第31話 嫉妬の水曜日

 例えば、甲子園を目指す野球少年を描く野球漫画があるとしよう。その物語には主人公が通う高校のライバル校がある。その高校は強豪校と言って間違いなく、甲子園常連校だ。その高校に主人公のライバルであり幼なじみでもある登場人物がいるとする。物語の終盤、高校3年の夏、いわゆる最後の夏の大会に臨む主人公だったが、甲子園常連校だったはずのライバル校が初戦敗退してしまう。その結果、特に躓くことなく主人公は甲子園に出場することができてしまう。できてしまうと言ってしまった。この物語は果たして面白いであろうか。そんなはずはない。きっと全読者が県大会決勝あたりでライバル校、そしてライバル選手と戦う展開を期待するだろう。物語とはそういうものだ。なんとも都合よくできている。絶体絶命!?みたいな展開にしておいて後にとんでもない打開策を持ってくることもできる。もっといえば何かを始める時、行動を起こすときにそのあとどうなるかなんて考えなくてもいい。後からどうにでも帳尻を合わせることができる。しかし、私の人生はそんなことはない。もちろん甲子園なんて目指すものもない、お互いの実力を認め合ったライバルもいない、その一つ一つの所作にドキドキして見るだけで照れてしまうような魅力的なヒロインもいない。いや、ヒロインと言っていいかわからないような登場人物が1人いるな、今は置いておこう。至って平凡で何もない人生だ。もし仮にライバルがいたとしても、戦う前に階段で滑って怪我をして試合にすら出れなくなってしまい、熱い展開にすらならない。いや、それはそれで物語らしいか・・・とにかく、私はそんな自分の人生が面白いとは思わない。長々と例え話を語っていたせいか、信号が変わっていたことに気付けずにいつもの倍以上待つことになってしまった。さすがに奴も私を見飽きたか。私にとっては信号も一種のライバルのようなものかもしれない。


「いよっ!少年!」

「今日はまた一段と元気ですね」

「そう?いつもこんなもんよ」

「そうですかね、確かに元気の平均値は高いですよね」

「元気の平均値?何それ」

「人の元気を数値化できるとしたら、あなたの数値の平均値はきっと、自分よりはるかに高く、日本人の平均よりもはるかに高いでしょうってことですよ」

「ふ〜ん、ま、そんなものがあれば確かにあんたよりは高いでしょうね」

「えぇ、間違いなく」

「でもさ、そんなもの、見えない方がよくない?」

「え?」

「きっとそんなものが数値化されてしまったら、うまく数値を上げる仕組みを理解する人たちが出てくるでしょう?その方法が世間に流布されてしまって、みんなから元気や嘘の元気が上手くなるだけだよ。本当の元気が何かわからなくなっちゃう気がする」

「そ、そうですかね」

「さあね、でも、目に見えないから、わからないからこそ元気を出して欲しかったり、誰かの元気をもらったような気がしたりして、他者と関わるんだよ、私たちは。理屈じゃないんだよ」

「厄介ですね、目に見えないものですし」

「そうかもね、きっと本当に私たちが大切にしなきゃいけないものって目に見えないものばかりだよ。そもそも気づくことが難しいんだよ、わかっていても気付いたら忘れてしまったり、知らないうちに自分の中から消えていくんだよ。だから、たまに思い出してね」

 珍しく知的な話をしている彼女を見ていると知恵熱でも出るんじゃないですか、と言いかけたがぶっ飛ばされそうなので抑えることにした。しかし彼女のことが馬鹿だと思ったことは一度もない。こう言う芯のある何かを彼女は持っている。そう言う人なのだ。こう言うところも私にはない彼女の魅力の一つなのだ。それはそうと、最後の一言は聞き流せない。

「何をです?」

「なんでもないわよ、それより、さっきさ、そこのコンビニあるじゃん?あのコンビニの店員さんにいつも元気で明るくて、気持ちがいいって言われたの、超嬉しかったわ〜」

 なんだそのキザな店員は、私もたまにいくがそんな店員は見たことがないぞ。でもまあ、私に対して元気だの気持ちがいいだの言うわけがないか。

「そうですか、それで機嫌が良かったんですか?」

「そうかもね」

「そうですか、それは良かったですね」

「何よ、もっと他の言い方ないの?」

「えぇ、自分はこれと言って面白くない人間なので。すみません」

「そんな卑屈にならなくても、別にあなたのことを揶揄してるわけじゃないじゃない」

「いいですよ、慰めは」

 これは、あれだ。私は今、めちゃくちゃダサい。さすがのダサさに軽くひいてしまう。彼女の魅力に圧倒され、それを褒める私以外の人間の存在に嫌気がさし、彼女と私を比べ勝手に意固地になっている。これはダサい。情けない。

「いいじゃない、あんたはあんたで。私とあんたは違うわ。あんたは私にはなれないし私はあんたにはなれない。て言うかなる必要ないし。元気だあるだとか気持ちがいいとか、そう言うことだけが人を測るものではないでしょう?少なくとも私はあんたにしかないものがあると思って接してる」

「そんなものないですよ」

「気付いてないだけよ」

「もういいですよ、慰めは、惨めになるだけですし。こんなもんですよ、自分なんて」

「まあ、そんなに自分を憐むのが好きなら止めはしないけど、いつか気づけるといいわね。私からはちゃんと見えているのに」

 なんて屈託のない笑顔をしているんだ、この人は。なんだと言うのだ。私に何があると言う。そもそも私に何があって何が足りないかなんて考えたことはなかった。平均的な普通な人間だと、心のどこかで勝手に思っていた。それならそれでいいじゃないか。考えるまでもない。答えはずっと前から知っているじゃないか。


しかし・・・何かこう、心が満たされないような感覚がして、見えない何かにすがりたくなるのは、憧れずにはいられないからだろうか、彼女に。


 その日の雲は曇天と呼ぶには少し遠い、鈍色の衣を施されていた。まるで私の心を超巨大な映写機を通して空に映し出しているようだった。

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