EP13 カイン

 教会有利で停戦の方向。その方針は七つの丘を大いに困惑させた。


「馬鹿な。今回はカイロが落ちるまで続けるんじゃなかったのか」


 ピーターは吐き捨てるように言った。


「このままじゃ我らは大損。フィッシャーマンズ商会が破綻しかねん」


 奥の男は重々しくつぶやくが、ピーターが「『しかねん』じゃねえ、するんだよ」と言い返した。


「そんなことは許容できんぞ。そもそもどうしてこうなった。ウェリア、説明してくれなければどうにもならん」


 グレゴリウスは陰鬱そうな顔をゆがめて説明を始めた。心なしか顔がやつれている。このところの心労は察するに余りある。むしろ飄々としていられるピーターの図太さの方が異常だ。


「小麦の値上がりに音を上げた。コンスタンティノポリス総主教自身は挑戦的だが官僚からの突き上げもある。そうリスクは踏めんということだろう」


 グレゴリウスが口にしたのはあまりにも普通の理由だった。確かに両陣営の被害が小さい今なら講和も容易だろう。だが認めるわけにはいかない。


「案があります」


 皇帝はやはり浮かない顔だったが、それでも策を出し続ける。一体何がそこまで彼を突き動かすのか、あまりに陰鬱な帝国の現状を見てなお言い続けられるのか。その答えを他の七人の誰も持ちえなかった。


「……聞こうか」


 誰ともなしに小さな声で促す。半ば、彼らも予想がついていた。誰もそれを言い出したりはしないが、それしかないことはよく知っている。


「やはり泥沼を深めるしかない。東方のムスリムを使いましょう」


「そう簡単に奴らとて動かんだろう。食糧不足の影響は向こうにもある」


 わかっていた結論に反論をぶつけるのはやはりピーターだ。


「アレクサンドリアにおけるムスリム迫害の確たる証拠をばらまけば、動かざるを得ないでしょう」


 ムスリム同胞が迫害を受けている。軍事侵攻には十分すぎる自由だ。少なくとも前例はいくらでもある。


「さすがの私でも、アレクサンドリアでのムスリム迫害の証拠は持っていない。ゴルゴダにはあてがあるのか?」


 グレゴリウスは厳しい声音を崩さずに言った。


 皇帝はゆっくりと首を振った。だが、無いならば集めればいいのだ。皇帝はゆっくりと右を向き、20代ほどの男を見据えた。


「――アレクサンドリアで処刑されたムスリムの手記ならある。あといくつかムスリム商人が財産没収された時の台帳も」


 男のコードネームはファグタル。本名をカール・ルーベンスという。ゲルマン人とローマ人のハーフで総主教の密偵ということになっている。


 だがその正体は総主教庁に使えるものではなく、七つの丘の幹部ロードの一人。スパイ行為に長けた若い男だった。


「ロード・ファグタル、完璧です。それを元老院から正式にムスリムに譲渡させる。これでムスリムは動かざるをえなくなる」


 ムスリムが動けば、パワーバランスは一気に傾く。教会有利の現状は元老院有利へ、単なる局所的な攻城戦から戦略的な戦争へ。


「何人死ぬと思ってるんだ。ゴルゴダ、戦死者の血は眠らないぞ!」


 グレゴリウスは反対する。


「ロード・ウェリア。我々がここで倒れれば、もっと多くの人が死ぬ。七つの丘の勝利は最終的なテーマの達成です。それによって多くの人が救われる。そのために私たちは策謀をめぐらし、戦うのです」


 グレゴリウスはこぶしを握り締めて、絞り出すように声を出した。


「たった一人の復活を認めるためだけに、一体何人が死ねばいいのだ」


「力不足を嘆くしかありません。我々の権力は帝国の広大さを考えれば、無いに等しいのですから」


 皇帝は眉一つ動かさず言った。暗い地下室に淀んだ空気が流れる。


「……その案でいくとして、どうやって元老院を動かす」


 奥の男はあくまで議事を進めるつもりだった。


「ロード・キスピウスがロード・オッピウスの原稿を読むしかないでしょう。材料はそろっていますし、スキピオ家は乗ってくるはずです」


 スキピオ家はアレクサンドリアの流通網を狙っているはずだ。小麦のバリューチェーンを丸ごと抑えられる機会をみすみす逃すとも考えにくい。


「やるしかないようだな」


 マルクスとルキウスは覚悟を決めた。何人死のうと、志を果たす。その覚悟が実を結ぶ日が来るのだと信じて。

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