0002:転落(2)

「よう兄弟、元気出せよ!」


聞き覚えのあるセリフを放ったその男にノグチは心当たりがなかった。そもそも彼に兄弟はいない。何を言ったらいいのかわからず困惑しているノグチに構わず男は続けた。


 「自分に兄弟なんていないとか無粋なこと言うなよ?俺たちは実質兄弟みたいなもんだ。まあすぐにその意味がわかるよ」


終始その男がニヤニヤとしているのも気味が悪いし何より今の彼には人に構う心の余裕がなかった。


「なにかの人違いだろう。すまない」


そういってノグチは暖房でぬるくなった残りのアイスティーを飲み干し、席を立った。つい数日前までは特に楽しみもないとはいえ、街を歩くだけで苦痛を感じたりしなかった。今は何を見ても今の自分の境遇に重ねてしまい、気分が悪くなる。家に帰ったら彼の妻は何やら忙しそうにしていた。だがそのことすらもどうでもよく、その日は夕飯時に何を話すこともなく風呂に入ってそのまま眠りについた。数日経ってハローワークにでも行かなければならないのかなどとぼんやり考えていた彼を妻が呼んだ。リビングに入ると大きなバッグを足元に置いた妻が一枚の紙を持って立っていた。彼は人生で初めての経験であるにも関わらず妻の次の言葉を知っていた。


「離婚しましょう」


そうだろう、と彼は思った。常日頃彼と結婚したままでいるのは収入があってこそと言っていた彼女が収入のなくなった男と結婚しているわけがない。愛情などとうの昔になくなっていた、いや最初からなかったのかもしれない。そんな彼らを結びつけていたのは金だった。最近やけに荷物を整理したり家の前に車が止まったりしているなとは思ったが妻は準備を進めていたというわけだ。それからのことはあまり記憶がなかった。何枚か書類を書いた気がする。生命保険に関する手続きは滞り無く進んだ。離婚するから受取人を変更したい、そういった手続きを何度かしたことはあったがまさかしてもらう側になるとは思わなかった。妻はだいぶ準備を進めていたみたいで離婚手続きは素早く終わった。


「あんたと結婚したことを後悔してるわけじゃないわ。感謝してることもある。でも、もうおしまいね」


妻が無表情で定型文をいうので彼は妻は機械なのかもしれないな、と思った。この時点で彼に正常な思考はできなかった。妻が家を出るという日に彼は玄関先まで送り届けた。妻が乗り込もうとしている車はタクシーには見えないな、とぼんやり思っていると運転席のドアが開いた。そこから現れた人影に彼は見覚えがあった。


「俺が言った兄弟って意味がわかったかい?わからなかったらそれでもいいが、俺だって申し訳ないとは思ってる。俺の会社で面倒見てやってもいいぜ」


そう言って金髪男は名刺を渡してきた。呆然とするノグチを置いて二人は車に乗り、去っていった。後で調べてみたら男は最近急成長中のベンチャー企業の社長だった。ふと初めてあの男にあった日のことが思い出された。あの日なんで妻は上機嫌だったのか、なぜあの男がノグチのことを兄弟と呼んだのか、それらをす別理解したときノグチは吐いた。解雇されることはあくまできっかけでしかなかった、いつかは切り出される離婚だったのだ。それがノグチの解雇で早まったというだけのこと。


 数刻経ってノグチの精神も少しは回復した。死んでもあの男の世話になどなるものか、自分だって友人ぐらいいる。そうつぶやいてノグチは携帯を手にとった。しかし


「お前……解雇されたんだっけか。なんかお前の会社、あぁ元か、まあ何にせよあの会社今大変らしいな……でもさ、なんかそういうのってやめねえか?なんか友達同士で貸し借り作るとかさ……奥さんのことも含めて気の毒だと思うけど、そういう要件ならもうかけてこないでくれ」


友人から、いや友人だと思っていた人間からの返事はどれも冷たかった。これには理由があった。そもそもノグチはもともとバリバリ稼ぐことは期待されていなかった。小学校ではすべての授業がつまらなかった。クラスメイトの質問はすべて低レベルに感じた。授業中、なぜそんな低レベルな質問しかできないんだ、当たり前だろうそんなことは!と苛立ちをノグチ一人が感じていた。ノグチは気の毒に頭が良かった。その街の教育レベルでは彼の好奇心、学習欲を満たせなかった。中学校に行ってもそれは変わらなかった。高校生になれば別の県の高校に行ける、そう信じて彼は必死に勉強した。しかし、親は彼に県外へ行くことを許さなかった。彼の家庭は貧しかったのだ。彼は地元の高校へ進学した。頭の良かった彼はクラスメイトに頼りにされた。しかし、結局の所彼は都合の良い存在だというだけのことだった。課題の提出日の数日前から彼の机には行列ができた。皆彼のノートを写した。ノグチの中での周りの人間に対する軽蔑心はますます強くなった。だが彼にとっては幸いなことにバイト口はたくさんあった。彼は必死に金をため、大学は都会に出た。親には学費など払わないぞと脅されたが、奨学金がおりたので彼は完全に親と縁を切って進学した。そして保険会社に就職した。当然地元に友人など作らなかった。だから彼の友人はすべて大学に行ってからか就職してから作った。彼の友人たちはすべて彼に保険会社に勤めている男としてしか価値を見出していなかったが、ノグチは友だちを作ったことがなかったのでそれに気づかず、彼の妻ともそのコミュニティで知り合った。無職になり、妻にもいなくなられた彼と仲良くするだけで自分の品位が下がる、そう彼の友人達は考えたようだった。彼は放心状態で最後の頼み綱にすがった。しかし


「あなたの方から縁を切ったくせに随分と都合のいいことじゃない。今更何をしてあげようとも思わないわ」


彼の親は彼に冷たかった。思えば自分が拒絶したせいで何一つ親子らしい思い出もない。そんな息子に愛情を抱けないのは当たり前といえばそうだろう。彼はもう何をしたらいいかわからなかった。常識的に言えばハローワークにでも行けばよかったのだが、ここまで踏みにじられてねじ曲がった彼のプライドがそれを邪魔した。絶望に取り込まれた彼は静かにある場所へ向かって歩き始めた。

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