【漫画原作】砂漠の風を追いかけて ― As Swift As the Desert Wind ―

スイートミモザブックス

01. 〈ツール・ド・フランス〉を夢見て

□ガボン、アフリカ 一月下旬

□ロードレース〈ラ・トロピカル・アミサ・ボンゴ〉第六ステージ



 ゴールまで四キロ、最後の上りに入った。先頭集団は五人。

「よし、ジャスティン、行け! アタックだ!」後方のチームカーから監督が叫ぶ。

〈チーム・バーリー〉のイメージカラーである鮮やかな緑色のジャージを着たジャスティンが猛然とペダルをこぎ、集団から飛び出した。そのままぐんぐんと後続を引き離し、コーナーを曲がって姿を消す。

「いいぞ、そのままゴールまで突っ走れ!」

「いけるわよ、ジャスティン!」セシリアも興奮のあまり、思わず無線に向かって叫んだ。

 しかし、〈ブルゲーニャ〉のエース、ユベーロが、逃がしてたまるかとばかりにジャスティンを追い始めた。残りの三人もなんとかついていこうとする。

「大集団との距離は?」監督が助手席から振り向いて鋭くきいた。

「四分です」セシリアは答えた。

 つまり、それほど余裕はないということだ。案の定、後方の大集団が距離を縮めてきた。ゴール前一キロで、差が一分を切った。チームカーはもう近づけない。

〝後ろの三人とは四秒差だ!〟チームメイトからの無線。

 セシリアは両手を組んで目を閉じた。

〝あと百――五十メートル! ユベーロとの一騎打ちだ!〟

 お願い――セシリアは祈った。

〝ゴール! 少し待て、どっちだ?〟しばし間があく。〝ジャスティンだ! やった! 優勝だあ!〟

「おおーっ」

「うわあ!」

 チームカーのなかが沸き立った。

 ようやく車がゴール地点に着いた。ゴールした選手たちとその自転車、チームカー、マスコミやファンでごった返している。

 セシリアは真っ先に後部ドアから飛び出した。まとめていたストロベリーブロンドの長い髪がほどけるのもかまわず、ちょうど勝利者インタビューを終えたばかりのジャスティンに駆け寄る。

「おめでとう、兄さん!」セシリアはジャスティンに抱きついた。

「ありがとう、セス」ジャスティンが笑いながら、力強い両手でセシリアの背中をぽんぽんとたたいた。

 監督のカート・ギブソンとメカニックのダン・ハーネスも、会心の笑みを浮かべてジャスティンに賞賛の言葉をかけた。

「よくやった、ジャスティン」

「おめでとう」

 ひととおり挨拶が済むと、ジャスティンはすぐさまファンに取り囲まれた。にこやかに握手やサインに応じる。ダークブロンドの髪と整った顔立ちをしたジャスティンは、女性に大人気だ。アップダウンのあるコースが得意な〝パンチャー〟らしく、筋肉質だがすらりとしている。妹の目から見ても、とにかく格好いい。

 セシリアが誇らしい気持ちで兄を見つめていると、ダンが目の前にやってきて、さっと手で合図し、歩き出した。セシリアはすばやくうなずき、あとに続いた。

 ステージレースはあと二日ある。八ステージのレースの合計タイムで、総合優勝が決まる。きょうの第六ステージで優勝したジャスティンは、現在のところ総合四位。一位のユベーロはすでに三分差をつけていて、追いつくのはむずかしいかもしれない。でも、まだ可能性はある。

 あしたの第七ステージのため、すぐにチームの自転車を洗って整備しなくてはならなかった。それがメカニックの仕事。正確には、セシリアはマネージャー兼メカニック助手だ。スケジュール管理、補給食やドリンクの準備など、監督に指示されたことはなんでもこなす。そのうえで、寡黙なメカニック、ダン・ハーネスに指導を受けながら自転車の整備も手伝っている。最初は自転車洗いや空気入れ程度だったが、最近ではちょっとした修理もやらせてもらえるようになってきた。

 チームカーに選手四人の自転車を積み、宿泊所に戻った。整備用に設けられた小さなスペースでメンテナンススタンドに自転車を立て、チェーン外して、まずはていねいに洗っていく。

 セシリアはジャスティンの自転車にホースで水をかけ、洗剤をつけたスポンジでぬぐい始めた。

 きょうのジャスティンのステージ優勝は、とても大きい。たとえ総合優勝が無理でも、三位以内はじゅうぶんに狙える。セカンドエースのアダムも現在総合十位、アシストのふたりもよい位置につけていて、チームとしても絶好調だ。今年の〈ツール・ド・フランス〉出場はさすがに無理だったが、来年はもしかすると……。

 セシリアは胸を高鳴らせた。

〈チーム・バーリー〉はプロチームの一ランク下に位置するプロコンチネンタルチームなので、〈ツール・ド・フランス〉などのワールドツアーには基本的に参加できない。しかし、主催者による特別招待枠、ワイルドカードを獲得すれば出場できる。〈ツール・ド・フランス〉出場は、すべての自転車競技選手の夢だ。もちろん、ジャスティンの幼いころからの夢であり、セシリアの夢でもある。

 スコットランドの子爵家に生まれたジャスティンとセシリアは、幼いころ避暑地のアバディーンシャーでよく遠乗りに出かけた。五歳年上の兄に負けずについていこうと、セシリアはいつも必死だった。しかし、ハイスクールで本格的に自転車競技を始めたジャスティンに、もうついていくことはできなくなった。

 セシリアは、外した前輪のホイールをブラシでこすった。女子ロードレーサーになりたいという夢はあきらめた。両親に反対されたからではない。自分には、とてもそこまでやる力と覚悟がないとわかったからだ。それで、ロンドンの大学に進学し、一時は自転車競技から離れた。しかし三年前、ジャスティンが〈チーム・バーリー〉に加わることになり、〈ツール・ド・フランス〉への夢が現実へと近づいてきた。

 どうしても、ジャスティンとともにツールを経験したい。チームの一員として。

 大学を卒業したセシリアは、兄のサポート役として、〈チーム・バーリー〉に加わった。両親は渋い顔をしたが、セシリアの熱意に根負けした。ただし、ツール出場の夢をかなえたら、この仕事はやめて、子爵家の娘らしくきちんとした結婚をするよう約束させられた。

 ほんとうにツールに行けるのなら、お見合いでも、結婚でもなんでもするわ。

 セシリアは手早くホイールをつけ直し、厚い布で自転車をふいた。ダンが洗い終わった自転車にオイルを差し、整備を始めた。そのすばやく着実な手つきには、いつもほれぼれさせられる。

「何をぼんやり見てる? 早く次のを洗わないと、真夜中になるぞ」ダンがちらりと目を上げて静かに言った。

「はい」セシリアはあわててホースを手に取った。作業しながら、横目でダンのみごとなメンテナンスを盗み見する。黒髪でいかつい顔をした大柄な男だが、指はすらりと長く繊細だ。年齢は四十を少し越えたくらいだろうか。ダンもかつては、プロコンチネンタルチームのスプリンターとして活躍していた。しかし石畳で激しいクラッシュに巻きこまれて大怪我をし、その後引退してメカニックとなった。寡黙できびしいが、とても公平な人で、女だからといってセシリアを軽んじはせず、甘やかしもしなかった。最近では気が向いたときに、簡単なメンテナンスのやりかたも教えてくれるようになった。

 一人前のメカニックになれるかどうかはわからない。でも、ジャスティンといっしょにツールへ行くために、できることはなんでもする。セシリアは心に誓った。


 ジャスティンは翌日の第七ステージで準優勝、第八ステージで三位となり、総合で三位の好成績を挙げた。総合優勝はユベーロだったが、〈チーム・バーリー〉はポイント数で〈ブルゲーニャ〉を上回り、チーム総合優勝を果たした。

「いよいよ、来年のツールが見えてきたわね、ジャスティン」

「どうかな。とにかく、ひとつひとつ大事に戦うだけだ。次は来月半ばのナビールだな」

「中東の国でのワンデーレースね。皇太子から直接招待を受けたんでしょう」

「ああ。バドゥルとは、十代のころトライアスロンでしょっちゅう顔を合わせていたんだ。久しぶりに会うのが楽しみだよ」

 中東へ行くのは初めてだ。どんな土地、どんなレースが待ち受けているのだろう。セシリアは期待に胸をふくらませていた。



□ナビール国王の宮殿 二月中旬



 ホテルのある市街地から三十分ほど車を走らせ、遠くに砂漠の丘陵を眺めながら木々のあいだを進むと、前方に巨大な宮殿が見えてきた。白い壁と金色のドーム型屋根が、陽の光に輝いてまぶしかった。

 鉄製の高い門の前に着くと、青い制服に身を包んだ衛兵が、運転手を務める監督に身分証の提示を求めた。カートが内ポケットから身分証を出す。衛兵はそれを確認したあと、車のなかをのぞいた。

 後部座席に座っていたセシリアは少し緊張したが、衛兵は何も言わず、無表情な顔で会釈して、門をあけた。

 車は中庭の巨大な噴水のわきをぐるりと回って、宮殿の正面玄関の前で止まった。近くで見ると、白い壁には美しいアラベスクの浮き彫りが一面に施されていた。ここでも衛兵がふたり、車に近づいてきた。助手席と後部座席の扉をあける。若い衛兵が扉を押さえたまま目を見開いた。セシリアが車の外へ降り立つと、その場に押しとどめるような仕草をして、もうひとりの衛兵に大声で呼びかけた。もうひとりの衛兵がセシリアを見て、やや落ち着いた声で何か答えた。どちらもアラビア語なので、何を言っているのかわからない。

 女が宮殿を訪ねてきたので驚いているのだろうか。イスラム社会では、女性がこんなふうに出歩くことはあまりないのかもしれない。一応、裾がくるぶしまである濃いぶどう色のドレスを着て、頭にスカーフを巻いて髪を隠してきたのだけれど。

 ジャスティンとカートも車から降りた。

「セシリアのことなら、皇太子に話は通ってますよ」ジャスティンが衛兵たちに向かって言った。しかしふたりはジャスティンの言葉を理解していないようで、言い合いを続けていた。

 若いほうの衛兵が、石段を上って入口へ向かった。もう一方の衛兵は、三人に向かってていねいに「少しお待ちを」というしぐさをした。

「確認に行ったのかな」監督が肩をすくめて言った。

 しばらくすると、若い衛兵が戻った。その後ろから、白いカンドゥーラ姿の中年の男性が早足で歩いてきた。口ひげをたくわえたいかめしい顔をしていたが、その顔つきには釣り合わないおもねるような声で、こちらに向かって話しかける。「ようこそ、マジャーリの宮殿へ。ロードレースチームのみなさまですな。男性のお客さまは、どうぞこちらへ。そして女性のお客さまは、こちらの者が別室へご案内します」若い衛兵を指し示し、玄関扉のほうへ歩き始める。

 別室? セシリアは驚いた。

「いや、いや」監督が抗議した。「私たちは皇太子殿下にご招待いただいたんですよ。セシリアもいっしょに」

「セシリアは、選手である僕の妹で、アシスタントでもあります」ジャスティンが憤然と言った。「皇太子殿下も了承してますよ」

「なるほど、なるほど。ですが、ここ宮殿では、男性と女性が同席することは禁じられておるのです」中年男性が強いアラビア訛りの英語で言った。「誠に申し訳ございませんが、女性は別室でお待ちいただくことになります」

「そんな……。門番は何も言わずに通してくれたわ。それに、ジャスティンは皇太子殿下の古い友人で、電話で直接お話もさせていただいたのよ」セシリアは思わず言ってしまってから、はっとした。中年男性が目を丸くしている。女性がこんな口のききかたをするのを、初めて見たと言わんばかりだ。

 そのとき、太く低い声が響いた。

「いったい何ごとだ」

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