積もる人

東武東上線は、地下鉄副都心線に繋がっている。地下鉄副都心線は東急東横線に、その東急東横線はみなとみらい線に繋がっている。東京の路線図はよく分からない。

何が言いたいかと言うと、線路に沿っていけば横浜に着くのだ。

僕達はこれから歩いて横浜から東海道を渡り、山口県の西端である下関市まで行く。そこから朝鮮半島にたどり着こうという訳である。

海は陸より危ないのは、遣唐使が何度も証明している。なので、朝鮮半島に最も近いところから大陸に出る。


「神様がいるなら、どうか家族を見守りください」

なんとなく辺りに灰が積もった川越氷川神社。関東では有名な縁結びの神社だ。

 ふんわりと灰が積もった境内を歩き、その御神木の下に、瓶に詰めた家族の灰を置いた。 そして一礼をして、神社から出た。

 最期の川越巡行。もう嫌になるほど見た川越の土地、坂、道路、駅、建物、そして空。

 

「お世話になりました」


僕は、家のドアを閉められなかった。でも、行かなきゃいけない。

それは、別に風佳が前にあんな事を言ってパリに誘ったから、というわけではない。

僕は、結局、何かに甘えていたいだけなんだ。川越という街に。誰もいない自分の家に。

 本当に行かなきゃいけないのか?

 別に川越に残ってもいいんじゃないか?

 どうして、今頃、ユーラシア大陸の真反対になんて…。


 自分が弱いことなんて、自分が一番知っている。変化が怖いのだ。

 流動する世界に恐怖し、流動する他人に恐怖した。僕がメドゥーサなら、みんなの流動性を勝手に消してしまいたい。

 そんな自分が嫌だった。昔からそうだ。 みんなが楽しんだり、能動的に行動している様を見て、流動を恐怖する僕は、冷笑の形態に入っていたのだ。「意識高い系」とか、「何マジになっちゃってんの」とか、そんな言葉で中身が無くすべてを恐怖する僕の心を守っていたんだ。


 変えないと。 

 変えるなら今しかない。

 さあ、ここで鍵を掛けるんだ。自分の家に鍵を。


「…」



 手の力が抜ける。同時に、足の力も抜けて、僕はぺたっと自分の家のドアの前に座り込んでしまった。



「お兄い?何やってんの?そんなところで座ってたら風邪引くわよ?」

「ま、舞…」


 妹だ。舞だ。玄関のドアがガチャリと開く。 夜の川のように美しい髪の毛を肩にかからないくらいでカールにしている。所謂ボブだ。

 女子高生らしからぬ、中学の時のジャージのまま出てきた。

「舞…僕…俺、怖い…訳も分からずパリに行こうって言われて、舞とも川越とも離れなきゃいけないの、怖いんだ」

「はァ?知らないわよそんなこと」

 舞はいつものように素っ気ない態度だった。「お兄いのそういう優柔不断なところ、ホントモテない男ってカンジ。あり得ない。だから大学も落ちたんじゃないの?」

「ま、舞、でも」

「いいじゃないの。どうせ川越にいたって何も変わらないわよ。誰もいない世界でまた受験勉強でもするワケ?」

僕がずっと黙っていると、舞はため息をついた。「ま、いいわ。」

「まぁ、その、私もまたお兄いについていくから。安心して。お兄いは私がいないと優柔不断でダメダメ、ファッションセンス皆無のもっさりダメ男だもの。今はお化粧直しの時間」

舞は僕の顔をじっと見た。「マヌケな顔。変わらないわね」

「舞、待ってよ…」

「大丈夫よ、また迎えに行くから」

 舞はそうして、ドアを閉めようとした。僕はドアの隙間に手を伸ばす――


バン。

 右手の中指をドアに勢いよくぶつけた。突き指。

 ドアの中に、当たり前であるが結はいなかった。 僕はまた、家の中に戻る。

 

 キッチンの中から、僕と結が母さんから隠していたポテトチップスを出す。袋の上部を引っ張り、そのまま接着部分を丁寧に剥がしていって、袋を一枚の紙のようにする。そのまま、舞の部屋をノックして、ソファに座る…

「…あれ」

 もう、誰もいないはずなのに。

 僕以外、誰もいないはずなのに。

 どうして僕は舞の部屋をノックしているんだろう。

 どうして僕は、ポテトチップスを、二人で食べられるようにセットしてしまったのだろう。

 どうして僕は、この白昼夢に縋って抜け出すことができないのだろう。

 ソファにかけられている緑色の布製カバーは、何かの水分を吸って、色濃くなっていた。

 

 これが鼻水か唾液か、涙なのか、もうわからなくなっていた。 嗚咽しながら食べたポテトチップスののり塩味は、心做しかいつもより塩分過多な気がした。



 


「……」


 ソファから起き上がる。ソファはまだ湿っていた。目が痛い。 時計は朝の5:30。

 しばらく、ソファの上で、家をずっと見つめていた。そしてリュックを持ち、家の非常食や水、懐中電灯をその中に肩が保つ限り敷き詰めた。 

 ラジオは当たり前だがどことも引っかからない。置いていった。

 最後に、舞の部屋に入り、僕に時々見せてくれていた、彼女の日記を入れた。

 もし舞が生きていたなら、これを渡そう。

 コンバースのスニーカーは長時間歩くのには向いてない。僕は父の登山靴を履いた。

 玄関から、家を見渡し、玄関を出、ドアを閉める。


「おかえり結」

「行ってらしゃいお兄ちゃん」

「受験はどうだった?」

「風佳ちゃんとは仲良くやってる?」

「お兄ちゃんさ、もっと元気だしなよ。仮にも世の中にはお兄ちゃんのランクの大学にも行けない人がたくさんいるのよ」


玄関から聞こえてくる。

「さようなら」

僕は、

思い出の詰まった灰箱に、

蓋をした。





「行く前から疲れているね、君」

「……」


川越城で待ち合わせをした風佳には呆れられた。風佳は陸上自衛隊の小銃を持ち、リュックは大きく膨れている。そして相変わらず高校の制服。僕は銃はもっておらず、リュックだけだ。登山用の道具を引っ張り出してきて、着ている。


「別れがあるから出会いが楽しくなるのだよ、まぁここでの出会いは私しかないがな」

「……」

「くよくよしていたって始まらない。君の悪いところだぞ、そういうの」

「そんな事言われたって!分かんないよ風佳には!浮世離れした風佳にはわかんないよ!いきなり世界が灰ばっかになって、それでよくわからずに君についていったら、パリに行こうだって!?意味がわからないよ!もう何が何だかわかんないんだよ!」


言葉の限り、僕はそう叫んだ。風佳が一歩引き下がったのが見えた。


「……意味分かんない…いだだだだだだ!!!耳を引っ張らないで!」

「行かないならこうするのみだろう」


風佳の久しぶりのふくれっ面に、僕は苦笑する。なんだかあんなに叫んでいた僕が馬鹿らしくなってきた。

「ごめん、行くよ」

「いや、私の方も悪かった。ちゃんと説明もしてないし」


風佳は、僕の部屋を蹴破った。川越という部屋を。何も得ようとせず、かといって何も失おうとしない僕を部屋から引きずり出した。

そして、獲得と犠牲が表裏一体と化した現実世界へと引きずり出した。僕はそれを受け入れた。


「大丈夫さ、私がいる」


風佳は自信ありそうにそう言うのである。

「少なくとも、モスクワまではな」



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