第7話 はじまりの朝(SIDE千波)

「千波」


 昨夜教えたばかりの名を呼ぶ、低い声。


「はらめばいいのに」


 大きな手が、千波の腹を撫でていた。

 半覚醒の頭が彼の発言を咀嚼する。

 昨夜の出来事を思い出し、「あれ?」と思い目を開けた。


「起きた?」

「お、はようございます」


 自分はいつ、眠ってしまったのだろう。

 彼はちゃんと、眠ったのだろうか。


「ここ、耕平くんの部屋?」

「ここのほうが寝心地がいいから、運んだ。……体、つらくないか?」

「だいじょ――ば、ない」


 千波自身、自分でも変な日本語だとは思ったが、立ち上がろうとして立てなかったのだから仕方がない。

 初めてではないのに。恐らく、体格差のせいだ。


「朝からは、できないか」


 残念そうに呟く耕平を、真っ赤だと自覚している顔で千波が睨む。


「ふ、服、ない」

「俺のなら、すぐ出せる」

「貸して欲しい」


 千波の着替えは一階だ。裸のままでは、取りに行けない。

 下着姿の耕平が、キングサイズのベッドから出てクローゼットへと向かう。

 筋肉質な後ろ姿。直視できなくて、千波は目をそらす。

 目が覚めてからずっと、恥ずかしくて顔が熱くて、たまらない。


「千波」


 名前を教えるんじゃなかった。

 なんだこれと、千波は思う。

 もしこの状況を漫画で描くのなら、耕平が呼ぶ千波の名前はきっと、キラキラ輝いている。


 耕平のとろけるような笑みに見惚れている内に唇が重なって、深い口付けになった。

 慌ててたくましい肩を叩けば、ぶつかったのは不満そうな顔。


「今晩もシたいから、今日はここでずっと寝てるか?」

「こ、耕平くん!」


 耕平の手の中のTシャツを奪い、千波は急いで頭から被った。


「昨夜のことだけどっ」

「何? 忘れたとか、言わねぇよな?」


 一気に耕平の機嫌が急降下。

 慌てて、千波は覚えてると答える。


「よ、嫁に来いって、言われた」

「うん。言った」

「ゴム」

「してない」

「そ、そのまま?」

「出した。ちゃんと許可取っただろ? 千波もいいよって言った」

「い、言ったな。私」

「だろ?」


 目元にキスされ、千波の胸がきゅんと鳴る。


「嫁って……どうしてか、聞いてもいい?」

「惚れた」

「私の、どこに?」


 耕平の右手が千波の頬を撫でた。

 千波の心臓は、壊れたように激しく鳴り続けている。


「真面目だからこそ考え過ぎて、生きづらそうなところ。あんたが安心して周りの景色を楽しめる場所に、俺がなりたい」

「会ってから、まだ、一週間も経ってない」

「この先あんたが選ぶ道の、一つの選択肢として考えてくれればいい。でも子どもができたら強制的に結婚な。絶対幸せにするし。俺ならできるし」

「すごい自信だね?」

「まぁな。早く俺に惚れろよ、千波」

「とりあえず、避妊はして欲しい」

「……わかった」

「今、舌打ちした!」

「気のせい気のせい」


 やけに楽しそうに笑った耕平に抱き上げられ、千波は一階へと運ばれた。


 着替えと朝食を済ませた後で二人は、ダイニングテーブルで向かい合って座る。

 耕平の傍らにはノートパソコン。千波の傍らには、財布がある。


「改めて。及川千波と申します」


 財布から自動車の運転免許証を取り出して、千波が耕平へと差し出した。


「なんだ。年上って言っても二つか」

「てことは、耕平くんは三十? もっと若いかと思った」


 千波の手に免許証が返され、代わりに耕平がパソコン画面を見せる。


「これが俺の仕事。これが小説で……村おこしの一環で、ネットに上げるこういう文章もたまに書いてる」


 耕平がタッチパッドを操作して表示された画面は、森野耕平というキーワードで検索した情報だった。


「……これ、映画化って書いてある」


 千波が指差したのは、一冊の本のタイトル。それは、あまり映画を観ない千波にも見覚えがあった。


「観た?」

「宣伝は観た」

「千波は、どんな映画が好き?」

「昔は好きだったけど、最近は全く観なくなった。音楽聴きながらぼーっとしたり、スマホで漫画ばっか読んでたよ」


 映画を観ると、自分の挫折を思い出す。


「村に図書館があるけど、行くか? 確か漫画も置いてる」


 苦笑を浮かべ、千波は首を横に振る。


「村人は、みんな知り合いなんでしょう?」


 昨日、湖の帰りに隣町で買い物をした理由。

 耕平は、千波を連れて村で買い物をすれば、あっという間に噂が広まると言っていた。


「親戚じゃないのは、きっとすぐにバレる」

「そんなに深い付き合いなんだ?」

「それもだけど、俺、絶対好き好きオーラが漏れる」

「そ、れは……なんとまぁ」


 両手で顔を覆う耕平を見て、思わず千波の顔も赤く染まる。


「このパソコン、好きに使っていいから。仕事探すにも、この先の生き方を決めるにも、情報がないと困るだろ?」

「なんか本当、何から何まで」

「いいよ。乗りかかった船ってやつ。それと、惚れてもらうための下心」

「……耕平くんと結婚したいって人、たくさんいそう」

「いやぁ。俺、モテないよ」

「嘘だぁ」

「そう思うってことは、少なくとも千波自身が、結婚相手として俺をいいなって思ってるってことだよな?」


 嬉しそうに笑った耕平が千波の唇にキスをして、仕事をしに書斎へ向かった。

 大きな背中を見送った後で、残された千波は一人、ダイニングテーブルに倒れ込む。

 耳と首筋が、真っ赤に染まっていた。


「プロポーズが唐突過ぎるよ! 何? 何が起きたの?」


 小声だが、心境的には絶叫だ。


 全てを捨てて逃げて来た先で、親切にしてくれた人から嫁に来いとの突然の誘い。

 何かのドッキリだろうかと思うが、千波にドッキリをして誰が楽しいのか。需要がないだろう。

 万が一詐欺だとしても、千波にお金はない。ほぼ身一つだ。

 体目的だと思うには……あまりにも大切に扱われた昨夜の記憶が、否定する。

 臓器が目的かもしれない。それならそれで、彼がくれた親切に報いることができるなら、構わない。


「惚れない要素がない! 理想の結婚相手じゃんよぉ……」


 とりあえず、迷惑を掛けない人間を目指そうと方針を固める。好意に甘えてばかりは良くない。そんな自分は、殺したくなる。

 移住するにしても仕事は必要だ。千波に何ができるかは、わからないが。


「耕平くんの子なんて、絶対愛しい」


 自分の腹をさすりながらパソコンに向かい、生きるための情報収集を開始した。

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