動けない。

 チンピラの一人が、ゼルを指差して叫んだ。

「ぜ、ゼルだ! ゼルがいるぞ!」

 それだけで、場の空気が変わった。

ゼルは周囲を一瞥する。そして、少女へと歩を進めた。

馬鹿でかい機操剣を背中に吊るしたゼルを見て、少女の歯がカチカチと鳴った。腰を抜かしていないのが、不思議なくらいである。

ゼルは努めて優しい笑みを作った。

「勇気ある素晴らしい行動だ。可憐さと気概が合わさると、それだけで百人中二百人が振り返るだろう。つまり、驚きのあまり二度見するってことだ。君はとても魅力だと、俺の脳内ではもっぱらの噂だよ」

 少女が、異国人から話しかけられたかのように目を点にした。

 ゼルは、今度は屋台の方へと足を進める。

「実は絶世の美女を待たせているんだ。この屋台で一番美味い焼きクレープを作ってくれ。大丈夫。金ならいくらでも出す」

 老夫婦の内、夫の方がやっと時間の針を取り戻した。

「で、でしたら、バナナとチョコとナッツのデザート風焼きクレープが女性に一番人気です。はい」

「よし、それを二つだ。……いや、待て。ここは別々の物を買って『そっちはどんな味なの? あーん』ってやる方向が正しいんじゃないのか!? 店主、もう一つ人気の方は」

 背後から殺意がこもった声が落ちた。

「俺を無視するんじゃねえぞ! ゼルだろうがザルだろうが俺に敵うかぁあああ!!」

 大男が、腰に吊るしていたサーベルを引き抜いた。ゼルの脳天目掛けて振り下ろす。

「人の恋路を邪魔するんじゃねえぞ!」

 ゼルは、振り返りすらしなかった。右足を後方に引き、右肘を大男の脇腹へと叩き込む。金槌で石を割ったような音が響いた。大男の身体が斜めに折れる。

 地面に倒れた大男が、白目を剥いて痙攣する。肋骨を纏めて砕かれれば、誰だって立ち上がるわけがなかった。

「か、頭が一撃で、嘘だろ」

「お、おい、誰か戦えよ」

「ふざけんな! 機操剣持ちに勝てるわけねえだろう」

 すると、チンピラの一人が懐から一丁の回転式拳銃を取り出した。周囲の野次馬が、我先にと逃げだす。

「おい、手前ら! よく見ろ。あいつは機操剣を抜いちゃいねえ。し、知ってるぞ。機操剣っていうのは蒸気機関に火が入ってなきゃただの重い剣と同じだ。白い煙さえ上がってなければ、こっちのもんよ! それに、ほら、手が塞がってんじゃねえか!」

 チンピラ連中の目が、ゼルの両手に集中する。

 右手にフレンジュのためのバナナとチョコとナッツのデザート風焼きクレープ。

 左手に自分のための、そして『はーい、あーんしてー』用の豚肉の薄切りを煮込み、香辛料を絡め、ゴマをパラッと散らした焼きクレープ。

「おい、邪魔だからそこ退け。あるいは、山に帰って猿仲間と一緒に木の洞に指突っ込んで芋虫でも食ってろ。人間様の祭りは、手前らには勿体ない」

「黙れ! 両手が塞がってればゼルだろうが殺せるぜ!」

 チンピラが拳銃の引き金に指を伸ばす。しかし、

「そこまでにするのだ」

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