第20話 今はまだ

 半透明のスカーフがふわふわと浮遊している。

 それを指で捕まえ、泳がせてみた。重さは感じない。けど確かに布の感触はある、という奇妙な感覚が面白い。試しに指に巻いてみると、不思議なことに、覆われた部分が消えてしまう。半透明のスカーフの向こうには俺の指があるはずなのに、視覚はその更に向こう側の風景を映している。

 ははぁなるほど。明日香の服はこういうふうになっているのか。道理で服の下が透けて見えないわけだ。

 一体どういう仕組みだろう、と考えようとしてすぐやめた。明日香の存在そのものが意味不明なのだから考えるだけ無駄だ。

 後ろから伸びた手がスカーフをひったくる。慣れない手つきでスカーフを巻く明日香は、なぜかそっぽを向いていた。

 俺もなんとなく恥ずかしくなって、明日香と同じ方向を見る。窓から差し込む夕日は澄み切ったオレンジだ。明日香の体を透過して、彼女の姿を希薄にさせる。


「顔赤いよ」


 横目でお互いを確認し合う。


「お前もな」


「夕日のせいだよ」


「俺もだ」


 いつもは目線より上にいる明日香が、今は俺の肩に頭をのせている。俺の隣で、まるで床に立っているように。

 俺は明日香の手を、優しく握りしめる。小さく照れ笑いを漏らした明日香が、たまらなく愛おしい。


「もうすぐ、下校時間だよ?」


「ああ」


「帰る準備、しなきゃ」


「わかってる」


 囁くように言う明日香。


「帰りたくなくなった?」


 俺は返事をしない。明日香には解るだろう。


「へへ」


 廊下から足音が聞こえてくる。放課後、生徒のいなくなった校舎では、上履きの柔らかい靴音も聞き取れるほど静かだ。きびきびとした足音には憶えがある。


「綾ちゃんだね」


 まだ帰ってなかったのか。補習も生徒会も終わったってのに、何のために残っているんだあの野郎。

 扉が開かれる。入室した綾小路には、俺の背中が見えているだろう。隣に寄り添う明日香の姿は見えていない。改めてその事を認識すると、なんとも言えないやるせなさが込み上げてきた。


「これは驚きましたわ。会長、このような時間まで何をしておいでで?」


 普段の二割増しは険のある声色が、俺の背中を刺した。


「別に。取り立てることでもないさ。お前の方こそ」


「件の一年生とお話を」


 不機嫌そうに言う。


「その様子だと、反応は芳しくなかったみたいだな」


「虚言を弄されましたから」


 所詮俺達は高校の生徒会だからな。馬鹿正直に自らの罪を告白する輩は天然記念物並に希少だろう。

 机の引き出しを開閉する音が聞こえた。


「会長、下校時刻です。帰られませんと」


「校内の見回りは?」


「桃城先生がやって下さっていますわ」


 俺は隣を見やる。目が合い、顔を綻ばせる明日香。

 絶妙のタイミングで耳に入った綾小路の咳払いに、俺は内心動揺した。


「会長、どうかなされたのですか?」


 背を向けたままの俺を不審に思ったのか、綾小路が珍しく気を遣っているようだ。


「何もないさ。先、帰ってていいぞ。戸締りはやっとく」


 我ながら突き放したような言い方になってしまったと、言ってから思う。まあ、いつものことだ。

 数秒の静寂の後、綾小路の長い吐息があった。


「解りましたわ。それでは、失礼致します」


 扉が閉まり、足音が遠のいていく。

 生徒会室は再び静まり返ることになった。


「冷たいなぁ、誠は」


「いいんだよ。あいつにはあれで」


 正直なところ、明日香との時間を邪魔されて俺は些か苛立っていた。そんな俺を見ておかしそうに笑いを漏らす明日香が、俺の心を和ませる。

 俺は今、確かに満たされている。だが、そのことを自覚すればするほど、後々のことを考えてしまう。


「なぁ明日香。もし俺が……」


「なぁに?」


 無邪気に額を擦りよせてくる。俺は言葉に詰まった。


「いや、なんでもねぇ」


 幸せそうなこの微笑みを、消してしまうようなことは言うべきではない。例え、いつか然るべき時が訪れるのだとしても。避けようのな未来が待っているのだとしても。少なくとも、今思い悩むことではない。

 明日香の手を握りしめる。


「へへ。あったかいね」


 叶うことなら、この笑顔をずっと見つめていたいと願う。

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