EP11 スタグフレーション

 かくして起こった狂乱物価はすぐに地中海の諸都市に広まった。ジェノバ、ヴェネツィア、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、バルセロナ、マルセイユ。逃れることができたのは備蓄の小麦があったほんの一部の都市だけだった。


 だがそれも時間の問題であることは明らかだ。多くの市民は13年前のブリテンで起こった大飢饉のとき、庶民がどうなったか知っている。そのことは市民による自衛のための買占めを加速させ、物不足を加速させ続けている。もちろんその裏には綿密に計画されたルキウスのプロパガンダが働いていることは言うまでもない。


 すべての市民は小麦不足の打撃を受けている。まして軍を動かしているマルコには大きな痛手となった。


「このままじゃ騎士団は飢え死にだ。どうする?」


「ともかくコンスタンティノープルには使者を出すとして。……予算を増やして小麦を買うしかありません。カイロの小麦が今年は取れないのは確定しているのですから」


 確かにマルコにも、五大総主教の誰も小麦の収益を惜しんで帝国を逃すことなど望んでいるまいということはわかっている。とはいえ予算は有限。民から搾り取った税金もこのままの相場なら尽きかねない。


 当然のことながら、ローマに破産などという優しい制度はない。金がなくなった組織の構成員は即奴隷狩りの対象だ。情状酌量も執行猶予もあり得ない。


「仕方あるまい。どこかからアレクサンドリアの徴税権を抵当に金を借りるか」


「わかりました。では証文を作っていただければすぐに騎士を向かわせましょう」


「どこの商人から借りる?」


 騎士団長は数秒考えこんだがじきに結論を出した。


「バグダードからがよろしいかと」


「……ムスリムか」


「まあ、イスラム教徒ではないでしょうが」


 イスラム教では利子をつけての貸付は禁止されている。それはキリスト教でも同じ話だ。ただ、キリスト教の方がほんの少しだけ柔軟で、黙認する代わりに献金を要求することで教会を潤している。それが問題になることはたびたびあるが、少なくともマルコは問題視していない。不信心者の汚れた金で清い神の宮を保つのだ。何の問題もあるまい。


 しかしイスラム教ではそれは許されていない。商売として貸し借りをするものは同胞として扱われないし裁判や取引で不利に働く。厳格なシャリーア法から落ちこぼれ、我々キリスト者からもムスリムからも煙たがられる日陰者だ。


 本来であればアレクサンドリアの商人から金を借りるのが筋だが、彼らもすでに内部留保を食いつぶして生きながらえている状況で無理は言えない。他の総主教も軍を動かしていて余裕がない。となれば外部から融資を受けるのも仕方がない。


「事ここに至っては手段は選ぶまい。その金でアレクサンドリアの商人を経由し、小麦を買い付ける」


「かしこまりました。それでは証文をこちらに」


 アレクサンドリアの商人たちの金が尽きるのは早かった。小麦の以上な高騰で予算は大炎上しているが、だからといってカイロ侵攻をマルコの一存でやめるわけにはいかない。これは五大総主教座の総意なのだ。コンスタンティノープルが翻意すれば話は別だが、五分五分といったところだ。


 ため息を短く吐いて、返せなければ何もかもを失うことになる借金の証文にサインする。抵当にしたアレクサンドリアの徴税権は教会の主要な財源。これを失えばアレクサンドリア総主教庁は崩壊待ったなしだろう。アレクサンドリアの官僚はこれを知れば怒り狂うだろうが、知ったことではない。


 一応、コンスタンティノポリス総主教庁からの返事を待つよう団長に指示しておく。


 マルコは多くの傷を負いながらもいまだ健在の城壁を見上げた。


「早く落ちてくれよ」


 懇願するように言ったその言葉は天へと届くだろうか。

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