第2章 深まる想い

第8話 体調不良(SIDE耕平)

 夕飯の後、リビングのソファに座って窓の向こうの景色を眺めながら、二人で晩酌するのが日課になった。


 つまみは、夕飯の支度の時に千波が作る。千波に食べさせたいものを思い付いた時には、耕平が作ることもある。

 千波が好きなのは芋焼酎のお湯割りで、耕平はハイボールを好んで飲む。

 酒を飲みながら、とりとめのない会話をする。


「選べる時に選びそこねたり、その時の選択が失敗だったりすると、余程意志が強くないかぎり巻き返せないと思わない?」


 耕平は、千波の人生観を聞くのが気に入っている。


「例えば?」


 リビングの窓は大きい。一人だった時は、仕事の合間の気分転換にソファへ腰掛け、外を眺めていた。


「高校で決める進路がとんでもなく重要だったんだって、私は、大人になってから思い知ったの」


 今は千波と並んで座り、体の片側に彼女の重みと温もりを感じながら、深まる雪景色を眺めている。


「耕平くんは、進路ってどうやって決めたの?」

「俺は、親父から大学は絶対に行けって言われてたから。大学に行くのは決定で、元から好きだった歴史が学べるところを選んだ」

「進路相談室って、ちゃんと活用した?」

「したよ。先生にも相談した」

「偉い。君はいい例だ。私の理想!」

「千波は?」

「私はダメダメだよー。高校選びも結構重要だったなぁとは思うけど、そこは、少しは巻き返せる。及川家はね、お兄ちゃんにもそうだったんだけど、高校から先はお金は出せないけど自由にしていいよ、だったの」


 中学生の頃には自分の家の財政状況は察していたから、高校に入ってすぐにアルバイトを始めた。だが、未成年が学校に通いながらの三年間で稼げる金額には、限りがある。


「一万円使うのにもすっごーく悩んでた子どもがさ、突然、数百万の世界に投げ出されたの。奨学金にもいくつか選択肢があって、借りた後の返済についても考える。四大? 短大? 私立に公立って何? 専門学校や就職っていう選択肢まである。何を学びたいか、この先どうなりたいか。専攻とか、学部って何だろう? 調べて悩みながら、勉強も同時進行……私は、パンクしちゃった」


 パーンと言いながら、千波は頭の両側で握り拳を開いて、爆発を表現した。


「学びたい意欲と、学びたいことはあったよ。でも金銭面から大学進学は選べない。大卒っていう肩書きの重要性も、あの時の私にはわからなかった」


 大学へ行かなかったことにより選べる職種が一気に狭まることも、給料が低くなることも、あの頃の千波にはわからなかった。

 大人になって実感して、後悔した。


「教師に相談は?」

「小学校からずっと、先生は私の敵だった」


 イメージどおりだなと苦笑を浮かべながら耕平は、片手で千波の頭を抱き寄せる。


「親や兄貴は?」

「お兄ちゃんも私と一緒。わからない中で、人生の荒波に揉まれてた。両親は参考にならなかったなー。あんたは何がやりたいの? しか言わないんだもん」

「……そこから、どうして女優を目指したんだ?」


 千波は耕平の肩へ頬を擦り寄せてから、温くなった芋焼酎のお湯割りをすすった。


「やりたいこと。手の中にあるお金で、目指せるもの。……子どもの頃から歌が好きだったの。住んでた地域に、こども会ってやつがあって、お母さんがよく、子ども向けの演劇を観に連れて行ってくれたんだ。あぁなんて素敵なんだろうって、思った記憶が蘇った」


 いろいろ習ったよと言って、千波が立ち上がる。


「舞台が好きで、ミュージカル女優志望だったの」


 雪景色を背景に、彼女は数種類のダンスを踊って見せた。


「ヒップホップでしょ。バレエに……ジャズダンス。アイドルの真似事だってできちゃう」


 少し前に流行ったアイドルの歌を口ずさみながら、かわいらしい振り付けで踊る千波。

 耕平は素直に感心して、手を叩いた。


「演技のレッスンも、ちょい役で立たせてもらえた舞台も楽しかった。だけどどんなにオーディションを受けても、誰にも、私を欲しいとは言われなかったんだ」


 思わず手を伸ばした耕平の手を取り、千波はソファへ戻る。


「私は、進路を選びそこねた。その先の選択も失敗続き。生きてればどんな状況だって巻き返せる、なんて言う人がいるけど、それはね、努力できる人だけだよ。巻き返すには、かなりの気力と根性がいる。落ちながらあちらこちらに体をぶつけ続けた人間に、そんな気力は残ってない」

「最後の力を振り絞って、ここまで来たんだろう?」

「うん。死ぬ気でやればなんだってできるって言うけどさ、死んだほうが楽なら、そっちを選ぶよって気分だった」

「それなら千波は、死ぬ気で行動したってことだ」


 驚いたように耕平を見上げた千波の表情が、ゆっくり、滲むような笑みへと変わった。


「そうなるのかな?」

「なるよ。あの日、雪の中に倒れてるあんたを見つけた時、死体かと思ってかなり焦った」


 車が近付いても起き上がらない。

 声を掛けても目を開けない。

 間に合わなかったのかと、耕平は焦った。


「こう考えてみたら? 俺と出会ったあの時、及川千波は一度死んだんだ。今のあんたは新しい千波」

「ふふ。何それ」

「ゆっくりでいいよ。頑張らなくていい。千波が腕の中にいるだけで、俺はこんなにも、幸せになれるから」

「やめてよ。惚れちゃうでしょ!」

「口説いてるんだよ」


 顔を近付けても、千波は逃げない。

 触れるだけのキスの後で、耕平は囁く。


「寝る?」

「……そうだね」


 晩酌の後片付けをしてから、歯を磨く。

 二人が向かうのは、二階の寝室だ。二階にあるのは一部屋だけ。キングサイズのベッドとテレビがあって、耕平の服はウォークインクローゼットに収納してある。

 耕平の願望としては、千波の持ち物も増やしてそこへ収納したいのだが、今の所千波の私物はリュック一つ分の着替えと、花柄のエプロンだけ。


「ちーな」


 ベッドへ潜り込んでから彼女の名を呼ぶと、千波は不満そうな顔で、耕平を見た。


「まだ、恥ずかしい」

「それ逆効果だからな?」


 二人の夜は、まだ終わらない――。



   ※


 まだ夜が明けきらない時間。

 下腹部の鈍痛で目が覚めて、千波はトイレに向かう。


「なんだ。生理、来ちゃった……」


 リュックの中から出した痛み止めを飲んでから、ベッドで眠る耕平の腕の中へと戻って、目を閉じた。


   ※



 朝の日課の雪かきを終わらせた耕平が、キッチンで朝食の支度をしている千波の顔を見て首を傾げる。


「なぁ、なんか……顔、白くないか?」

「寒かったよね。ご飯すぐできるから」

「俺じゃない。千波の顔」


 キッチンへ入った耕平は手を伸ばし、千波の額に触れた。


「熱は、ないか。むしろ、体温低い?」

「そんなに白い?」

「蒼白って感じ。体調悪いのか?」


 顔色を隠すための化粧品がないのが敗因だと自覚して、千波は白状する。


「私ね、かなり重いほうで」

「何が?」

「耕平くんとの、赤ちゃんのことなんだけど」

「つわりか!」

「違う。できなかったほう」


 一瞬喜んだ耕平は、千波の顔をじっと観察しながら、言葉の意味を咀嚼した。


「……生理?」

「せいかーい」

「重いって、どうなるんだ?」

「私が倒れて意識失っても、心配しないで。体温が戻れば、大丈夫だから」

「そこまでって……寝ろ! 今すぐ!」

「うん。洗濯と掃除が終わったら、ソファで横になるね」

「いいよ、やらなくて。飯は食えるのか?」

「体温上げたほうがつらくないから、食べる」


 耕平の母は、生理なんてものが毎月来ていたのかわからないほど、ケロリとしていた。

 学生時代つらそうにしている女生徒は見掛けたが他人事で、恋人がいた時には、行為ができない期間という認識でしかなかった。


 向かい合って食事をしながら、どんどん血の気が失せていく千波の顔を、ハラハラしながら見守る。

 千波が、体調が悪い中作ってくれた食事をゆっくり味わう余裕もなくて、急いで腹に収めてから、共に眠るようになって使わなくなった客用の布団を引っ張り出して、リビングに敷いた。


「千波、いいって。もう寝れ。薬とかあんのか?」

「痛み止めがある。大丈夫だよ、病気じゃないんだから」

「病気じゃないのに、そんなに顔が真っ白になるのかよ」

「なるんだよー」


 千波の返答には、力がない。


「手、震えてる。寒い?」


 もう見ていられないと、耕平は強制的に千波のエプロンを外して抱き上げた。


「待って。寝るけど、痛み止めが飲みたい」

「他に何が欲しい?」

「ペットボトルにお湯を入れて、タオルで巻いたの、作ってもらってもいい?」

「わかった」


 痛み止めを飲んでから千波は布団で横になり、ペットボトルで作った湯たんぽを腹に乗せて、目を閉じる。

 耕平が朝食の後片付けを終わらせてから様子を見に行くと、既に寝息を立てていた。


 念の為、書斎のドアは開けたままで仕事をする。


 何度か様子を見に行ったが寝返りを打った様子もなく、千波は、同じ姿勢で眠り続けている。


「昼飯、何か食えそう?」


 正午になっても眠り続ける千波を揺り起こしたが、小さな声で食べないと返答して、すぐにまた眠ってしまう。


 さらに三時間が経ち、本当にこれはこのままで大丈夫なのか、不安になった。

 インターネットで検索してみれば、今の千波のような症状の女性は結構いるようだとわかる。

 痛み止めの副作用なのかと考えながら、千波の短い髪を撫でた。


 起こしたほうがいいのか、このまま寝かせてやるのが正解か。


 友人の奥さんが重くて大変だと言っていたことを思い出し、ラインで聞いてみることにした。

 質問を送ってから少しして、音声通話がかかってくる。


「なーした、コウちゃん。さっきのライン何? なしたの?」


 電話相手は友人の奥さんであり、耕平にとって、小中の同級生でもある。


「書いたまんま。生理中の女性が、痛み止め飲んだ後、七時間も眠り続けてるんだ。このまま寝かせておいて平気か? それとも病院、連れて行った方がいいのか?」


 夜の睡眠時間が足りていないということは、ないはずだ。

 体力のない千波の負担とならないよう、時間は気にしている。


「いやぁ……寝てるだけしょ。吐いたり、震えたり、冷や汗かいてたりはする?」

「痛み止め飲む前は震えてた。今はぐっすり、ただただ、眠り続けてる」

「したら、病院はやめてあげて。もしかしてそれ、湘南ナンバーの車の持ち主? 最近ずっと、コウちゃん家の駐車場に止まってるしょ」

「今、俺、心配でそれどころじゃない」

「湯たんぽあったら下腹に乗せて、温かくして、そのまま寝かせてあげれ。自然に目を覚ますから」

「わかった。ありがとう」

「なんもだよー。湘南ナンバー、村中の噂になってるよ。ノブが、内地の親戚が来てるって聞いたって言ってたけど、コウくん家みんな道内だったっしょ?」

「一人、イトコが東京にいる」

「それタケ兄でしょやー。タケ兄が来たんなら、コウくんそう言うでない」


 予想はしていた。

 近所の人間が見慣れない車を見掛ければ、誰が来たのかと話題にのぼる。


「落ち着いたら、説明する」

「したら、待ちますよ。したっけねー」


 通話を終了してから、ほっと息を吐く。


 その後千波は、日が沈む頃に目を覚まし、夕飯の支度を整え食事と風呂を済ませてからまた、眠ってしまった。

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