第一章 ②


 そろそろ酒も肴も尽きかけたころ、扉を叩くような音がゼル達の耳に届いた。会話が途切れ、耳を傾ける。ようなではなく、本当に客用の出入り口を誰かが叩いているのだ。

「どうせ、酔っ払いじゃろう。ゼル、見て来い」

「店主はオヤッさんだろう」

「ああいう手合いにろくな奴はいない。暴力を振るわれると怖いから、お前が見て来るんじゃ。まさか、年寄りを危険な目に合わせたいわけじゃないだろう?」

「ちっ、こういう時だけ年寄りかよ。明日になったら赤ん坊扱いしてやろうか。失禁だろうがお漏らしって誤魔化してやるよ」

「そういうのは娼館で事足りる。ほれ、さっさと行って来い」

 ダルメルがカウンターの裏から取り出した鍵束をゼルに投げつけた。ジョッキ片手に、一歩も動かない。

 鼻先に当たる直前で鍵束を掴み取ったゼルは、露骨に嫌な顔をした。一応、椅子の背もたれにかけていたコートを纏い、鞘を吊るし直す。どんな酔っ払いでも、機操剣持ちに強がるような馬鹿はいない。と信じたい。

 深夜の珍客は、ゼルが扉に近付くまでの数十秒ずっと叩き続けていた。力任せの乱暴ではなく、一定のリズムだ。怒鳴り声の類はない。

 妙だと、ゼルはコートの内側から大振りのナイフを引き抜いた。後ろ手に隠し、チェーンロックを外す。向こうが気付いたのか、扉を叩く手が止まった。

 一呼吸置き、今度はドアノブに鍵を差し込む。回る、ガチャン、開く。向こうからは、ドアノブを回さなかった。

 ゼルは努めて冷静な口調と一緒に扉を開けた。

「すみませんがお客さん。今日の営業は終了していまして。明日に再度来ていただけると大変嬉しいんです、が……」

 ゼルの呼吸が停止した。

 腹部を刺された、わけではない。

 左胸を撃たれた、わけじゃない。

 目の前に立っていたのが女性だったからだ。それも、かなりの美人の。

「あの、あなたがゼル・クランベルさんでしょうか?」

 歳は二十代前半、身長は百六十センチ台後半程度か。肌は雪のように白く、されど健康的な赤みが差している。髪は焼き菓子に似た栗色で、膝に届くほど長いそれを肩で折り返し、頭の後ろで束ねてまた折り返し波打たせたダブルフォールだ。ぱっちりと開いた双眸は、真夏の鮮烈な魅力を濃縮したオレンジ特有の濃い橙色である。

 すらりと伸びた足、肉付きの良い太腿、尻、腰の曲線美、豊満な胸、どれ一つ取っても最上級だ。

 白いコート、革靴、ピンクのリボンを飾った帽子は、一目で高級と分かる品々だ。なにより、纏う者に相応しき気品がある。

「闇夜を照らす女神か、夏の煌めきを振り撒く妖精か。俺が世界中の言語を理解したとしても、あなたの魅力を表現しきるだけの言葉は見付からない。ただ、時間をいただければあなたのことを少しでも理解出来るでしょう。だから、これから一緒に酒の席を共にしてくれませんか? 当然、こんな三流酒場にも劣る場所じゃなくて、ミッシェルストリートの高級ホテルにでも」

 ゼルは女性の両手を握ろうとして自分がナイフを持っていることに気付く。半秒考え、後方に投擲した。

 ダルメルの頭上を通過し、背後の壁に突き刺さる。

 それが世界の法則だと、ゼルが女性の手を握った。膝を軽く折って視線を合わせ、ジッと見詰める。

「あ、あの、私、クランベルさんに用があって訪れたのですけど」

 女性が、あきらかに困惑していた。

「あ、もしかして、なにか商品を探しで? だったらどうか見てやってください。薄汚れたちんけな店ですが、品揃えは確かです。真の愛をお探しだというのでしたら、俺の目を見てくださると大変嬉しいのですが」

 女性が、小さな悲鳴を上げかけた。

 とうとう、声を大きくして訴える。

「私、クランベルさんにお仕事の依頼で訪れたんです! あと、手を離してください」

 ゼルが硬直する。手から手がすり抜けた。

 背後、でかい咳払いが聞こえた。

 一応振り返ると、ダルメルが壁に突き刺さったナイフを引き抜き、こちらへと憎たらし気な視線を向けていた。眼光が鉛の弾丸なら、四度は死んでいる。

「こんな薄汚れたちんけな店でも、ゼルなんて商品を取り扱ったことはかつて一度もありはせんわい。きっと、これからもな」

 ダルメルがゼルへとナイフを投げつけた。回転する刃を微塵も恐れず、ゼルは難なく柄を掴み取る。

 ナイフをコートの内側に戻し、ゼルは改めて女性に向き直った。

「俺がゼル・クランベルです。クランベルさんなんて堅苦しい呼び方ではなく、どうか気軽にゼルと呼んでください」

 女性が、わずかに頬を引きつらせていた。

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