第4話 依頼成立(裏)





 くたびれた。

 ああ、くたびれた。

 くたびれた。

 と、またもや一句詠んでしまったのは、あたしことナナちゃんです。七郎次が本名だけど、ナナちゃんでお願いします。

 東京駅に着くなり一仕事したせいで、電車に長い時間揺られた疲れと合わさって身体がだるい。

 叶うことなら、今すぐ寝てしまいたいんだけど……。

 あたしの正式な雇い主になる予定の軍人さんに、「馴染みの料亭で猛君が待ってる」と、言われながら、遠巻きにこの人の護衛をしていた人たちが用意した車に乗せられて来たからそういかないのよねぇ。

 

 「……」


 その、くだんの軍人さんはと言うと、料亭の一室に招き入れられて席についてから、何故かあたしをジーッと見てる。

 あたしも隣に正座して負けじと見返してるけど、見れば見るほど不思議な気分になる。

 この人って、本当に海軍の重要人物?

 確かに、死線を何度か越えている者が持つ独特の雰囲気はまとっている。

 でも、それだけ。

 身体は相応に鍛えているようだけど、猛おじ様に比べたら貧相だし、お偉いさんと思えるような威厳もない。

 護衛を指揮していた人の方が、この人よりもよっぽど偉そうに見えたわ。


 「到着早々、随分と派手にったじゃないか七郎次。五郎丸ごろうまるが言っていた通り、腕の方は問題ないようだな」


 そりゃあ、目標に飛び掛かる前から殺気を駄々漏れにさせてる五流が相手なら、あたしでも問題ないさ。

 あ、ちなみに五郎丸ってのは、猛おじ様がうちで酒を飲んで酔うたびに、「ラグビー選手で、五郎丸って名字の選手がその内出てくるんだが……」なんて、訳のわからない絡み方をされるあたしのとと様だ……は、置いといて。


 「ナナって呼んでって、何べんも言うたじゃろ猛おじ様。その歳で呆けちょるんか?」

 「呆けちゃいないさ。お前んとこは名前に無頓着だろう?だから、もう気にしなくなってると思ったんだ」

 

 普段は気にしないけど、面と向かって七郎次と呼ばれたら気にするんだよ。

 だってあたしは女だよ?

 小さかった頃は、変な名前って近所のガキどもにからかわれたんだから。

 まあ、全部無視してたけどさ。


 「猛君、来るのが女性なら女性と、どうして教えてくれなかったんだい?」

 「言ってなかったか?」

 「言ってない。彼女の方からそうだと名乗ってくれきゃ、僕は気づけなかったよ?」

 「あ~……言ってなかったか。そりゃあすまん。うっかりしてた」

 「はぁ……」


 あれ?気づいてなかったの?

 あたしはてっきり、気づいたからあたしの方を見てるんだと思ってた。

 

 「それに、彼女はまだ学生だろう?」

 「そうだが、何か問題か?」

 「大問題だよ!学生の本分は勉強!こんな血生臭いことに巻き込むなんて、僕は賛成できない!」

 「と、お前の依頼人(仮)は言ってるが?」


 猛おじ様が言った通り、何が問題なのかあたしにもわからない。

 あたしが学生をやってるのは世間の目を誤魔化すためであって、けっして勉強するためじゃない。

 今回の依頼を受けなくても、遅かれ早かれこの仕事を始めてたわ。

 だってあたしは、生まれながらの暗殺者。

 生まれたその時から血塗ちまみれになるのは決まってたし、人を殺したのだって今日が初めてって訳じゃない。

 修行で散々、猛おじ様が用意してくれた殺しても問題ない人間を殺してきたんだから、あたしの両手はとうの昔に真っ赤だ。

 だから、この人が言ってることはまったくの的外れ。それでも、断られると困ったことになるから……。


 「関係ない。そもそも、まだ依頼人はこの軍人さんじゃのぉて猛おじ様じゃろ?猛おじ様が帰れって言やぁ帰るし、護衛を続けろっちゅうんなら続ける」


 遠回しに、事情を知ってる猛おじ様に助けを求めるとしましょう。

 あの父様を言いくるめられる猛おじ様なら、なんとかこの人を説き伏せてくれるでしょう。


 「だ、そうだ。だから諦めろ小吉。この先、朝鮮戦争とベトナム戦争を控えているのに、お前を失うわけにはいかん」

 「それはわかってるよ。でも、朝鮮戦争はまだ2年以上も先だし、ベトナム戦争はもっと先だ。そんな先の戦争のために、せっかく大戦を生き延びた若者を僕は巻き込みたくない」

 

 おや?

 また戦争が始まるのかい?

 それでどうして、この人が死んだら困るのかあたしには皆目見当がつかないけど、だったら尚更、猛おじ様が言った通り死ねないんじゃないのかい?

 それに、この人は言うことが優しすぎる。

 戦争を間近に控えているなら、今は戦時と言っても良い。

 それなのに、この人の言うことは平時の理屈だ。

 いや、もしかしてこの人は……。


 「軍人さんは、あたしの腕を信用してないっちゅうことかい?」

 「違う!そうじゃない!僕は君みたいな女の子に、人殺しなんてさせたくないんだ!」

 「あたしが男じゃったら、えかったんか?」

 「良くない!例え君が男だったとしても、僕は同じことを言ったよ!」


 なるほどね。

 やっぱりこの人は、今を平時ととらえている。

 だから、必要な殺しでも殺しを悪いことだと思ってるんだ。

 う~ん……。

 これは育ちが違うが故、なんだろうねぇ。

 この人とあたしとでは、人に対する価値観が違いすぎる。

 この人にとって人とは、本来ならとうとぶべき者なんだろう。

 大戦中もきっと、敵が死んでも味方が死んでも、心を痛めてたんじゃないかしら。

 人なんて、血を分けた家族ですら、そこらに落ちている石ころ程度にしか思えないあたしとは大違いね。


 「猛君……いや、大和陸軍中将。今回の件は、海軍中将として正式にお断りします。彼女にも、帰ってもらってください」

 「相変わらず、気が弱そうな面をして頑固だな。わかった。お前がそこまで言うなら……」


 あ、これはまずい。

 猛おじ様が説き伏せられかけている。

 父様すら言いくるめて、あたしを東京くんだりまで来させた猛おじ様を気圧けおして黙らせようとしているこの人の頑固っぷりは尊敬に値するけど、これはまずい。

 だったら、多少強引だし理不尽だけど……。


 「ちょっと軍人さんや。東京くんだりまで来させちょいて、ちょっとばかし勝手すぎゃあせんか?」


 話を中断させるために、暮石流呪殺法くれいしりゅうじゅさっぽうついの段 狩場かりばを発動。

 ちなみに暮石流呪殺法は、暮石家開祖である弥一郎の生家せいかに代々伝わっていた呪法を、暗殺術に仕立て直したモノよ。

 それは軍人さんにはまだ見せていないの段、仮縫いに始まり、今まさに、軍人さんと猛おじ様をひれ伏させているついの段、狩場と続く。

 まあここまでは、相手の動きを封じるだけのモノ。

 暮石流呪殺法の真価は、その次から。

 それはさつの段、魂斬たまぎり。

 東京駅で、軍人さんを狙ってた殺し屋を殺ったヤツね。

 今はあたしの進退……いや、生死が懸かってる大切な局面だから詳しくは割愛するけど、このあとにりくの段、殺陣さつじん。そしてついの段、鬼のくりや。さらに段外として、厄除やくよけと柳女やなぎめがあるわ。


 「だけど、君は……」

 「お?猛おじ様ですら身動き一つできん、あたしの狩場かりばん中で喋るか。意外と肝は据わっちょるんじゃねぇ」


 これには本当に驚いた。

 狩場は、あたしを中心として半径三間さんけん(約5.4メートル)内にいる人間を、身動き取れない状態にする術。

 筋骨隆々と言う言葉が服を着て歩いていると言っても過言ではない猛おじ様でも、狩場の中では喋ることすらできない。

 なのに、この人は口を開いた。

 それどころか、声すら出した。

 そんなこと、父様や兄様ですらできないのに……と、感心している場合じゃあないか。

 

 「確かに、あたしは女で学生。じゃけど、それは仮の姿。あたしは生まれた時から暗殺者なんじゃけぇ、アンタに妙な同情をされるいわれはない」

 「だけど……!」

 「おお、自力で狩場を抜けたんか。大したもんじゃねぇ。ほれ、猛おじ様も見てみぃ。この軍人さん、見た目が嘘みたいに肝っ玉が大きいぞ」


 咄嗟に、台詞だけとは言え驚いた風をよそおえた……っ言っても、感情を表に出すことができないあたしには関係ないか。

 でも、これは本当に度肝を抜かれた。

 この軍人さん、喋るどころか狩場をはね除けた。

 この人は何?

 本当に人間?

 こんな甘っちょろい奴が、あたしの術を……あたしを拒絶した?


 「ナ、ナナさん、猛君が……」

 「ん?おおっ、すまんすまん。忘れちょった」


 おっと軍人さんがあたしの度肝を抜いてくれたせいで、猛おじ様まで狩場に巻き込んでたのを忘れてた。


 「お、俺まで巻き込むな七郎次。その距離なら、仮縫いでも良かっただろうが」

 「折れようとした罰いや。それと、七郎次じゃのぉてナナ。もう一回いっとくかい?」

 「わかったわかった。だから勘弁してくれ」

 「よろしい。で、話を戻すんじゃけど、アンタに断られるとあたしが困る。じゃけぇ、断らんでほしい」


 ついでに、話も戻しておこう。 

 軍人さんに依頼を反故ほごにされると、あたしが困ったことになるのは本当だからね。

 その理由は単純明解。


 「もし断られたら、あたしは兄様に殺される」

 「い、今何て?殺される?お兄さんにかい?」

 「そう、兄の六郎兵衛に殺される」

 「それは、どうしてだい?」

 

 まあ、そうなるよね。

 でもあたし自身、どうして兄様に殺されることになるのか、父様から説明を受けていない。

 ただ一言、「依頼を断られたり失敗したりしたら、無抵抗で兄に殺されろ」としか言われていないから、知ってそうな猛おじ様に再度助けを求めよう。


 「七郎……ナナの家、暮石家は跡目争いの真っ最中でな。六郎兵衛と殺し合って生き残った方が、次期当主として家に戻れる」

 「それが、僕が断るのとどう関係するんだい?」


 ああ、なるほどね。

 あたしが仕事を始めた時点で、跡目争いも始まってたのか。

 だったら関係大有りだわ。

 これはうちの一族のしきたりなんだけど、当主になる者は一族を皆殺しにしなければならない。

 その理由は、当主を継ぐ際に伝えられるから、当主候補でしかないあたしは知らないんだけどね。

 でもそれだと、無抵抗で殺されろって部分がわからないわね。

 たしかしきたりでは、全力で殺し合わなければならなかったはずだから。


 「本来、暮石家は陸軍お抱えの暗殺者一族だ。その一族の末席とは言え、ナナを海軍であるお前の護衛に付けることに現当主が難色を示してな。仕事を断られたり失敗した場合は、無抵抗で六郎兵衛に殺されるという条件付きで借りることができたんだ」

 「な、なんて勝手な理由だ。海軍には僕のシンパだっているんだよ?なのにそこまでして、ナナさんを僕の護衛にする必要はないじゃないか!」


 うん、そこは軍人さんに同意。

 本当に勝手な理由だわ。

 つまり父様は、お得意様である陸軍に筋を通すために、そんな条件を出したってことね。

 まあでも、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。

 金で動くとは言え、あたしの一族は陸軍からの依頼しか受けない。

 詳しくは割愛するけど、それは開祖である弥一郎が山縣有朋やまがたありとも小飼こがいの暗殺者だったからよ。

 その関係で、暮石家の人間は仕事を始めると同時に陸軍大尉の階級を与えられたりもするし、陸軍関係の施設ならどんな場所でも入れる特別な権限も与えられたりと便宜べんぎを図られる。

 そんな暮石家にとって、陸軍以外の依頼を受けるなんて御法度ごはっと

 今は猛おじ様が仮の依頼人になってるから陸軍が何か言ってくることはないけど、戦争中から不仲で有名な海軍、その重要人物の護衛にあたしが付けば、最悪の場合は陸軍の暗部に関わってきた暮石家は物理的に潰されかねない。

 それを防ぐために、父様はあたしの命を捨て石にしたんだわ。


 「暮石の人間以外に、お前を護りきれる人間がいなかったからだ。いいか小吉。お前は陸軍のお偉いさんからも狙われてるんだぞ?そしてさっきも言ったが、暮石家は陸軍お抱えの暗殺者一族だ」

 「だから、残りの者が僕の命を……」


 狙うでしょうね。

 実際、兄様はあたしよりも早く出発してたから、すでに東京に来ているはず。

 きっと猛おじ様の目論見を察した陸軍の誰かが、あたしが護衛についた場合の保険として呼び寄せたんでしょう。


 「そう言うことだ。本来なら、兄妹でお前の暗殺をやらせるつもりだったところを、無理を言ってナナを外してもらった。先に説明した条件も、そう言った理由からだ」


 あ、その話は初耳だわ。

 ん?じゃあ、この話が来る前に、父様があたしと兄様に「近いうちに、二人で仕事をしてもらう」って言ってたのはそれ?


 「なるほどね。じゃあ、僕はナナさんのお兄さんにも、命を狙われるってことだ」

 「理解、してくれたか?」

 「ああ、理解したし納得もしたよ」


 あたしはげんなりしてるけどね。

 だって兄様と殺り合うんでしょう?

 まあ、いつかは殺り合うことにはなるんだけど、まさか初仕事でそうなるとは夢にも思ってなかったわ。

 そしてあたしの人生が、たった17年で終わるともね。


 「じゃあ、護衛を受け入れてくれるな?」

 「受け入れるしかないじゃないか。まったく、君は昔からそうだ。大切なことを僕に相談もなく、勝手に決めて僕を振り回す。そのせいで死にかけたのは、一度や二度じゃないんだよ?」

 「それはすまないと思ってる。だが、俺の気持ちも察してくれ。俺は、お前に死んでほしくないんだ」

 「わかってるよ。だからいつも、最後にはこうして僕が折れてるんじゃないか」


 これは運命共同体って言えば良いのかしら。

 猛おじ様は、あたしなら兄様をどうにかできると思っているようだけど、あたしじゃあ兄様に勝てない。

 術の瞬間的な威力ならあたしの方が上だけど不安定だし、発動時間も短い。

 父様や兄様みたいに、安定した威力で長時間発動することができないの。

 だから不意を突いて先手を取れれば勝つ可能性があるけど、真正面から殺し合う状況になったら間違いなく負ける。

 それはつまり、この軍人さんも死ぬってこと。

 まあそれは良いんだけど、この二人、いつまで……。

 

 「男同士で見つめおうて、気持ち悪いんじゃが?」

 「気持ち悪いとか言うな。俺はともかく、現役JKのお前にキモいって言われた小吉がトラウマを刺激されてるだろうが」


 いや、気持ち悪いから。

 猛おじ様に自覚はないようだけど、あたしからしたらどっちもオッサンだからね……って言うか、JKって何?軍人さんにも通じてるってことは暗号か何かなんでしょうけど、台詞的にあたしのことよね?


 「ちょっと待ってよ猛君。確かに、現役JKでオマケに美人なナナさんにキモいって言われて若干傷ついたよ?でも、トラウマを刺激されるほどじゃあない」

 「前は、もっと酷いことを言われてたのか?」

 「そりゃあもう。何なら話そうか?前世でもリア充だった猛君が聞いたら、きっと同情しすぎて死んじゃうよ?」

 「いや、すまん。もう聞かないから、真顔で詰め寄るのをやめてくれ」


 う~ん。

 前々からそうだったけど、猛おじ様が言うことは全く理解できない。

 父様ですら首をかしげる猛おじ様の妄言もうげんに付き合えると言うことは、この軍人さんも同じ穴のむじなってことか。

 

 「おっとそうだ。ナナ、お前、得物はどうする気だ?丸腰じゃあ、術の効果も半減だろう?」


 あ、忘れてた。

 と言うか、興味がなかった。

 確かに猛おじ様が言う通り、暮石流呪殺法は武器を持った方が術にかけやすい。

 刃物が一番手っ取り早いから……。


 「適当に包丁でも買ういね」

 「包丁持って歩き回るつもりかお前は。そう言うと思って、用意しておいた」


 武器なんて何でも良い。

 と、思ってたあたしを無視して、猛おじ様がテーブルに置いたのは、若干反りが入った長さ約一尺(約30cm)ほどの黒塗りの棒。

 そして、その棒を腕なり脚なりに固定するためと思われるベルト。

 なるほど、これなら、包丁を持ち歩くよりは目立たないか。

 

 「どうだ?それくらいなら、お前でも扱えるだろう?」

 「まあ、これならね」


 そう言って、黒塗りの棒の両端を持って左右に引いて中身を見てみたら、思った通り短刀だった。

 軍人さんが目をまん丸にして驚いてるから、きっとかなりの業物わざものなんだろうね。

 あたしにはそういうのがよくわからないから、これがどれくらい凄いのかもわからないし、どれくらい切れるのかもわかんないけど。


 「そのハーネスで股下にでもくくっておけ」

 「股下に括っとくにゃあ長いよ。間違えて入ったらどうしてくれるんだい?あたし、まだ処女なんよ?」

 「ぶほぉっ!」


 この長さの物を股下に括れとか阿呆か。

 せめて半分の長さだったら有りだけど、さすがにこの長さは無理。

 思わず言ってしまった通り、どこにとまでは言わないけど間違って入りかねないわ。

 股下じゃなくて、ももの外側が妥当だね……って、何か脚に視線を感じるんだけど……。


 「なんか軍人さんが、いやらしい目であたしの脚を見ちょるんじゃが?」

 「ち、違う!僕はただ、そのスカートのたけなら腿の外側でも良いんじゃないかって思っただけで……」

 「おいおい小吉、お前はロリコンじゃなかったか?ナナはロリの範疇には入らんぞ?」

 「だから違う……ってぇ!猛君は僕をロリコンだと思ってたのかい!?」

 「だってお前、前世ではアニメオタクだったと言ってたじゃないか。アニメオタクとロリコンはイコールじゃないのか?その証拠に、お前はその歳で童貞だろう?今世でも、魔法使いを目指してるのか?」

 「それは偏見だ!」


 ロリコンって何?

 アニメオタク?

 それも軍の暗号か何かか……ん?最後の方に、あたしでもわかる単語が入ってたね。

 

 「ほうほう、軍人さんは童貞なんじゃねぇ」

 「いや、その……はい。恥ずかしながら」

 「別に恥じんでもええよ。あたしも処女じゃし、似た者同士じゃ」


 会話を聞いた限り、この人は猛おじ様の旧知。

 竹馬ちくばの友と言っても良い関係かもしれない。

 と、言うことは歳もそう離れていないはず、

 つまり、30歳前後。

 その歳で童貞なのは何故?

 の顔馴染みなら、機会はいくらでもあったはずだし、海軍のお偉いさんなら縁談話もあったはず。

 それなのに童貞なのは、この人の性格故なのかしら。

 例えば、惚れた女以外は抱きたくないとか、結婚するまで純潔を守る的な。

 堅っ苦しい服を着て、海軍のお偉いさんをやってるこの人が?

 それは落差らくさが激しい。

 男なんて、無害そうな顔してても隙あらば女を食い物にしようってやからばかりだろう?少なくともあたしは、兄様や猛おじ様からそう教わった。

 そんなあたしの常識をことごとくひっくり返してくれたこの人を見ていたら、妙な気分になった。

 胸の奥が温かくなると言うか、芯から熱くなると言うか、とにかく初めて味わう感情だわ。

 だったら、初めての感情を味わわせてくれたお礼と、死ぬことが決定してしまった謝罪を兼ねて……。


 「これからしばらく、よろしくね。小吉」

 

 若干馴れ馴れし過ぎたかな?

 と、思いながらも、あたしは右手を差し出しながら、今までの人生で十番目に覚えた名前を呼んだ。

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