藤見豆腐店の看板娘

 物語の舞台は未来。

 とはいってもタイムマシンも猫型ロボットもまだ発明されてはいないし、人はまだいつか来る死に怯えて暮らしていた。今と全く変わらないローテクがまだ世界のスタンダードであったり、今ではちょっと考えられないハイテクが世を席巻していたりする。

 そんな、今よりちょっと便利になっているかもしれない、でも必ずしもそうだとも言えないような時代のお話。



 まだ夜明けの名残なごりの薄らと残った、朝の常緑商店街。

 その一画に間口をかまえる、燻されたような渋い色の木と土壁の店舗。風にはためく大きな日除け幕の鮮やかな染め抜きは、その店「藤見ふじみ豆腐店」の名を堂々と、まばらながら道を往く人々に知らしめていた。

「あ、大翔ヒロトおじいちゃん、おはようございます! 今日もお元気そうですね! いつもと同じお豆腐と油揚げですか?」

 その女性は、少し前から店の前で開店待ちしていた客らしき老人ににこやかに声を掛けながら周りの店々に先んじて豆腐店の店先に暖簾をかける。

 てきぱきと作業をして店を開けたその動作には長年の慣れが見てとれたが、それに見合わず、女性はまだ少女と言ってもいいような若さだ。年は二十歳そこそこだろうか。捌きやすいショートボブの髪を三角巾で纏めて、動きやすいデニムパンツと白いカットソーの上に大きく背中に店名の刺繍が施された薄手のジャンパーを着ている。化粧気は薄く決して華やかとは言えないが、細く長い睫毛で彩られた目元が印象的な、清潔感のある可愛らしい女性だった。

 客の老人はその枯れ枝のような手に持った杖を突きながら開店準備を終えた女性に近づくと、舐めるように女性をスニーカーの爪先から頭の三角巾のてっぺんまで見渡した。それから、でれっとした締まりの無い表情と猫なで声で話しかける。

「おはよう、木綿子ゆうこちゃん。今日も可愛いねぇ。家にいるとしわくちゃの婆さんしか見られないから、毎朝木綿子ちゃんに会いにくるのは目の保養だねぇ。……今日は生揚げももらおうかな?」

「まいどー! やだなぁ、大翔おじいちゃんったら! そんなこと言ったら、花菜カナおばあちゃんに怒られますよ?」

 老人のあからさまな好色の色の乗った言葉。木綿子と呼ばれた女性、藤見豆腐店の一人娘である藤見ふじみ木綿子ゆうこは少し困ったような顔をしながらも冗談として笑って受け流しながら、てきぱきとした手さばきで商品を包んだ。

 しかし商品を受け取り、手首に付けたブレスレット型のPDAを読み取り用の機械にかざして身分証明と電子決済での会計を済ませた老人は、皺だらけの顔をしかめて面白くなさそうに呟く。

「あー、大丈夫大丈夫。花菜は最近あれに夢中だから。ほら、あの話題の『過去から来た男』にだよ」

 老人の憮然とした言い草を見聞きすれば、彼がその話題の主にいい感情を持っていないのは明白だった。しかし、思いがけず『過去から来た男』という言葉を聞いて、木綿子は少しだけ気分が高揚してしまっていたのかも知れない。

「ああ、常磐さんですね。常磐ときわ治親はるちかさん。PROJECT:Evergreenに参加して一人地球を旅立って、宇宙を百年旅して先月やっと地球に帰還したっていう。私も驚きましたよ。百年も昔の人のはずなのに、旅立った二十二歳の時と同じように若々しくて。ウラシマ効果っていうんでしたっけ。宇宙船の速度があんまり速いと、時間も追いつけなくなるんでしょうか。そういえば、常磐さんはプロジェクトの主催だった常緑大学エヴァーグリーンの客員教授になったんでしたっけ……ね……」

 そこまで詳しく並べ立てた頃になって、木綿子はそれが失言であったことに気付く。老人は少し引きつったつまらなそうな苦笑いを浮かべて、木綿子を見ていた。

「はは、木綿子ちゃんもあの男のファンなのか。確かにあの容姿と経歴じゃ、女は誰も放っておかないねぇ。俺もあと五十歳ばかり若けりゃあ、張り合うんだけど」

 しみじみとそう嘆く老人をどうフォローしたものか、木綿子は内心慌てて考えていた。

 だがその思考を掻き乱すように、馴染みのない騒音がその場に響き渡る。


 ……ギジャコギジャコギジャコ、ギギーッ!


 耳を塞ぎたくなる、金属の擦れ合うような音。その後に絹を裂くような甲高いブレーキ音。それと共に、木綿子の目の前、老人の居る場所を乗っ取るように、旧式の婦人用自転車ママチャリ

 間違いではない。空から降ってきたのだ。

「おわっ!?」

 老人は素早く後ろに下がることで事なきを得たようだ。木綿子は突然のことにその場から1ミリも動けなかったが、自転車は計ったように木綿子には掠りもせずに彼女の目の前にピタリと止まって見せた。

 驚きに胸に手を当てた木綿子と老人が同時にその自転車の乗り手たる人物を見上げれば、その人物は無言のままに、今の滑り込みの衝撃でズレたらしい黒縁の大きな眼鏡をブリッジを右手の人差し指で押し上げることで元に位置に戻した。

 その自転車に乗っていたのは若い男だった。

 年の頃は木綿子と同じくらいだろう。真っ黒で硬く、そのままではつんつんとハネてしまう髪は切りそろえられきちんとセットもされているし、つやつやと光る革靴を履き折り目のついた細身のスラックスにぱりっと糊のきいた皺のない青いシャツを着ている。ネクタイもきっちりと締められていて隙が無い。

 それだけ見れば、身なりのいい青年、と言って良いだろう。目は眼鏡の奥で常時伏せがちにさせているくせにやけに目力があるし、無表情が過ぎて少し怖い印象も受けるが、おおむね顔立ちも整っている。

 しかし、その出来過ぎたような彼が着衣の上に羽織っているのは、あちこちが薄汚れ擦り切れたよれよれの白衣だった。それだけでもちぐはぐだというのに、スクラップ寸前の古いママチャリに乗って文字通り降って涌いた青年に、木綿子も老人も言葉を無くしていた。

 実を言えば、この時代の空には現代よりも様々なものが飛んでいる。車やバイクが空を飛ぶようになったのはいつの頃のことだっただろうか。今では乗り合いのバスも空を飛ぶ。飛行機(この時代ではバス以上の人や荷を運ぶ大型の飛行する機体に使う名だ)やドローンは言うに及ばずだ。

 しかし、自転車が空を飛ばないことはこの時代においても常識だった。

「そ、荘助そうすけ!? え、自転車……? えっ、えっ!?」

 混乱しながらも、その自転車に乗った青年が自分の知り合いであることに気付いて、真っ先に名前を呼んだのは木綿子だった。

「……ん」

 しかし、荘助と呼ばれた青年は返事になっているのかいないのか判然としない低い声で頷いただけ。そのまま、もたもたとした動作で自転車から下りると、木綿子の横に置かれたガラスのショーケースの中に陳列された商品をちらりと見てから、開いた左手に右手の人さし指を添えて木綿子に提示するとぼそりと呟いた。

「おいなりさん、六つ」

 ショーケースの中は豆腐や油揚げ、豆乳、おからなどを使ったお惣菜やデザートの類いが並べられている。荘助はその中から丸々とした大きなおいなりさんを選んで購入しようとしているらしい。

「えと、いつもと同じね、まいどー……?」

 混乱に頬を引きつらせながらも、木綿子は反射的に自らの責務を果たすために動き出した。てきぱきと動いて六つのおいなりさんをパックに詰めて差し出し、かわりに荘助の手首のPDAで会計をする。

 しかし一通り自分の責務を果たし終えた木綿子は、にわかに正気を取り戻したかのようにはっとして荘助に食ってかかった。

「ちょっと、この自転車はどういうこと!? それに商店街ここは車両の飛行禁止区域だし、第一あんな危ない運転は――!!」

 木綿子の言い分は正論だ。しかし、荘助は受け取ったおいなりさんのパックを自転車の前かごに置くと、その木綿子に手を翳して制してから首を横に振る。

「あ、大学ガッコー、遅れるから……」

 そう言って、下りたとき同様に少しもたつきながら自転車のサドルに戻った荘助は、木綿子に小さく手を振る。

「じゃ」

 軽くそう呟いて、荘助は足に力を入れてペダルを漕ぎ出す。すると、先ほどと同じように金属の擦れ合う今にも壊れてしまいそうな音と共に前進し始めた自転車は、ふわりと重力に逆らって浮かび空へと舞い上がっていった。

「ちょっ……!」

 慌てて店の軒先から飛び出した木綿子が空を見上げると、荘助を乗せた自転車はもう二階建ての藤見豆腐店の屋根よりさらに高くまで飛んでいってしまっていた。

 そしてその自転車の向かう先、空の彼方にあったのは――。

「わ、今日は常緑大学エヴァーグリーンが綺麗に見える……!」

 それは巨大な島だった。遙か昔の人々が信じた世界の姿のように、空に浮いた平らな円盤の上に緑がしげり、水が流れ、幾つもの大きな建物と共に人の息吹がある。円盤の中央には地上から見ても青々として見える巨木がこんもりと葉を繁らせていた。

 荘助の乗った自転車はその島を目指してどんどん高度を上げているのだろう。すぐに豆粒のように小さくなってしまった。

 悠々と空に浮かぶその島の名は、常緑大学、通称エヴァーグリーンと呼ばれる大学だ。キャンパスが丸々空に浮いているのだ。昔はこの辺りの土地にあった大学だが、周辺の土地不足を解消するため浮遊計画が持ち上がり、半世紀ほど前に地球上で唯一の巨大浮遊学府となったのだった。

 大学の中央の巨木はその象徴であり、冬でも青々とした葉を繁らせるその巨木はまさに常緑エヴァーグリーンを体現している。

「……おおとり家の坊ちゃん、相変わらずの変わり者だねぇ……」

 ようやく一息つけたのか、老人がもう空に漂う消し炭のようにしか見えない自転車を見上げながらそう呟いた。

 荘助のフルネームはおおとり荘助そうすけといい、彼の祖父母、そして父と二世代続いて高名な研究者を排出している鳳家の一人息子だ。彼自身も同い年の少年少女たちが高校生になる頃には飛び級で常緑大学エヴァーグリーンの学生になり、現在は院生として研究漬けの日々を送っている。彼も老人と同じように木綿子が軒先に暖簾を掛けるのを見計らって藤見豆腐店にやってきて、毎朝好物のおいなりさんを買って大学へと通学するのが日課だった。

 木綿子の母である絹子と荘助の母が友達同士であることもあって、木綿子と荘助は幼稚園に上がる前からの付き合いだ。木綿子の方が学年で言うと一つだけ年上なこともあり、小さい頃は明るく社交的な性格の木綿子が先頭に立って歩き、その後ろを遠慮がちに荘助が付いてくるような関係だった。

(たしかに元から口下手な子ではあったけど、昔は『木綿子ちゃん、木綿子ちゃん』って呼んで一生懸命付いてきてくれたのに、大学に入った頃から見た目も態度も急にふてぶてしくなっちゃって……可愛くない!)

 成人男性に子供の頃と同じような可愛さを求めても仕方ないとは思いつつも、昔の美しい記憶が蘇ってきてなんとも言えない気分になる。しかも今日の登場の仕方や態度ときたら。

(あんな危ないことして、謝りもしないなんて!)

 苛立ちにぎゅっと唇を引き結んだ木綿子だったが、すぐに今自分が接客中であったことを思い出して目前の老人に確認するように話しかけた。

「あっ、大翔おじいちゃん、大丈夫でした? 怪我はないですか?」

「あ、ああ、こっちはなんともないよ。木綿子ちゃんも大丈夫かい?」

「はい、私も特には……。もう、あんな危険な運転して、荘助にも困ったものですね。せっかく頭がいいのに、ろくなことしないんだから……」

「はは、たしかにねぇ。でも、大成する人間っていうのは若い頃は得てしてそういうもんだよ、木綿子ちゃん」

 そう言うと、老人は手にした杖で両手を支えて昔を思い出すかのように目を閉じた。

「彼の祖父と俺は同年代だがね、今や大先生ともてはやされてるあいつも昔は程度の低い悪戯を繰り返しては周りを呆れさせたものさ。まあ、高校生になる頃にはそういった悪癖は大体なりをひそめたがね。それを考えると確かにあの坊ちゃんはまだちょっと子供っぽいのかもしれないねぇ」

 懐かしむようにそう言う老人。しかし木綿子は唇を尖らせて上空を見つめる。もう既に荘助の姿は遠く、見えなくなっていた。

「悪戯も困りますけど、今の荘助は立派な法律違反ですよ。今度見かけたら警察に突き出してやらなきゃ……」

 ぶつぶつと呟かれる木綿子の言葉に、老人はふと愉快そうに相好を崩した。

「そうだねぇ」

 しかし、老人は続けて木綿子には聞こえないように呟く。

「……ま、あの坊ちゃんはそんなヘマを踏むタマにゃあ見えないが」

「……? 何か仰いました?」

 呟きが微かに聞こえたのだろうか、不思議そうな木綿子の顔に、老人はしれっとした顔で微笑んで首を横に振った。

「いや、何も言ってないよ。それよりさっきから気になってたんだが、今日は親父さんたちの姿が見えないけどどうかしたのかな?」

 そういえば、店には今木綿子一人しか出ていない。小さな店のこと、一人でも回せるには回せるが、いつもならば木綿子だけでなく両親も一緒に店に出ていることが多いのだ。

「ああ、お父さんとお母さんは裏の工場です。今日は大口の注文が入っているので、夕方までに数を揃えて届けないといけなくて」

「なるほど。じゃあ今日は大忙しなんだねぇ」

「あはは、まあでもうちみたいな小さな店は生き残りに必死ですから、忙しいのは有難いです」

 そう言って明るく笑う木綿子に、老人は感心したように頷いてみせた。

「そうかい、じゃああんまりお邪魔しちゃいけないねぇ。またね、木綿子ちゃん」

「お気遣いありがとうございます、また次もご贔屓ひいきにお願いしますね!」

 明るい笑顔で老人を見送ってから、木綿子はさてと気合いを入れ直す。老人に言われた通り、今日は忙しいのだ。しばらく工場から出てこられないだろう父と母の分も、目一杯店を切り盛りしなければ。

 木綿子はすうと大きく空気を吸い込んで、上目遣いに青く広い空を見た。

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