スナップショット

 私たちはボクシング部の電脳空間へとやって来た。

 そこは建物の中のようで、部屋の中央にはリングがひとつ設置されており、天井の照明が眩く照らしている。周囲を客席が囲んでいるが、客の姿はない。

 まるでボクシングの試合会場のようだ。


「電脳鑑識委員が事件発生時の証拠を持っていたということは当然『スナップショット』は取ってあるんですよね?」


 リング台に寄りかかった青山さんが丹下部長さんに向かって尋ねる。


 スナップショットとは簡単に言ってしまえば、電脳空間のある瞬間を切り取って保存したものだ。

 電脳空間において、データは時間の経過とともに変化したり消えていってしまう。これには様々な要因があるのだが、捜査の証拠となるデータが事件発生時と捜査のタイミングで違うというのは由々しき問題である。

 犬刃鑑識委員の『下手に踏み入れば《《現場が荒れるだけ》』という発言は、このデータの変化のことを言っていたのだろう。

 事件発生と同時に電脳鑑識委員会が現場に即急行して捜査を行えればいいのだが、現実的に考えてそれは難しい。

 そんな時に役に立つのがこのスナップショットだ。


 使い方は事前に電脳空間の管理コンソールからスナップショットを取得しておくだけ。あとは簡単な操作だけで、メモリ、ストレージデータ、ログといったあらゆるデータの状態をスナップショット取得時の状態に巻き戻すことができる。

 何かで例えるのなら、RPGゲームのセーブデータがイメージに近いと言えるだろうか。RPGではコントローラーに一切触れていなくても、起動しているだけで勝手に村人が移動したりプレイ時間が増えていったりと刻々とデータが変わっていってしまう。だがセーブデータをロードすれば、村人の位置もプレイ時間もセーブした時点の状態に戻すことができる。あんな感覚だ。


 スナップショットは電脳空間の管理コンソールから簡単な操作で取得することができるため、専門知識がない人間であったとしても証拠の保全を行うことができるというわけである。部活や委員会の部長や委員長といった代表者は、電脳空間で何か事件が起きた際はこのスナップショットを取得するよう指導されているのだ。

 電脳鑑識委員会は捜査上の特権として、このスナップショット取得時点のデータを捜査データとして貰って捜査することができる。電脳空間のアクセスログやファイル、メモリなど。先程犬刃鑑識委員が提示した実行中プロセスのログなんかもまさにそれだ。


 だけど先にも言ったように電脳鑑識委員ではない青山さんにそれらの証拠が回ってくることはない。ログに関してはログへのアクセス権限を持つアカウントを作ってもらうことで解決するが、各ユーザが管理するプログラムのメモリに関してはシステムの都合上そうもいかない。プログラムのメモリというのは基本、他のユーザのものを参照することはできないのだ。

 だからこそ彼女は、電脳空間現場に出向いてをする必要があるのだ。その特異なる目の力をもってして。


「スナップショットを使って、事件発生時の状態に戻してもらえますか?」

「マジか……」


 青山さんの言葉に丹下部長さんをはじめ、その場にいた部員全員の顔色が蒼白色になる。

 スナップショット取得時点に戻すということは、事件発生時の状態に戻すということ。それはつまり暴走した状態のスパーリングプログラム (プロ級ジェノサイドモード)と再び対峙することになるのだが……曲がりなりにも部活動としてボクシングをたしなんでいる彼らが怖がるなんて、そのスパーリングプログラム (プロ級ジェノサイドモード)そんなに恐ろしい存在なんだろうか。

 すっかり怯えた様子の彼らに青山さんはむすっと唇を尖らせる。


「そこは、協力してくれないと……困る」


 プログラムは実行されることで電脳空間のメモリに展開される。

 メモリにはプログラムのコードやデータなどの様々な情報が含まれるため他のユーザがアクセスできないよう電脳空間によって厳密に管理されているのだが、青山さんは電脳空間でプログラムを見ることでその制限を飛び越えてプログラムのメモリを読むことができる『バイナリアンシンドローム』という病気の持ち主だ。

 ただしいくらメモリが読めると言っても所詮読めるのは0と1のデータバイナリデータであり、普通の人間にとってそれらは何の意味もなさない数字の羅列に過ぎないのだが、青山さんに関しては例外で、彼女は0と1のデータバイナリデータからプログラムの挙動や取り扱うデータを読み解くことができる。

 と、まあ聞くだけならなんとも凄そうな力だが弱点もあって、その目でプログラムを見ないとメモリデータを見ることができないのだ。

 なので青山さんとしては、暴走した状態のスパーリングプログラムを見ないとプログラムのメモリを見ることができない。メモリを見ることができなければ証拠集めはできず、いつまでも経っても捜査が始められないということになる。


 沈黙という名の膠着こうちゃくが続く。

 だいぶ渋っていた丹下部長さんだったが、やがて諦めたようにため息をついた。


「……わかった。だけど一瞬切れるよ? 事件発生時に戻したら当然、2人のアカウントも消えるわけだから」

「構いません。アカウントを作り直して貰えれば。お願いします」


 うなずいた丹下部長さんがターミナルを操作する。

 直後ブラックアウトによる一瞬の遮断。その直後、私たちは再びボクシング部の電脳空間へとやってきた。

 丹下部長さんを始め、先程と同様他の部員たちもいる。ただしここは今日のボクシング部電脳空間ではない。

 スナップショットによって巻き戻った『昨日の事件発生時のボクシング部電脳空間』だ。

 だが肝心のスパーリングプログラムの姿が見当たらない。『今日のボクシング部電脳空間』と『昨日のボクシング部電脳空間』に違いが見当たらないのだ。

 一体どこにいるのだろうと見まわしたその時、突如爆発にも似た音が部室に響き渡る。

 音が聞こえてきたのは閉じられた両開きの扉からだった。頑丈そうな鉄扉の前には、ダンベルやらサンドバッグやらが雑多に積み上げられている。どうやら扉が開けられるのを防いでるようだが、扉は向こう側から激しく何度も叩かれており、今にも破られそうだ。部員たちが慌てて扉を押さえに向かった。


「あの扉の向こうだ。いきなり襲いかかってきたもんで、どうにかして俺たちがあっち側に閉じこめたんだ。落ち着いてスナップショットを取りたくてね」


 丹下部長さんが私たちに向かってささやくように言う。

 先程からあの扉を叩いているものの正体。それがスパーリングプログラムということか。


「とりあえず一度実物を見ておきたいですね。扉を開けてください」


 言い放たれた青山さんの言葉に丹下部長さんは信じられないものを見る目で振り返る。


「襲いかかってくるぞ」

「電脳鑑識委員会と違って、私、直接見ないとわからないんです。大丈夫、こっちには千鶴がいます」

「千鶴がいますって……」


 丹下部長さんは私に訝しげな顔を向ける。


「こんな細身の女の子にどうにかできるもんじゃないんだぞ?」

「まあ見ててくださいよ」


 先程から私を介さずに危なげな会話が繰り広げられているような気がする。

 私は一言も大丈夫とは言っていないのだが、完全に安請け合いではなかろうか。

 しばらく青山さんと問答を繰り広げていた丹下部長さんだったが、たがて観念したようにため息をつく。


「……わかった。まあ万が一のことがあったとしても本当に死ぬわけじゃないしな。おい、みんな離れろ」


 彼の指示で部員全員が蟻の子を散らすように扉の前から離れる。

 頑丈そうな鉄扉だが、もはや内側からの衝撃を抑えきれなさそうだ。

 青山さんが私の肩を叩く。


「さあ、そろそろお見えだ。千鶴、覚悟はいい?」

「駄目って言っても無理なんですよね?」

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