スパーリングプログラム
ボクシング部の部室のドアを開けると、威勢と熱気。それからミット打ちの乾いた音が私たちを出迎えた。
部室の中央に設置されたリングの中ではスパーリングが行われている真っ最中であり、リングの周囲では他にも10名ほどの部員たちが部活に勤しんでいる。
「お邪魔にならないようにしましょうね」
「わかってるよ。いきなりあの中に飛び込んでいって踊り出したら、完全頭おかしい奴でしょ私」
「そういうことじゃなくて、静かにしててくださいねという意味で言ったんですが」
本気で言っているのかこの人。
冗談なのか何なのか真剣に悩んでいると――、
「おお、来てくれたか」
部室の入り口に突っ立っている私たちの姿を見つけた坊主頭の男子部員が、待っていましたという勢いでパイプ椅子から立ち上がって、こちらへと歩み寄ってくる。学校指定の赤ジャージという出で立ちだ。
私は男子部員へと頭を下げる。
「すいません、遅くなりました」
「いやいや。もしかしたら来ないかもしれないという話だったからな。来てくれただけでありがたい。改めて、3年のボクシング部部長、
「段平?」
「青山さん」
ものすごく余計なことを言う先輩をたしなめて、私は正面に向き直る。
「改めて、白鞘千鶴です。こっちが青山薫」
「ああ、君が。確か青山さんは――、先日の隠先生の事件も解決したとか」
探り調子で会話を始める丹下部長さんだったが、肝心の青山さんは眉をしかめて黙っている。
どうやら若干まだ『拗ね』が残っているらしい。
仕方ない、と私は懐からアメの包みをひとつ取り出す。こういう時のために作っておいた私謹製のアメ。さすがにプロの作ったものには劣るだろうが、それでもこの難物の機嫌を少しでも取り戻すには十分だ。
「青山さん、口開けて」
私は彼女を振り向かせると、口にアメ玉を1つ放り込んだ。
「今はそれで我慢してください」
こちらをにらみながら、それでも口の中のアメ玉を味わっていた青山さんだったが、しばらくして、呆気に取られた様子の丹下部長さんへと向き直る。
「丹下部長、事件の説明をお願いします」
「え? あ、そうだったな」
目の前の光景にあ然としていた様子の丹下部長さんだったが、「おい、椅子をふたつ」と傍らにいた男子部員に声をかけ、私たちにパイプ椅子を2脚用意してくれる。
私たちは丹下部長さんと向き合うようにしてパイプ椅子に腰掛けた。
「事件――についてなんだが、実はここ2週間、うちの電脳空間でスパーリングプログラムが勝手に動き出すという現象が起きているんだ」
「スパーリングプログラム?」聞き慣れない単語に青山さんが当惑げな声を発する。
「うちの電脳空間で動かしてるスパーリング用のプログラムだよ。部員の練習相手になるんだ」
「あー、ボクシング部ってそうやって電脳空間を使ってるんだ」
腑に落ちたようにひとりごちる青山さんに丹下部長さんは怪訝な表情を作る。
「何の話だ?」
「なんでもありません。続きをお願いします」
続きを促す私に丹下部長さんは「ああ」とうなずいた。
「2週間の間にスパーリングプログラムが勝手に動いたのは計3回。先週の火曜日、金曜日、……そして昨日もまた動き出した。何の前触れもなく、いきなりだ」
「それだけ?」と青山さんはにべもない反応を見せる。
「それだけとは言うがプログラムが勝手に動いてるんだぜ? 不気味だろ。何度お祓いに行こうと思ったことか」
冗談めかして言って、私たちが笑っていないことに気づいた丹下部長さんは少し顔を赤らめる。私だけでも笑ってあげた方がよかったのだろうか。
丹下先輩は取り繕うようにして小さく咳払いをした。
「それに一番の問題として、危険なんだ」
「危険?」青山さんが眉をひそめる。
「スパーリングプログラムにはいくつかモードがあるんだが、勝手に動いたスパーリングプログラムはどういうわけか毎回プロ級ジェノサイドモードというモードで動く」
「何その頭悪そうなモード」
「侮るなかれ。実力だけで言えば世界のトッププロにも
思い出したのだろうか。私たちに話して聞かせる丹下部長さんは、少し顔色悪く見えた。
「だからそういう不具合があってから使わないようにしていたのに、どういうわけかまたいつの間にか実行状態になっていたんだな」
「あの対策なんですけど、例えば処分しようとかは考えなかったんですか?」
私の質問に彼は腕を組んでうなる。
「何度か削除しようとは考えたけどね……結構高かったんだよアレ。作成はプログラミング部に頼んだんだけどね」
「そのプログラミング部は何と?」
「一応相談はしたんだけどね、特にバグの類は見つからなかったとさ」
バグは見つからなかった――。
いや、そもそもバグがあったとして、勝手にプログラムが動き出すなんてことがあるのだろうか。
プログラムというのは基本、何らかの手段をもって動かさなければ動かない。
自分自身を実行するプログラムというのはなくもないが、それができるのは結局、プログラムが実行していればこそだ。
であれば今回の事件。トリガーはスパーリングプログラム本体ではなく、別の何かなのではないだろうか。
「だけど動いちゃったなら動いちゃったで、その都度スパーリングプログラムを止めればいいんじゃないの? 部長権限を持ってるあなただったら、電脳空間の管理コンソールから任意のプログラムを止められるでしょ?」と青山さん。
「そりゃそうだが、原因がわからないのは気味が悪いだろ? それに俺がいない時に起こるということだってあり得る。原因を特定しておきたいんだ」
「まあそれもそうか」
言ってから青山さんは思案げに天井を仰ぐ。依頼を引き受けるべきかどうか、考えているのだろう。
ただその考え込む時間があまりに長いものだから、丹下部長さんは心配そうな表情で私と青山さんの表情をうかがっている。
あまりいたずらに依頼人を不安にさせるのも良くないと、私は彼女の耳元で尋ねる。
「どうします、青山さん?」
生徒からの依頼、そのすべてを来るもの拒まずで捜査しなければいけないというわけではない。実際これまでに気が乗らないということで依頼を断ってきたことだって何度かある。
気が乗るか乗らないか。興味があるかないか。青山さんが依頼を受けるか否かは、それらに
「まあそうだね――。折角ここまで来たんだし、少しだけ見てみようか」
「おお、そうかそうか」
青山さんの返事に丹下部長さんは安心したように顔をほころばせると、ターミナルを操作する。
「それじゃ早速で悪いんだが、ふたりの捜査用アカウントについてだ。ボクシング部の電脳空間ではアクセス認証の方法に検査鍵方式を採用している。差し当たってアカウントを作るためにふたりのユーザ名と検査鍵ファイルを貰いたいんだが」
「了解です。千鶴、私の分も彼に渡してあげてくれる?」
「わかりました」
私はターミナルを操作して、丹下部長さんに私と青山さんの検査鍵ファイルを送信した。
丹下部長さんの言った検査鍵方式は、一般的な認証方式のひとつだ。
電脳空間にアカウント登録したいユーザは、手元でふたつのデータを生成する。ひとつは検査鍵、もうひとつは秘匿鍵と呼ばれている。検査鍵とユーザ名を電脳空間に登録し、残った秘匿鍵はユーザが誰にも渡さず自分で持っておく。
ユーザは検査鍵を登録した電脳空間にログインする際、秘匿鍵を使ってユーザ名と検査鍵をセットにしたデータをユーザが作成したデータとして署名したのち、暗号化された通信経路を経て電脳空間に送信。
電脳空間上で事前に登録されていたユーザ名と検査鍵をユーザから送られてきたユーザ名と検査鍵と比較して、違いがなければ認証成功とするという方式だ。この時、ユーザ名と検査鍵を正しい秘匿鍵で署名できていなければ認証は失敗となる。
やや強引な解釈ではあるが、電脳空間に登録された検査鍵と同時に生成された秘匿鍵を持っている人間を正式なユーザと認める認証方式と言えなくないかもしれない。
パスワードと違い、万が一電脳空間から検査鍵が漏えいしてしまったとしても、検査鍵から秘匿鍵を生成することはできないし、秘匿鍵自体はユーザの手元にあるのでアカウントが乗っ取られる心配もない。
また変更が難しい生体認証のように、一度認証情報が漏えいしてしまったら再発行がきかないということもない。鍵のセットを一から作り直すことも可能だ。もっともその場合は、すべての電脳空間に登録していた古い検査鍵を変更する必要はあるが。
ややあって、丹下部長さんはターミナルから顔をあげた。
「……アカウントを作って君たちの検査鍵を登録した。捜査の間は君たちの秘匿鍵を使ってボクシング部の電脳空間にログインできるはずだよ」
「ありがとうございます」
私は丹下部長さんに頭を下げる。
少々時間はかかったが、これで捜査を始められる。と言っても私にできるのはここまで。
あとはこの人――、青山薫の出番だ。
「やっとだね。それじゃ今から1度、潜ってみようか」
そう言って青山さんが立ち上がったその時――、
「その必要はねェ」
水を差すように、鋭い声が部室の入り口から聞こえてくる。
振り返るとそこにはひとりの男の姿があった。だがその姿は異質。
逆立った赤い髪の下には精悍な顔立ちと野犬のような鋭い目。上背のある筋肉質な身体。犬らしき金の刺繍が入った黒の上下ジャージの下に白のシャツという4点セットが見る者に威圧を感じさせる。ジャージの腹部には目を
「臭うねェ。現場を荒らすハイエナの臭いだ」
わざとらしく鼻を動かして男は不敵に口端を吊り上げると、ゆっくりこちらへと歩み寄ってくる。
肩を揺するようにして歩く彼は私たちを威嚇しているようにも見えた。
やがて男の足が青山さんの目の前で止まる。その身長は180センチ以上はあるだろうか。必然、30センチ近く身長の低い青山さんは彼を見上げる形となる。
青山さんを見下ろす男の目がつと細められた。
「テメェが噂の逆行分析者か」
「見覚えがあるバッジだね。けどあまりいい思い出はないな」バッジをにらみながら青山さんが忌々しげにつぶやく。
「高等部3年の
男はそう、高らかに名乗りを上げた。
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